五月、エストレガレス帝国皇帝ゼメキスは兵二十万を率いてトリアより西アルメキア領オルトルートへ侵攻。瞬く間にこれを制圧すると、そのまま全兵力をもって北西のエオルジアへとさらに進軍していった。フォルセナ大陸においていまだ最強の武を誇るゼメキスが二十万の兵を率いての侵攻は極めて強力であり、西アルメキア側がこれを止めるのは極めて困難であろう。
だが、開戦当初からかなり弱体化した帝国にとって、二十万の兵は全体の兵数の大半を占める。それだけの兵を侵攻に使うということは、その分帝国本土の守備が手薄になったことを意味している。西アルメキアがこの隙を逃すはずがない。オークニー城に駐屯していた旧パドストーの王太子メレアガントは百戦のゲライントと共に出撃し、王都ログレスの南西にあるディルワースへ向けて兵を進めて来た。そのまま一気にログレスへと侵攻する作戦であろう。
ディルワースは、周囲を標高五百メートル前後の比較的低い山に囲まれた城だ。山間を縫うように張り巡らされた街道上に建っており、この一帯を大軍で進行するのは極めて難しい。ゆえに、防御側が圧倒的に有利な地形ではあるのだが、土地が狭いゆえに防衛の拠点となる城がかなり小さいのが欠点だった。城を直接攻められると意外ともろい面も持ち合わせている。そのため、この地での敵を迎え撃つには、極力城へ到達する前に決着をつける必要があった。
エストレガレス軍の新総帥・シュレッドは、ディルワース防衛部隊の本陣の奥深くに控え、機が熟すのを待っていた。シュレッドが本陣を敷いたのはディルワース城内ではない。本陣は、城の北東にある山中に身を隠すように敷いていた。その兵の数は一万。そして、街道を挟んで西の向かいにそびえる山の中にも同数の兵を伏せていた。
ディルワースの城壁上には、街道上から見ると数万の兵が陣取っているように見える。しかし、実際には五千ほどしかいない。ハリボテを並べ軍旗を多く掲げることで多くの兵が居るように見せかけているだけだ。城は囮だ。西アルメキア軍が街道を進んで城攻めを行えば、東と西の山に伏した部隊がそれぞれ敵部隊の側面及び背後から攻撃する――これが、今回の帝国側の作戦だった。
だが――うまくいかなかった。
「――報告します!」
本陣に控えるシュレッドの側に兵が駆けて来て跪いた。「敵将メレアガントの部隊はディルワースへ向かわず、まっすぐにこちらへ進軍してきます! 数は四万。その勢いは凄まじく、すでに第一陣は突破されました!」
シュレッドは腕を組み、身じろぎもせず報告を聞いていた。敵はこちらが山中へ伏しているのに気が付いていたようだ。敵将メレアガントは西アルメキア軍の中でも秀でた武力をもっている。こちらの部隊には高地に陣取った利があるとは言え兵は一万。四万の突撃を止めることは不可能だろう。
黙したままのシュレッドに代わり、副官を務める兵が言う。「ええい! ならば、西の山の部隊を突撃させ、背後を突かせろ! 挟み撃ちにするのだ!」
「それが……西の山の部隊は百戦のゲライント率いる兵三万の襲撃を受け、すでにほぼ壊滅したとの報告が……」
「なんだと!」副官は声を上げる。
「ゲライントの部隊はそのまま山中に陣取り、動きを見せません」
それはつまり、山頂に留まることで戦場全体へ睨みを利かせていることだった。これにより、帝国側の動きは封じられたも同然だ。もしディルワース城に控えている兵を城外へ出撃させれば、ゲライントの部隊は山を下りてこれを迎撃するだろう。出撃させなければメレアガントの部隊へ援軍を送ることもできる。戦況は、完全に西アルメキア側に支配されたことになる。
新たな兵が駆けて来て跪いた。「報告します! 第二陣が突破されました! 敵将メレアガントはもうすぐそこまで迫っております!!」
「くそう!!」と、副官は苛立たしげに地面の土を蹴り上げた。「総帥! この作戦は完全に失敗です! すぐに兵を退きましょう!」
副官の言葉にも沈黙を続けるシュレッド。城を囮とし、城攻めを始めた敵部隊の背後を突く――副官の言う通り、この作戦は失敗した。それも、開戦後半日も経たずに。
――この俺が、無様なものだな。
シュレッドは目を閉じ、己を嘲る笑みを浮かべた。かつてフォルセナ大陸最強を誇ったゼメキスの部隊で軍師を務めていたのが、もう遠い過去のように思えた。
旧アルメキア時代、総帥ゼメキスの腹心として多くの戦場で戦ったシュレッド。拳闘士として最前線に立つことも多かったが、ゼメキスの部隊におけるシュレッドの役割は軍師であった。
シュレッドは十八歳のときにアルメキアへ仕官し、すぐにゼメキスと同じ部隊へ配属された。以来、カドールに囚われるまでの十五年間、常にゼメキスと共に戦ってきた。シュレッドは己の武力に絶対的な自信を持っていたが、ゼメキスの武力はシュレッドを大きく上回っていた。若い頃は負けじと張り合いもしたが、やがて自分は決してゼメキスの武力を超えられぬと悟ると、シュレッドは軍略を学ぶようになる。自分よりも武の才があるゼメキスに、戦いのみに集中してもらうためだった。これによりシュレッドは軍師としての才を発揮し、ゼメキスの部隊は戦場で多くの手柄を立てた。やがてゼメキスは軍総帥まで登り詰め、彼の率いる部隊はフォルセナ大陸最強と呼ばれるほどになった。そんなゼメキスを軍師として支え続けたことを、シュレッドは誇りに思っている。
だが、それも今や過去のものと認めざるを得ない。今回のディルワース防衛戦において、開戦後わずか半日で部隊は半壊。総大将であるシュレッドが控えるこの本陣へ敵が迫っている。そこに、アルメキア軍時代のシュレッドの勇姿は無い。それも仕方がないだろう。かつてはゼメキスと共に戦場を駆け巡ったシュレッドだが、アルメキアのクーデター時、デスナイト・カドールの罠にはまり、一年以上牢に囚われていたのだ。牢の中でも身体を鍛え、戦略を練ることはできる。しかし、戦場での勘は戦場でしか鍛えられない。シュレッドの勘はこの一年で大きく鈍ってしまった。さらに、アルメキア時代手塩にかけて育てたシュレッドの部隊は、カドールの手によって解体されている。現在シュレッドが率いている部隊はほぼ寄せ集めと言って良い。複雑な作戦の実行はもちろん、今回のような簡単な作戦ですら満足にこなせない。兵の士気も低く、わずかな劣勢ですぐに逃げ出す。総帥を差し置いて勝手に命令を飛ばしたあげく簡単に撤退を提案するような者が副官の座にいるのが良い例だ。
このような状況で、西アルメキア軍の攻撃の要とも言えるメレアガントやゲライントの部隊を相手に、勝てるはずもなかった。
「――総帥……総帥!!」
副官の声で、シュレッドは考えを中断し、目を開けた。
「総帥! 何を呑気に構えているのです! 今すぐログレスまで後退しましょう! 部隊を再編し、王都での決戦に賭けるのです!」
副官の言葉を胸の内で笑うシュレッド。部隊の再編など不可能だ。もう、この国に兵は残っていない。
王都ログレスへと通じる拠点は四つ。北のリドニー、南のトリア、北西のカドベリー、そして、南西に位置するこのディルワースだ。この内、リドニーには神官騎士のパラドゥール他二人の騎士が、トリアには領主であるランギヌスと魔術師ギッシュが、それぞれ守備に就いている。この二城の兵の数は一万から二万と、このディルワースとそう変わらない。カドベリーに入っている王妃エスメレーとミラ・ミレの双子の騎士にのみ、合計で五万の兵を与えた。残りの騎士と兵は、全てゼメキスへ預けてある。ゼメキスの部隊は南部より西アルメキアへ侵攻しており、もうこの国に予備の兵はいない。このディルワースを突破されれば、もはや西アルメキアの侵攻を止めることは不可能なのだ。
本陣を守る兵の一角が吹き飛ばされた。そこから、軍旗を掲げた部隊が侵入してくる。西アルメキアの旗ではない。掲げているのは旧パドストーのものだ。その先頭に立つのは、漆黒の鎧に身を包み、軍旗と同じパドストーの紋章をあしらった深紅のマントを羽織った騎士。旧パドストーの王太子・メレアガントである。
メレアガントはシュレッドを睨むと、挑発するようにあごを上げた。「フン。帝国四鬼将最後の一人というからどれほどのものかと思ったが、拍子抜けもよいところだ。この程度で俺を止めようなど片腹痛い!」
メレアガントの怒声に、副官は「総帥! 撤退を!!」と怯えた声で言った。
シュレッドは、一度大きく息を吐き出すと。
「副官よ。俺はエストレガレス軍の総帥だ」
静かな口調で言った。
「……は?」何を言っているのか判らぬ様子の副官。
「総帥である以上、目の前の戦況だけでなく、フォルセナ大陸全土を見る必要がある。俺の下で戦うならば、そのことを決して忘れるな」
「な……何を言っておられるのです! それよりも、早く撤退を!」
「撤退はせぬ。ここでメレアガントとゲライントの部隊を引き付ける、それが我らの役目だ」
「な……何を……」
「すでに、カドベリーからエスメレー后・ミラ・ミレの部隊が出撃し、オークニーへ侵攻している」
「お……王妃様が、オークニーへ……?」副官は戸惑った表情になった。
シュレッドは小さく笑う。オークニーを落とせば、メレアガントとゲライントの部隊は敵地で孤立する。そうなれば後方からの支援が得られず、徐々に疲弊していく。ログレスへの侵攻は困難となり、残された道は、強行離脱をするか、そのまま玉砕するかだ。
「し……しかし……」と、副官はためらいがちに言う。「それは、王妃様がオークニーを落とせた場合ではないでしょうか? もし落とせなかったら……」
「たかが女三人に何ができる――そう思っているのか?」
「い……いえ……そういうわけでは……」
「隠さずとも良い。そなたがそう思うのも無理はない。恐らく西アルメキアの連中も同じように思ったはずだ。だからこそ、メレアガントとゲライントという軍の主力二人でこのディルワースを攻めたのだ。今のオークニーの守りは、かなり手薄だ」
そう言った後、シュレッドはニヤリと笑い「とんでもない侮りだがな」と言った。
昨年十二月、リドニー戦にてノルガルドの白狼王ヴェイナードと軍師グイングラインの部隊をわずか一日で退けたエスメレー。その力は、もはやゼメキスにも匹敵するだろう。ミラ・ミレの二人も、仕官してまだ間もないものの、この一年で大きく力を伸ばしている。間違いなく、今後のエストレガレス軍を、そして、ゼメキスを支える要となる三人だ。現在西アルメキア軍の主力の内、君主ランスの部隊はエオルジアにてゼメキスの部隊と、コール老公の部隊はアリライムにてノルガルドの部隊と交戦中だ。オークニーを守っている騎士は大した敵ではない。ここにメレアガントとゲライントを引きつけておけば、オークニーは確実に落とせる。
メレアガントとゲライント――この二人は、間違いなく西アルメキアで最も力のある騎士だ。
だが、どれほど強力な騎士や部隊であろうとも、戦略的に無意味な地域に引き付けておけば、その力を発揮することはできない。エストレガレス軍の本命はここではない、ゼメキスやエスメレーの部隊こそが本命だ。西アルメキアはこちらの本命を見誤った。『ディルワースは王都ログレスに通じる重要拠点』『山間に建てられた難攻不落の砦』『そこを守るのは帝国軍新総帥にして四鬼将最後の一人』――これらの餌に、奴らはまんまと食いついたのだ。
「では、総帥は自ら囮になったと……?」副官が言った。
「強者のみが残る――それが戦場の掟だ」
シュレッドはそう言うと、左の掌に拳を打ち付け、静かに前に出た。戦うつもりだ。
拳闘士であるシュレッドは武器を持っていない。いや、拳闘士の名が示す通り、その拳こそが武器である。拳闘士の中にはナックルという四本指にはめて握りこむ金属製の武器を使用する者もいるが、シュレッドはそれさえも使用しない。両手首に防御用の小さな籠手を着けているだけだ。
「貴様が四鬼将最後の一人か?」メレアガントが剣の切っ先をシュレッドへ向けた。「この俺と戦えることを誇りに思うがいい!」
この言葉を、シュレッドは鼻で笑い飛ばした。
「何がおかしい? 貴様ごときが、この俺に勝てると思っているのか!?」
言うと同時に、剣を振りかざし突進してくるメレアガント。
シュレッドはわずかに腰を落とすと、左腕の籠手で、メレアガントの剣を受け止めた。
メレアガントの顔が驚愕で歪む。まさか受け止められるとは思っていなかったのだろう。シュレッドのことを侮っていたのだ。それも当然だ。このディルワースの戦いぶりからすれば、三流以下の騎士だと思われても仕方がない。
一年もの間牢に囚われていたシュレッド。牢の中で戦場の勘は鍛えられない。部隊を率いる力は、どうしても鈍ってしまう。
しかし、牢の中でも身体を鍛えることはできる。
食事と眠るとき以外のほぼ全ての時間を、身体を鍛えることに費やしてきた。身体中の筋肉は、むしろ牢に入る前よりも引き締まっている。決して壊れることのない牢の扉は拳を鍛えるのに最適だった。一日数万回殴り続けた彼の拳は、鋼のごとく硬くなった。
「――ぬああぁぁ!!」
まさに渾身の力を込めて突き出したシュレッドの拳は、漆黒の鎧ごとメレアガントの身体を打ち砕いた。