第一〇七話 アルスター 聖王暦二一六年九月上 イスカリオ/アスティン
ノルガルドとの国境を守るイスカリオ領アスティンの中庭で、自称政務補佐官にして死刑囚のアルスターは、旅芸人騎士のギャロを相手に、このまま戦いを続けるか、一度撤退するか、の、大きな決断を迫られていた。戦況は、一見するとこちらが有利なように思える。しかし、それは見せかけで、実は追い詰められているのはこちら、という可能性もある。現在有利なのは自分か敵か――その見極めは、長く続いたこの戦いの決着に直結するであろう。
戦況を見極めるため、アルスターは慎重に相手の表情を伺う。が、その顔からはなにも読み取れない。ギャロは常に道化師のフェイスペイントを施しており、表情が読みづらいのだ。衣装も、右半分はボーダーで左半分はドット柄、ひらひらの襟にゆったりとした袖とズボン、というピエロスーツだ。そのおどけた格好がアルスターの観察眼を鈍らせる。余裕たっぷりのようにも見えるし、逆にその格好で動揺を隠しているようにも見える。相手の見た目だけで戦況を判断することはできない。ここで判断を誤れば、それは即座に敗北を意味する。そうなると、アルスターは
――いや、と、アルスターは考え直す。ここで撤退したところで、次が今よりも良い状況になるとは限らない。むしろ良くなる可能性は低いだろう。相手の手の内が読めないとはいえ、いま得られる情報だけで判断すればこちらが有利なのは間違いないのだ。この状況で逃げるのは慎重なのではない、ただの臆病だ。自分は、このイスカリオの政務補佐官(のつもりだ)。大陸全土が戦争状態であることを考えれば、イスカリオ軍全体に命令を出す司令官と言っても過言ではない(と思いたい)。ここで部下(だと思う)の騎士に臆病な姿を見せては、今後の指揮系統に悪い影響を与えかねない(いま現在でも指揮系統など無きに等しいというのに)。ここは、勝ち負けなど二の次、イスカリオの政務補佐官(のつもり)にして司令官(だと思う)の強い決断力を見せつけるためにも、勝負に出るしかない!!(でも、負けたらどうしよう……)
ギャロが、「ふふん」と不敵に笑った。「アルスターのダンナ、ずいぶんと悩んでるでヤンスねぇ。そんな優柔不断なようじゃあ、この国の政務補佐官や司令官なんて、とても務まらないでヤンスよ?」
まるでアルスターの胸の内を読んだかのような挑発をするギャロ。その表情は相変わらず読めないが、道化師のペイントのせいでより憎たらしく見えた。やはり、ここで弱腰の姿勢は見せられない。今は攻めに転じる時なのだ。
「……そこまで言われては、このアルスターも
アルスターは覚悟を決めて宣言した。
「では……
ギャロの掛け声に合わせ、アルスターは
なのに!
同時にめくったギャロのカードに書かれていた数値は……3! すでにオープンになっている8・10のカードと合わせて、計21!!
つまり――この
「……そんな……そんなバカなああぁぁ!!」
アルスターの悲痛な叫び声が、城中に響き渡った。
昨年二月のゼメキスのクーデターより始まった大戦は、開戦前より軍備を整えていた北の大国ノルガルドによってレオニアが、大戦の発端となったエストレガレス帝国によって西アルメキアが滅ぼされ、さらなる激戦の様相を呈してきた。先の二国が大きく勢力を伸ばす中、やや遅れを取ってしまっているイスカリオと、いまだ大きな動きを見せないカーレオンにとっては、極めて予断を許さない状況である。
そんな中にあって、このイスカリオ領アスティンは、今までの激戦がウソのように、なんとものんびりとした時間が流れていた。
アスティンは、開戦当初はレオニア領のハドリアンおよびエストレガレス帝国領カーナボン・ソールズベリーと隣接しており、特に帝国から頻繁に侵攻された激戦地であった。しかし、帝国の目が西アルメキアへ向いたのを機に、イスカリオはカーナボンとソールズベリーへ侵攻し、これを制圧。アスティンは帝国から侵攻される憂いが無くなり、現在はノルガルド領となった北東のハドリアンからの侵攻にのみ警戒すれば良い状態となったのである。そのノルガルドも、現在は大陸中央のリドニー要塞やオークニー城などの帝国領土への侵攻に力を入れており、ハドリアンから侵攻してくる可能性は極めて低いと思われた。予断を許さない戦況であることは間違いないが、このアスティンでは、まだしばらくのんびりした時間が続くであろう。
「――へっへっへ。どうやら、またアッシの勝ちでヤンスねぇ」フェイスペイント越しに小狡い笑みを浮かべ、ギャロはテーブルに積み上げられた金貨をかき集めた。「これで、合計五千ゴールドの勝ちでヤンス。いやはや、今晩は美味い飯が食えそうでヤンスよ。ダンナ、毎度ありぃ、でヤンス」
集めた金貨を袋に詰め、ギャロ上機嫌で席を立つ。
アルスターは「お待ちを!」と引きとめた。「ギャロ殿! どうか……どうかもうひと勝負を!!」
「……アッシは別にかまいませんが、ダンナ、もう賭ける金を持ってないでしょう? 『いつもニコニコ現金払い』が、この国のギャンブルの鉄の掟でヤンスからね。勝負を続けるなら、金を用意してもらわないと」
ギャロの言う通り、アルスターは今の勝負に手持ちの金を全額賭けてしまったため、持ち合わせはゼロだ。これではギャンブルを続けることはできない。ギャロが言う『いつもニコニコ現金払い』は冗談でもなければ暗黙のルールでもなく実際に法律で定められており、破れば死刑となるのである(もちろん、この法を定めたのは現国王のドリストである)。持ち金ゼロでは勝負を続けることはできないが、それでも、このまま負けて帰るわけにはいかない。あの五千ゴールドは、アルスターの全財産なのだから。
この時、アルスターの中で、押してはいけないスイッチが押されてしまった。
「ふっふっふ。ご安心を。こんな時のために、私には秘策がございます」
「と、言いますと?」
「ここは対ノルガルドの最前線。軍資金は、たっぷりと蓄えております。そして、私はこの城の軍の全てを預かる身。すなわち、この城に蓄えてあるお金は、私の自由にできるのです!」
「……いや、さすがにそれはマズイのでは?」
「そんなことを言って、勝ち逃げは許しませんよ。待っていてください。今、金庫からお金を持ってきます」
席を立ち、本当に金庫へ向かおうとしたアルスターの身体が、いきなり
「ふぐらば!!」
と、氷づけにされたトドのような悲鳴を上げるアルスター。
「……頭を冷やしなさい。そんなことでは、いいカモにされるだけですわよ?」
中庭にキツイ香水の匂いがたちこめる。上品
「……はっ!? 私はいま、何を……?」
氷が解け、我に返ったアルスターはきょろきょろと辺りを見回した。ギャロに負けた辺りから記憶が無い。
「ブラックジャックで負け続けて一文無しになり、国のお金に手を付けようとしていたのです」ヴィクトリアは呆れ声で続けた。「別にそれでアルスターさんが身を滅ぼそうが知ったことではないですが、国のお金は陛下のお金。さすがに見過ごすわけにはいきませんわ」
「おお! そうでしたか! それは危ないところでした。陛下のお金に手を付ける……危うく死刑以上の厳しい罰を受けるところでした。ヴィクトリア殿、止めていただき、感謝いたします」
寒さと恐ろしさに震えながら、アルスターは深く頭を下げた。死刑よりも厳しい罰――それが本当に存在するのがこの国の恐ろしいところである。というより、この国で死刑はむしろ軽い方だ。アルスターは、ドリストが王座に就いてからすでに百万と二百五十七回の死刑宣告を受けている。
「アルスターさん、あなた、ギャンブルはやめた方がよろしくてよ? 勝負にアツくなって我を忘れるなんて、典型的にギャンブルに向かないタイプですわ」
ヴィクトリアの忠告に、アルスターはもう一度頭を下げた。「面目ないです。肝に銘じます」
「まったく……ギャロごとき小物にいいようにあしらわれるような人がこの国の政務補佐官だなんて、先が思いやられますわね」
「おおっと、ヴィクトリアの
「あら? 違いまして?」ヴィクトリアはアルスターからギャロへ視線を移し、挑発するように、口元に手のひらを当てる。
「アッシは仕官して間もないでヤンスから、騎士としてはまだまだ小物かもしれヤせん。しかし、事がギャンブルとなると話は別でヤンス。アルスターさん相手に全戦全勝したアッシの、どこが小物だと?」
「アルスターさんのような素人を相手に小銭を稼ぐ辺りが、小物そのものですわ」
「ほほう? そんなふうにおっしゃるからには、姐さんはさぞかし大物なんでしょうねぇ。これは、ぜひともお手合わせをお願いしたいでヤンスねぇ」
「残念でした。わたくしは、強くてイケメンの殿方にしか興味がありませんの。あなたのような小物でみょうちくりんな格好をした男、お相手にもなりませんわ」
「……そこまでバカにされちゃあ、アッシも男として引き下がるわけにはいきヤせん。この勝負、受けてもらうでヤンスよ?」
ギャロの声が低くなり、表情も、フェイスペイント越しでも判るほど険しくなった。
だが、ヴィクトリアは動じた様子も無く、「あらあら? 坊やのくせに勇ましいこと」と言って、肩をすくめた。「別に勝負して痛い目に遭わせても構いませんけれど……それより、
そう言うと、ヴィクトリアはギャロの腕を取り、ぐいっと引き寄せた。右手をギャロのあごに添え、妖しげな瞳で見つめた後、艶やかな唇を近づける。
「な……なにをするでヤンスか……色仕掛けでごまかそうったって、そうはいかないでヤンスよ?」あからさまに動揺するギャロ。言葉では拒みつつも、その目はヴィクトリアの唇に釘付けだった。
「あらあら? この程度で動揺するなんて、やっぱり坊やですわね」ヴィクトリアは意味深な笑みを浮かべると、滑らかな足取りでギャロから離れた。「安心なさい。わたくし、あなたごとき小物に興味はありませんから。教えてあげるのは、
そう言って、ヴィクトリアは左手を見せた。そこには、十数枚のカードの束が握られていた。
ハッとした表情になるギャロ。慌てて服のひらひらの袖を探った。そして、バツが悪そうな目でヴィクトリアを見る。
ヴィクトリアは勝ち誇った顔でギャロを見つめた。「ド素人のアルスターさんならともかく、わたくしの目はごまかせませんわ。あなたがアルスターさんの目を盗んでカードをすり替えていたことはお見通しです。そもそも、そんなひらひらの衣装でギャンブルをしているようでは、イカサマをしている、と、自分からアピールしているようなものですわ。次は、もっとうまく隠すことですわね」
「……こいつは、一本取られたでヤンスねぇ」ギャロは降参と言わんばかりに両手を挙げた。
「イカサマですと……?」アルスターは怒りをにじませた声を上げギャロに近づいた。「ギャロさん、あなたという人は……」
「おおっと、今さら金を返せと言うのは無しでヤンスよ? ほら、『バレなきゃイカサマじゃないんだぜ?』と、昔の偉い人も言ってるでヤンスから」
「いいえ認めません! 勝負は無効です! さあ、さっきの五千ゴールドを返してください! 私の全財産なのですから!」
「イヤでヤンス~」
中庭を逃げ回るギャロを追いかけるアルスター。しかし、すばしっこいギャロに追いつくことはできず、すぐに息が切れて倒れ込むことになった。
やれやれ、と、ヴィクトリアはまた肩をすくめた。「まったく……セコいイカサマで小銭を巻き上げる方もどうかと思いますが、子どもの小遣い程度のお金が全財産という騎士もどうなのかしら。ホント、この国にはロクな男がいませんわね」
「おっとっと、これは手厳しいでヤンスねぇ」アルスターの追跡を巧みにかわたギャロは、ヴィクトリアの言葉に苦笑いを浮かべた。「しかし、だったら姐さんは、なんでこの国に仕えてるんでヤンスか? あっし、ここに来るまではいろんな国を回って来やしたけど、いい男の騎士は、たくさんいましたよ? 北のノルガルドの白狼王や銀の騎士、隣のカーレオンの賢王にナイトマスター、帝国四鬼将のガッシュさん――」
「ギッシュ様です。一文字違うだけで大違いだと、前に他の方にも言ったんですけどね」
「そう、そのギッシュさん。他にも、もう滅びちまいやしたが、旧パドストーの王太子メレアガントさんや、レオニアの頭脳のなんとかボルグさん……よその国に行けば、姐さん好みの男前の騎士が、いくらでもいますでしょう?」
「最後の方はどなたか存じ上げませんが、まあ、そうですわね。殿方のお顔の偏差値だけならば、ハッキリ言って、この国は他国に大きく劣ると言わざるを得ません」
「ヴィクトリア殿! なんとヒドイことを!」息を吹き返したアルスターが声を荒らげた。「確かにこの国の騎士は、筋肉バカに万年金欠ちょび髭にごますりちょび髭と、ロクな男がいないかもしれません! しかし、騎士を容姿で判断するなど、もってのほかですぞ!」
「……ダンナの方がよっぽどヒドイでヤンスよ」
ギャロの言葉を無視し、アルスターは急に声を潜めて続ける。「……男前の騎士なら、そのうち私がスカウトしてきますので、どうか見捨てないでください。我が国はただでさえ人手不足な上に、まともな騎士がいないのですから。いえ、決してヴィクトリア殿がまともな騎士という訳ではありませんが」
「……あなたも大概ですけどね。まあ、それはさておき……ご安心を。イケメンというのも重要ですが、やはり、殿方は強くなくてはいけません。ドリスト様より強い殿方が現れない限り、わたくしが他の国に仕えることはありませんわ」
ヴィクトリアの言葉に、とりあえず安心するアルスター。イスカリオの王・ドリストは、やりたい放題好き放題の無茶苦茶な男だが、『強さ』という点に関しては、決して他国の騎士にも引けを取らないであろう。それに、ヴィクトリアはかつて旧アルメキアの魔術学校に留学していたことはあるものの、元はこの国の出身だ。こう見えて意外と愛国心があるのかもしれない。
「それで――」と、ヴィクトリアの表情が明るくなった。「肝心のドリスト陛下は、いまどちらに?」
「ああ、陛下なら、帝国を攻めるとかで、イリアさんらと一緒に北のカーナボンへ向かわれました」
「まあ!? またわたくしをおいて行ってしまわれましたの? つれないですわねぇ。せめて一声かけていただけましたら、わたくしもお供いたしましたのに」
毎日お昼近くまで化粧に時間を費やすこの女に合わせていたらどこにも侵攻できないだろうな、と、アルスターは思った。もちろん、口には出さなかったが。
「それにしても――」とギャロが言う。「イリアさん、もう陛下と一緒に出撃したんでヤンスか? あのお嬢ちゃん、一体何者でヤンスかねぇ?」
アルスターは首をかしげた。「……と、言いますと?」
「おや、アルスターさんはなんとも思っていらっしゃらない? イリアさん、先月ソールズベリーの戦いで、重傷を負ったんでヤンしょ? なのに、ひと月足らずで戦線に復帰して……ただのお嬢ちゃんじゃあないと思うんでヤンスがねぇ?」
ギャロの言うことに、アルスターは「うーん」と唸った。あれは先月の出来事だったか。もう三年近く経ったような気分だ。
先月上旬、アスティンの西に位置するソールズベリーが帝国からの侵攻を受けた。その際、イリアは帝国軍の総大将である剣聖エスクラドスと一騎打ちを行ったのだ。その結果、イリアはエスクラドスの刀に左胸を貫かれ、エスクラドスはイリアの太槍に腹を貫かれるという、壮絶な相討ちとなった。
総大将の負傷により帝国軍は撤退し、イスカリオはなんとかソールズベリーを防衛することができた。以降、エスクラドスの生死は不明だ。死んだという情報は入っていないから恐らく生きているとは思うが、少なくともまだ戦線には復帰していない。
それに対し、イリアはわずか一節の休養で怪我を直し、すでに戦線に復帰している。若いから、というだけでは説明がつかない。エスクラドスの刀は、完全にイリアの急所をとらえていたのだから。確かに、普通の人間ではありえない回復力だった。
「あら? 意外なところで気が合いますわね」と、ヴィクトリアがギャロに同意する。「わたくしも、あの娘はなんとなく怪しいと思っていましたの。ここだけの話ですけど、わたくし、以前あの娘が着替えている所を見たんですけど、全身に不気味な模様のタトゥーを入れてましたの。後で調べたんですけど、あれ、失われた古代魔術の文字でしたわ」
「古代魔術の文字……怪しさ満点でヤンスねぇ」
「ええ。あんな趣味の悪いタトゥーをするなんて、最近の若い娘の考えることは、理解できませんわ」
「いったい何者なんでヤンスかねぇ? 聞けば、バイデマギスのダンナやダーフィーのダンナも、あのお嬢ちゃんの正体は知らないと言うでヤンス。いつの間にか、陛下のそばにいるようになったとか」
「ああ」と、アルスターは頷いた。「イリアさんがお城に来た日のことは、陛下と私しか知りませんからね」
「おや? アルスターさんは、イリアさんの素性をご存知なんでヤンスか?」
「いえ、素性までは判りませんが……あれは、陛下が即位してから一年ほど経ってからのことでしたか。国境付近の荒野をさまよっていたイリアさんを、陛下が見つけたんです……というより、いきなり向こうから襲いかかって来たんですけどね」
「まあ! なんて恐ろしい!」ヴィクトリアが大袈裟に声を上げた。「荒野でいきなり襲いかかって来るなんて、まるで野犬ですわね!」
うまいことを言うな、と、アルスターは内心思った。あの日のことは今もよく覚えている。突如二人の前に現れた
「それで、襲われて、どうなったんでヤンスか?」ギャロが続きを促した。
「ええっと、私は、とにかく危険だと感じたので、陛下に逃げるよう申し上げたのですが、陛下も当時からあの性格ですから、面白がって戦ったんです」
「ほう? あのお嬢ちゃんが陛下と戦った? そいつはホントですかい?」
「はい。今のイリアさんからは想像もつかないかもしれませんが、事実です」
「それは実に興味深い勝負でヤンスねぇ。アッシも見たかったでヤンスよ。で、結果はどうなりやした?」
「ちょっとあなた、失礼ですわよ?」と、ヴィクトリア。「ドリスト陛下ともあろうお方が、あんな小娘に後れをとるわけがないでしょう?」
「まあ、そうですね」アルスターは頷いた。「イリアさんは怪我もしていましたし、さすがに陛下にはかないませんでした。で、気を失わせた後、陛下が連れて帰ると仰ったんです」
「ほほう? 自分を襲った者を連れて帰る? いくらなんでも、それは危険すぎるでヤンしょ」
「正直、私もそう思いました。もちろん反対したのですが、あの性格ですから聞き入れるはずもありません。結局、連れ帰ることになったのです」
「……で、結局何者なんでヤンスか?」
「それが、連れ帰った後、治療を施し、どうにか話を聞こうとしたのですが、私たちを襲う前のことは、何も覚えてないと言うんです」
「記憶喪失というヤツでヤンスか? だったら、イリアという名前は、どこから?」
「ああ、それは、陛下が名付けられたのです。『今日からお前はイリアだ』、と」
「まったくもって気に入りませんわね」ヴィクトリアが不満そうに声を上げた。「拾われ者の小娘が陛下のおそばにいるというだけでも腹立たしいのに、よりにもよってイリアという名前を頂くなんて……あの名前にどれだけ陛下の想いが込められているか、あの小娘は判っているのでしょうね?」
「おや?」と、アルスターは首をかしげた。「ヴィクトリア殿、イリアという名前について、何かご存知なのですか?」
「あら?」と、今度はヴィクトリアが首をかしげた。「むしろ、アルスターさんの方こそ、ご存じありませんの?」
「はい。陛下のことだから、どうせ適当に決めたのだろうと思っていました」
「そうですか……」と、ヴィクトリアは何か考えるようにあごに手を当てた。「まあ、そうですわね。
アルスターは古くからイスカリオに仕える一族の出ではあるが、ドリストが即位する以前は、城内では下級の文官にすぎなかった。それが、ドリストの即位と同時にこの国の貴族制度は廃止され、前王に仕えていた側近はすべて城から追放されることとなったのだ。代わりの側近として取り立てられたのがアルスターとキャムデンだった(もっとも、二人とも正確な肩書きは当時から『奴隷』、現在は『死刑囚』であるが)。ゆえに、ヴィクトリアの言う通り、即位する前のドリストのことはよく知らないというのが正直なところである。
「ヴィクトリア殿、イリアという名について何かご存知であれば、ぜひ教えてください」
「あらあら、これは困りましたわね。このお話、結構陛下のイメージに関わるんですけれど、どうしましょうか?」
と、ヴィクトリアは言葉では渋っているものの、その顔は言いたくてうずうずしているような様子だ。アルスターが、「そんなこと言わずに、お願いしますよ」と促すと、案の定。
「……わたくしが言ったということは、内緒にしてくださいましね」ヴィクトリアは、声を潜めて話し始めた。「実は、イリアという名前はですね――」
「ふむふむ」
と、アルスターは身を乗り出したが。
「げぶばっ!!」
悲鳴を上げ、勢いよく吹っ飛んだ。
「――戦争中だというのに、ずいぶんと楽しそうだなオメーら? んー?」
いつの間に現れたのか、ドリストが必殺のとび蹴りをアルスターのお尻に炸裂させたのだった。
「これは陛下。ご機嫌麗しゅう、でヤンス」ギャロはひらひらの衣装の裾を持ちあげるお嬢様スタイルで頭を下げた。
ドリストはギャロを睨みつけた。「なんの話をしてたんだぁ、ギャロ? オレ様も混ぜてくれよ」
「いえ、陛下がイリアさんと出会った時の話を聞いておりヤした。いやはや、さすが陛下、と、感心してたんでヤンスよ。正体不明の騎士をそばに置くなんざ、よほど肝が据わってないとできないでヤンスからねぇ。いつ寝首をかかれるか判りヤせんから」
「ふん。オレ様ほど強ければ、そんなモンは恐れるに足りん。逆に、退屈せずにすむくらいだぜ。それに、正体不明の騎士という点じゃ、テメェだって大して変わらねぇだろうが。ええ? 流れ者のピエロが。テメェもオレ様の首を狙ってみるか? んー?」
「いえいえ、アッシみたいな小物が、そんな恐れ多いこと、できるわけがないでヤンス」
「腰抜けが。そんなんでこの国の騎士が務まると思うか? オレ様はなによりも強いやつが好きなんだ。弱ぇヤツに用は無いんだぜ? さあ、どうする? オレ様の首を狙って返り討ちに遭うか、この国を出て行くか」
「陛下、あんまりアッシをいじめないでください。次からは気を付けますので」ギャロは両手を挙げ、降参の意思表示をした。
「……ふん、まあいい。それよりも……」ドリストは、鋭い目をヴィクトリアに移した。「ヴィクトリア。オメー、なんか余計なことを知ってるみたいだが、ヘタなことを口走ったらどうなるかは判ってるよなぁ? 化粧禁止の法律をつくるくらい、オレ様にはどうってことないんだぜ?」
化粧禁止――それは、ヴィクトリアにとって死刑よりも厳しい罰だ。半年ほど前、ヴィクトリアは拠点防衛失敗の罪で一節の間この刑を喰らったが、その間、誰の前にも姿を現すことがなかった。それが法律で全面的に禁止ともなると、彼女はもうこの国では生きていけなくなる。
「おほほ、なんのことでしょう? わたくし、何も知りませんでしてよ? では、わたくしはこれで失礼します」
ヴィクトリアは恐怖におののいた笑顔でそう言うと、そそくさと去っていった。
「ケッ。どいつもこいつも、オレ様がいないとすぐに気を抜きやがる。戻ってきて正解だったぜ」
「――しかし陛下」アルスターはお尻をさすりながら起き上がった。「なぜ戻られたのです? 帝国を攻めるため、カーナボンに向かわれたのでは?」
「気が変わったんだ。今からノルガルドを攻める。アルスター! ギャロ! ついて来い!」ドリストはマントをひるがえして城門へ向かう。
「またそんな急な……攻めると言っても、我々には準備が――ぐはぁ!」
呆れ顔で言うアルスターの腹に、ドリストの後ろ回し蹴りが炸裂した。
「アルスター。このオレ様に意見するなんざ、ずいぶんと偉くなったモンだな? いいだろう。出撃は取りやめだ。代わりに、今日はテメェに王への忠義というものを徹底的に教えてやる。来い!」
そう言うと、ドリストはアルスターにヘッドロックを決め、そのまま連れ去る。
「へ……陛下……なにとぞお許しを……へいか……ぎゃああぁぁ!!」
こうしてアルスターは、この日、死刑よりも厳しい罰を受けることになったのだった。
「……この国にいれば、一生退屈せずにすみそうでヤンスねぇ。わざわざ仕官した甲斐があったってもんでヤンス」
ギャロは、心底そう思った。