草原に強い風が走り去り、ティアは栗色の髪を押さえて過ぎ去っていく落ち葉の行方を辿った。
セントビナーを出発してからの道中はさしたる妨害なく進み、今ではあのセントビナーの大樹でさえ肉眼で確認することもかなわない。
彼らは街道をかなり外れたあまり人の手の入っていない平野を通り、カイツールを目指してフーブラス橋を迂回した場所にあるという浅瀬を目指していた。
セントビナーで出会った旅人に、何日か前の大水でフーブラス橋が落ちたという話を聞いたためだ。
回り道という話を聞き、ルークはいつものごとく文句を言ったが当然聞き入れられるはずもなく、彼らは獣道のように荒れている道ともいえない道を進んでいる。
折々に休息を挟みつつ、彼らは順調に旅を続けていた。
――そんな彼らを彼女は今にも泣きそうな瞳で見ていた。
その少女――《妖獣のアリエッタ》はライガを連れて、人形を潰さんばかりにきつく抱きしめて立ちつくしていた。
桃色のふわふわとした髪は乱れて、息をゼイゼイと乱して、急いでここまで来たのだろうということをうかがわせていた。
ルークたちは不規則に並ぶ木々や奇岩を抜けて、フーブラス川のそばで足を止めて、なにごとか言い合っている。
そのにぎやかな声も川の流れや木々のざわめきで、彼女の耳にまで届くことはない。
その並外れた視力で、アリエッタは川岸へと向かうルークたちをようやっと捉え、胸を突かれたようにハッと息を呑んだ。ぎゅっと拳を握り目を吊り上げて近づこうとしたところで、アリエッタは弾かれたように物陰に潜んだ。
寄り添うように彼女のすぐそばに付き従っていたライガも同様に身を伏せて、多数の尻尾を複雑にくねらせて低く深くうなり声を上げる。
周辺には見る限り敵の姿はなく、身を脅かすようなものは無い。無いはずだというのに、身体に染み付いた野生のカンが、この先を進めば命は無いとささやいている。
フーブラス川の前で騒ぐルークたちを視界に入れつつも、恐怖で動かない足に戸惑い震えていた。
あまりにも遠い距離にアリエッタはきつく歯を食いしばり、目を細めて小さく見える彼らをにらみつけた。
泣きたいほど会いたい彼に、もうすこしで会えるのに!
震える足を励まして気を引き締めて、泣くような瞳をきょろきょろとさせながら前に進む。冷たい氷のような殺気が肌を優しくなで上げ、全身に鳥肌が立ち額にはじわじわと冷や汗が浮かんだ。今にも心が折れてしまいそうだった。
ライガは彼女を守るようにそばに立ち、深く身を沈めて毛を逆立て小さくうなり続けている。
と、導師イオンがマルクトの軍服をまとった男の手を取って、フーブラス川に入っていく様子が目に映り、アンリエッタは思わず何もかも忘れて走り出した。
しかし、その伸ばした手を打ち払おうとでもするかのように、上空から飛来した長細い矢のようなものがアリエッタの足元を抉る。
「だれ!?」
か細い誰何の声に答える者は無く、彼女はおびえた様子で周囲に視線を巡らした。ライガはアリエッタを守ろうとでも思ったのか、恐怖を振り切るように素早く走りよる
「っだめ!避けて!」
またしても、上空から矢が降り注ぐ。
警告もむなしく、ライガの足に身体に矢が突き刺さった。
彼女は危険を顧みることなく、倒れ伏すライガに駆け寄っていった。
周辺は静まり返り、草のざわめきが耳を打つ。
アリエッタは神経を張り詰めて、懸命に彼女の敵の気配を探ろうと視線をさまよわせた。いまだ尻尾さえつかむことができない。
だというのに、殺意を含んだ視線がいまだ彼女を捕らえて離さなかった。
小さくうなりながらライガは耳を伏せて、そっとすぐそばに立つアリエッタを見上げた。彼女はきつく歯を噛み締めて、瞳に仄暗い炎を宿しながら遠く彼方をにらみつけていた。
その手に抱かれた人形は彼女の腕の中で形がゆがみ、今にもへし折られてしまいそうだ。
「絶対に許さないんだから」
自分に言い聞かせるかのように、そっと呟いた。
赤い騎士は弓矢に手を添えたまま、わずかに下にずらして彼方を見据えた。
木の陰に隠れ潜むようにして木の枝の上に立ち、その鋼の瞳の先にいる桃色の髪の少女をにらみつけている。
少女はしばし探すようにこちらを見ていたが、ようやく諦めたのか傷ついた魔物を連れて振り返りつつ来た道を引き返していった。
アーチャーは皮肉げに唇を歪めてそれをしばらく観察していたが、彼女が十分にその場から離れたことを確認すると、途端に興味がうせたのか視線を返して自身のマスターの姿を探した。
ちょうどティアは川の中に入って、水をかき分けるように川を渡っている。
時々、後ろを振り向き川岸に立っているルークに何事かを話しかけ、ルークはルークで反発するように何か言い返しているようだ。
中天に差し掛かった太陽の光が、水の流れに反射してきらきらと輝いている。
ルークたちはそれに負けないくらいに生き生きと騒ぎながら、川の流れに逆らい渡っていく。
アーチャーはその様子に軽く目を細めて、ただ静かに見つめていた。
特に何があったわけでもない。
ただ、流れる川に日の光が反射して少し眩しかっただけだ。
ルークは困ったような顔で、頭の上にどっしりとかぶさっている仔ライガのホリンを片手でしっかりと押さえた。
落ちないように支えながら、両足に力を込めて川の流れに逆らうようにして川の中を進んでいく。
水位はここに来るまでに想像していたほどには高くはなかったが、実際に水の中に入ってみればルークの膝丈ほどにまでの深さがあった。
水に濡れてじっとりと足に絡み付いてくるズボンや、靴底のダボダボした感触にイライラしながら川を渡る。
「あー、もうめんどくせー」
「ほらがんばって、ホリンを落とさないようにね」
ルークより先に川を渡っていたティアは足を止めて振り返り、不機嫌そうな彼を見て気遣わしげに声をかけた。
ルークを見てというよりは彼の頭に載っているホリンを見てという方が正確で、「ほら、しっかり押さえないと落ちちゃうじゃない」などと釘を刺していた。彼女の腕の中ではミュウが代わりにルークを心配そうに見つめている。
ルークは嫌そうに水面を見つめて、おそるおそる水をかき分けて慎重に川を渡っていく。
時々、水の流れや水中の石などに足を取られそうになりつつも、ルークは先に川を渡っている皆を追いかけて足を進めた。
イオンは水面を見つめておぼつかない足取り川を渡りきり、川岸までたどり着いたところでホッとしたようにため息を吐いた。
ジェイドはイオンを守るようにすぐそばで彼を見ている。
彼の到着を待たず先に川から上がり、イオンを引き上げようと片手を差し出した。
「あ、ありがとうございます」
「いえ、おきになさらず」
ジェイドの手を取って川から上がり、ホッとした様子でイオンは感謝の言葉を口にした。
その言葉をさらりと交わし、ジェイドは彼の後ろでわいわいと騒いでいるルークとティアに視線を向けた。
飽きることなくあーだこーだと言い合ってる彼らを生暖かい目で観察していたところで、ふと表情を消して彼方を見つめた。
「どうかしましたか?」
「今、何か……。いいえ、たぶん気のせいでしょう」
ごまかすように言葉を濁して胡散臭げな笑みを浮かべ、彼方を探るようにながめた。
ようやっと3分の2まで到達したところで、ティアは深々とため息をついた。
流れはそれほどきつくはないが、やはり水の中を歩くのはいつもと勝手が違って疲れるものだった。
腕の中のミュウが顔をのぞきこみ「だいじょうぶですの?」と心配げに問いかけてくる。
「えぇ、だいじょうぶよ」
ティアはそう言って笑みを作り、早くこの川を抜けてしまおうと足を速めた。
まとわりつく水をかき分けて、水面に小さな渦を作りながら先を急いだ。
「おい、こら! 動くな! 落ちる!」
後ろではルークが焦った様子で叫んでいる。
ホリンはそろそろ大人しくしているのに飽きたのか、頭の上から降りようと身を乗り出していた。
ルークは仕方なく頭の上から下ろして、不器用に仔ライガを抱きかかえた。
しばらく腕の中でもそもそしたあと、しっかりと服にしがみついて周りを見渡した。ホリンは興味深そうに周りを見ていたが、すぐに飽きてしまったのか大きなあくびした。
「こ、こいつは……」
腕の中に収まって退屈そうにしているホリンに、人の苦労も知らないでとこめかみを引きつらせ、じっとりとにらみつけた。
もう、いいかげん放り出してしまいたい。
そんなできるはずもないことを考えて、ルークは深くため息をついた。
本当のところ、ホリンを持って川を渡らなきゃいけないなんて思っても見なかった。自分以外の誰かがどうにかしてくれるだろうと思っていたのだ。
しかし、ふたを開けてみれば、何故か自分がやらなきゃいけないことになっている。
……川岸でティアが当たり前のように、ホリンを渡してきたときは一体何のことかと思った。
「ルーク、だいじょうぶ~?」
「うっせーな。こんなの全然大したことねーよ!」
「あら、水を甘く見ちゃだめよ?
穏やかに見えたって、いつ足元をすくわれて川の中に引きずり込まれるのかわからないんだから」
「そ、そうなのか?」
「そうよ?
油断してたら見えない深みに足を取られて、転んだところを意外と速い水の流れにさらわれて、全身に水の重みが絡み付いて上手く体勢を立て直せずにいるところをじわじわと冷たい水が体力を削っていくし、その間にもそこからどんどん流されていって、木っ端のごとくあっちにこっちに流されて岩に打ち付けられたり波をかぶったり……」
「えぇい、もういいわ!
わかったから、気をつければいいんだろ?」
「えぇ、それがいいわ」
ティアは彼の言葉に満足げにうなずくと、早く川から上がってしまおうと歩き始めた。
ルークは恐ろしげに川をながめて、顔をしかめた。
彼女が嘘を言っているとは思わないが、ぱっと見ただけではそこまで怖いものだなんて思えない。屋敷にいたときに、幼馴染のガイに散々水の怖さを諭されてはいたが……。
それでも、ルークは心なしか顔を青ざめさせて、先ほどよりも慎重に慎重を重ねて水の中を歩いていった。
ティアはミュウが水に濡れないようにとしっかりと胸に抱きしめて、慎重に水底を探りながら足を進めていた。そうしてやっとの思いで、イオンとジェイドが待っている川岸にまで近づいた。
イオンはおっとりとした目でこちらを見ている。
ジェイドはそばに立ち周囲を警戒している。
はぁ、やっとついたと彼女はため息をついて、川岸に足をかけた瞬間、ティアは岩のコケに足を滑らせて正面から倒れこんでしまった。
おもわずミュウを放り投げてしまい、ミュウはくるくると空中を回って情けない声を上げた。あわててイオンがそれを抱きとめる。
ジェイドは感心したように、イオンと手の中のミュウを見やり「ナイスキャッチ♪」と手を叩いた。
「うぅ…」
ティアは小さくうなりながら恨めしげに顔を上げる。
顔をほんのりと赤らめて、身を起こしてその場に座り込んだ。
打ち付けた額を軽くさすりながら、心配そうに見ているイオンに大丈夫ですなどと答えた。
そして、駆け寄ってくるルークとホリンを見てごまかすように笑みを浮かべる。
「なーにやってんだか」
赤い髪をなびかせてルークはいそいで川を渡りきり、呆れたように座り込んでいるティアを見下ろした。
仔ライガを地面に放り投げて、その手をティアに差し出した。
「ほら、手!」
「えっ?」
なぜか不安げな表情を浮かべ、ティアは青い瞳を瞬かせて彼の差し伸べた手を見つめた。反射的に手を伸ばそうとして、触れる直前にふっと引き戻して中途半端に伸ばしかけた手をさまよわせる。
その煮え切らない様子にむきになったルークは、苛立ち紛れに身を乗り出してティアの腕をぐっと引き寄せた。
手を引かれ引きずられるように立ちあがった、と思ったら、たまたま足元に絡み付いてきていた仔ライガの縞模様の身体につまづいて、ティアはまた前方に倒れこんだのだった。
そしてルークも川渡りで疲れていたせいか、その場に踏ん張りきれずにティアをつかんだままで後ろに勢いよく地面に倒れこんだ。
「だ、だいじょうぶですか?」
「おやおや」
その様子をイオンは心配そうに、ジェイドは飄々として見ている。
栗色の髪が顔の前を横切り、青い瞳がルークの顔をのぞきこんだ。
ティアはルークに覆いかぶさったままの体勢で、きょとんとした表情を浮かべてルークの顔を見ている。
わずかに、風邪を引いたときに飲まされていた苦味の利いた薬のような匂いがした。
ほんの少しの間、お互いに黙り込んだままで見つめあう。
「はいはい、お二人とも。時と場所を考えましょうね」
そのジェイドの冷め切った言葉に、二人は飛び跳ねるようにして背中合わせに立ち上がった。そして、お互いにあさっての方向に視線をそらせて何ごともなかったように表情を取り繕った。
その様子にミュウとホリンは不思議そうな顔で首をかしげている。
「こっこここ、この先からキムラスカ領なんだよな」
「え、えぇ。この先を少し行けばカイツールって名前の街があったはずよ。あの辺りは非武装地帯で、六神将でも手を出しづらいと思うわ。
そうね。また、六神将が来る前に移動しなきゃ」
「そ、そうか」
ルークとティアはお互いに顔をそらしながら、ほんとに何もなかったかのように話し始めた。
「は、早く帰りてぇなぁ~」
「そ、そう」
「こ、こんなんならアクゼリュス経由の方がよかった、かも?」
「どうかしら、大水で橋が落ちてしまったし。
復旧するにしても時間が掛かるでしょうから、しばらくはアクゼリュスの方へは行けないんじゃないかしら。天災だけは、人の力ではどうしようもないわね」
「そ、そうなんだ」
「ほらほら、仲良しなのはよくわかりましたから。
こんなところで二人の世界を作るのはやめてください」
割り込むようにジェイドが水を差す。
その言葉に二人は顔を火照らせて、白々しいほどににこやかに笑うジェイドに噛み付いた。
「ちょ、二人の世界って」
「た、大佐!変なこと言わないでください!」
「ほんとに仲がいいですね。なんか焼けちゃいます」
「おい!」
「イオン様!」
空気を読んでないイオンの言葉がとどめの一撃を食らわせたのだった。
その言葉を聞いて、ルークは自分の髪と同じくらいに顔を赤くしたあと、ごまかすように「ほら、早く行くぞ」と言い捨てて、皆を置いて先のほうへと突っ走るように歩き出した。
その後姿を見やって、ジェイドはメガネを押し上げて「おやおや~」と面白そうに笑っていた。
その後ろではティアが恥ずかしそうに顔を伏せて小さくなっている。
と、ルークが突然立ち止まり引き返してきた。
「どうかしましたか?」
そう不思議そうにイオンが聞いたところ、ちょっとためらったあと「……カイツールってどっち?」と戸惑いがちに尋ねた。
「いやー、若いっていいですねぇ~」
しばし黙ったあと、ジェイドは爽やかな笑顔でそんなふうに言い放ったのだった。