カーレオン領スクエスト砦の一室で、旅の絵描き騎士ミリアはキャンバスに向かっていた。七月の下旬から描き始めた油絵だ。下書きと下塗りは終わり、現在は本塗りの作業に入っている。筆でパレットの絵の具を取り、キャンバスに重ねていく。色を変え、また別の場所に重ねる。それを、キャンバス全体へと広げる。ミリアはこの本塗りの工程が好きだった。味気なかった下塗りの絵にどんどん色が重なり、完成へ近づいていくさまは、絵に命を吹き込んでいるようであり、最も心が踊る時間なのだ。
だが。
今回の作品は、いつもと様子が違っていた。筆の進みが遅い。どんなに色を重ねても、絵に命が宿るあの感じが無い。だから、心が踊らない。ミリアの心は沈んだままだ。それが、さらに筆の進みを遅くする。筆はまるで鉛でできているかのごとく重く感じるし、絵の具の色はどうも気に入らないし、キャンバスも筆と絵の具を拒絶しているようかのように色の乗りが悪い。いや、それらはミリアの錯覚でしかない。使っている画材はいつもと同じで、なんの問題も無いはずだ。問題があるのはミリアの方。ミリアは小さくため息をつく。このまま描き続けても納得のいくものにはならないだろう。一度仕切り直した方がよさそうだ。
ミリアは筆とパレットを置き、お茶を淹れることにした。湯呑みを取り出し、鍋に水を入れ火にかける。お湯が沸くのを待ちながら、もう一度絵を見た。これまで油絵は何枚も描いてきた。通常、下書きから完成までは、作品の大きさや複雑さなどにもよるが、概ね一ヶ月程度だ。なのに、今回の絵は手掛けてからすでに二ヶ月が経とうとしている。いまだ完成のめどは立たない。油絵でこれほど苦戦するのは初めてだった。スランプ――とは、少し違う。スランプとは、普段はできていることができなくなることだと思っている。今回取り組んでいる絵は、普段は描くことがない絵――ミリアの絵描き人生で、初めて挑戦するたぐいの絵なのだ。
とんとん、と、ドアを叩く音がした。
「はあい、どうぞ」
絵からドアに目を移すと、入って来たのはエルオードだった。
「失礼しますよ、ミリアさん」
部屋に入ったエルオードは、キャンパスの絵を見ると、「おや、絵を描かれていたのですか。それでは、出直してきましょうか?」と、恐縮したように言った。
「ううん、大丈夫。ちょうど、ひと休みしようと思ってたの」
「そうですか? なら良かった」
「いまお茶を淹れるところだから、座って待ってて」
「はい。では」
壁際のテーブルの席に着くエルオード。ミリアは湯呑みをもうひとつ取り出し、お茶を注いだ。
「はい、どうぞ」
エルオードの前に湯呑みを置き、ミリアも席に着く。今日のお茶は、乾燥させた果実の皮を使ったハーブティーだ。不安や緊張をほぐす効果があり、何かうまくいかないことがあるとよく飲むのだ。ミリアとエルオードはお互い一口すすり、ふう、と息を吐いた。
ひと心地つき、ミリアはテーブルの上に少し身を乗り出した。「どう、調子は? みんなとは、うまくやってる?」
「はい、みなさん、よくしてくれてます」エルオードは爽やかな笑顔で答えた。
エルオードは、ルーンの加護を持ちながらも騎士として仕官せずにいたのだが、ミリアが説得し、仕官させたのだ。あれから、もうすぐ一年になる。最初は見習い騎士だったエルオードも、今では剣術や盾術を身に付け、若干の白魔法を使えるようになった。もともと体力はあるから重い鎧も軽々と着こなす。魔導国家であるカーレオンにとっては貴重な、武器と防具を用いて戦う騎士となったのである。
「みんな期待してるみたいよ? 戦いになったら、彼は絶対に頼りになる、って。期待に応えて、しっかりと、みんなの
「ははは、これは手厳しいですな」と、エルオードは苦笑いを浮かべる。「しかし、私は頑丈なだけが取り柄ですから、それがみなさんの役に立つのであれば、喜んで盾になりましょう」
「うんうん、いい心がけよ」と、ミリアは頷いた。「でも、まあ安心して。いざ戦いになったら、あなたの後ろには、大陸屈指の魔術師たちが控えているんだから。敵なんて、あっという間に蹴散らしちゃうわよ」
「そう望みたいですね」
「もっとも、いまのところ、この砦が戦場になることはなさそうだけどね」
そう言って、ミリアはもうひと口お茶をすすった。
八月上旬、同盟国であった西アルメキアがエストレガレス帝国の総攻撃の前に滅亡し、このスクエストは、帝国との国境を守る要衝となった。現在ナイトマスター・ディナダンをはじめとする腕利きの騎士が多数の兵とモンスターを従えて防衛にあたっている。とは言え、帝国側から攻めてくる可能性は低い、というのが、賢王カイの考えだった。
帝国は、西アルメキアとの戦いに兵の大半を費やした。結果的に西アルメキアを滅ぼしたものの、攻めに転じた分防衛が手薄になり、南のイスカリオに大きく攻め込まれることになったのだ。その侵攻は、帝国の南の都市トリアにまで届こうとしている。
また、リドニー侵攻で二度に渡り大敗を喫した北のノルガルドも、帝国と西アルメキアの戦闘の隙を衝いてゴルレを落とし、領土を拡大している。当然、白狼王ヴェイナードは再度リドニーへ侵攻する機会を伺っているはずだ。トリアとリドニーは、どちらも王都ログレスに直結する重要拠点だ。帝国としてはこれ以上攻め込まれるわけにはいかず、主力騎士は全てそちらに回っている。現在スクエストのすぐ北である帝国領ベイドンヒルには最低限の防衛部隊しか配置されていない。トリアやリドニー方面の戦況を覆さない限り、帝国がこのスクエストへ侵攻して来ることはまず無いだろう
ミリアはテーブルに肘をついた。「帝国は領土こそ拡大したけど、騎士不足は変わらず、ってトコね。むしろ、領土を拡大した分、拠点が多くなって手が回らなくなってる。もしかしたら、もうすぐカーレオンも攻めに転じるかもよ?」
「ミリアさんの活躍で、この国も騎士が増えましたからな」
「あたしの活躍ってこともないけど、まあ、騎士が増えたのは確かね」
カーレオンに仕官して以降、何人かの在野の騎士を勧誘しているミリアだが、これに加え、仕官先を失った西アルメキアの騎士がカーレオンへ流れてきているようなのだ。彼らは祖国を滅ぼした帝国への復讐に燃え、この国へ仕官するだろう。開戦以降も騎士不足から守りに徹してきたカーレオンも、そろそろ大きな手を打つかもしれない。
ミリアは、「でも、そうなると――」と言って、視線をエルオードからキャンバスへ移した。「こうやって絵を描いていられるのも、今のうちかもしれないわね。早く完成させないと」
「新しい絵ですか」エルオードもキャンバスに視線を移す。そして、しばらく眺めた後、表情を曇らせた。「……失礼ですが、あまり筆は進んでいないようですね」
「あはは……判る?」
「はい。私は絵を描きませんが、以前ミリアさんから頂いた絵は、毎日のように眺めていましたからね。あの絵と比べると、いま描いている絵は、なんというか、ぼんやりとしている印象です」
その指摘に、ミリアはドキリとした。それはまさにミリア自身が感じていることであり、今回なかなか筆が進まない理由であったからだ。
その絵は、いまだ完成のめどは立たないが、すでにタイトルは決めていた。『亡国の民』――滅亡した西アルメキアからカーレオンへ逃れてくる難民の姿を描いたものである。これまで、旅先の風景や人々の笑顔など、美しいものを描いてきたミリアにとって、初めて挑戦するモチーフであった。
ぼんやりとしている、というエルオードの指摘は当たっていた。筆が進まないのは、完成のイメージが明確でないからだ。初めて挑戦するモチーフの絵――ミリア自身、どう描いていいのか判らないのだ。うまくいかないのも当然と言えた。
黙り込んだミリアを見て、エルオードは目を伏せた。「失礼、私みたいな素人が、生意気なことを言いました」
ミリアは首を振った。「ううん、いいの。エルオードの言う通りよ。正直、こんなに気分が乗らない絵は初めてね」
気分が乗らない――それが、今の正直な気持ちだ。もっと明確に言うならば、ミリアはこの絵を描きたくないのだ。
絵に関して、こんな風に思う日が来るなんて想像もしなかった。ミリアにとって絵を描くことは無上の喜びであり、人生そのものであったのだ。もちろん、思い通りに描けない時もある。スランプに陥ったことは数えきれない。それでも、『描きたい』という気持ちがしぼむことはなかった。どんなに描けなくても、『描きたくない』と思ったことはなかったのだ。それが今、ミリアは人生で初めて『描きたくない』と思っている。戦火に焼かれた街から逃げる人々の絵――赤子を抱いた母親、老いた父を背負った青年、親とはぐれて途方に暮れる幼い兄弟――皆、暗い顔でうつむき、生きることに絶望している。悲しい絵だ。こんな絵は描きたくない。以前のような、気ままに旅をし、そこで見つけた美しいものを描く、あの生活に戻りたい。それが、今のミリアの正直な気持ちだった。
それでも――。
「……それでも、描かないといけないんだと思う」
ミリアは、自分に言い聞かせるべく、強い口調で言った。
「それが、ミリアさんが仕官した理由ですからね」エルオードが言った。やさしい笑顔だった。
「ええ」
ミリアは頷くと、もう一度、絵を見つめた。
旅先の美しいものばかりを描いてきたミリア。それは同時に、美しくないものを描くことを避けてきたということでもある。このフォルセナ大陸では、大戦以前からも、飢えに苦しむ人々、金や権力に溺れる者、理不尽な理由で家族や故郷を失った人など、悲しいものや醜いものも多くあったのだ。ミリアは、それらから目を背けてきた。今回の大戦勃発で、それらの悲しいことは、大陸全土へ広がろうとしている。それでも目をそむけ、美しいものばかりを描き続けることもできたかもしれない。だが、はたしてそれは正しいことなのか。悲しいことから目をそむけ、ただ思うように絵を描き続けて満足なのか。それで、本当に画家だと言えるのか――。
そう思い、ミリアは仕官したのだ。
描かなければならない。戦争の真実と、向き合うために。
「――完成させるのは難しいかもしれないけど、それでも描いてみせる。絶対に」
ミリアは改めて決意し、その決意を胸に刻み込むように、一度大きく頷いた。
「良いことだと思います」
そっと背中を押すようなエルオードの声に、ミリアは「ありがとう」と笑顔で応えた。
ミリアは湯呑みに手を添えた。お茶はすっかりぬるくなっていた。一息で飲み干すと、「それで、何か用?」と、声を改めてエルオードに訊いた。
「そうだ、忘れるところでした。ミリアさん、もし、ガッシュさんのところへ向かわれるのであれば、私にも声をかけてください」
「ガッシュのところ?」ミリアは首を傾けた。
ガッシュは、大陸各地にいるミリアの友人の一人だ。以前のミリアやエルオードと同じく、ルーンの加護を持ちながらも仕官せずにいる男である。身体を鍛えるのが趣味で、カーレオン北東部の山奥で、武術の訓練をしながら暮らしている。
「そろそろ彼の元へ向かわれる頃だと思いましてね」と、エルオードは続けた。「ミリアさんを一人で行かせるのは危険ですから、私がお守りします」
「あら、言うようになったわね。でも、あたしだって騎士なんだから、盗賊や野良モンスターくらいなら平気よ?」
「いえ、そうではなくて、ガッシュさんが危険なんです。あの人は、私以上に世間知らずですからね。ミリアさんと二人きりになったら、何をするか判りません」
「あはは。ヒドイこと言うんだから」
声を上げて笑った後、ミリアは、ぱん、と手を叩いた。「よし。じゃあ、早速向かいましょう」
「はい? 今からですか?」エルオードは目を丸くする。
「思い立ったらすぐ行動、が、あたしの信条だからね。どうせ絵は進まないし、いい気分転換になるでしょ」
「しかし、この砦の守りはどうするのですか?」
「それはたぶん大丈夫でしょ。なんてったって、ナイトマスター様がいるんだし。それに、どちらかというと、あたしは戦闘要員じゃなく人材登用要員として雇われたようなものだからね。この国もそろそろ大きな手を打たないといけないだろうし、人手は多いに越したことはないでしょ。さ、行くわよ!」
ミリアとエルオードは旅支度もそこそこに砦を飛び出し、カイに許可を取ると、新たな騎士を勧誘するためガッシュの元へ向かった。