ノルガルドの南の防衛拠点ハドリアン砦に、緊急事態を報せる鐘が鳴り響いた。西のイスカリオ領アスティンより、敵部隊が侵攻して来たのだ。斥候部隊の報告によると、イスカリオ軍を率いるのは王ドリスト、さらに、先日帝国の剣聖エスクラドスを退けたという槍騎士イリアと、イスカリオでは数少ない常識人と噂される政務補佐官アルスターも同行しているとのことだった。兵の数は合計で十万を超えるとの情報もある。現在ハドリアンに駐屯している兵は五万。イスカリオ軍の半分だ。
もっとも、ハドリアンは両側を切り立った崖に挟まれた場所に建つ天然の要塞だ。防衛ならば敵軍の半分の兵でも充分である。しかし、駐屯している兵達は動揺を隠せなかった。現在、ハドリアンには、総大将であるブランガーネが不在なのだ。
前王ドレミディッヅの娘であるブランガーネは、ノルガルドとレオニアの併合の後、折を見ては首都フログエルにいる元レオニア女王リオネッセの元を訪ねており、不在にすることが少なくなかった。これに加え、現在ノルガルドは軍全体の再編を行っている点も災いした。ここ数ヶ月の間にエストレガレス帝国が勢力を拡大したことで、各拠点の部隊編成を大幅に見直している最中なのだ。現在このハドリアンの軍を指揮するのはロードブルという騎士だ。前王ドレミディッヅ時代からノルガルドに仕えるベテランの騎士だが、戦争に明け暮れた前王の代わりに政務を行っていた男であり、どちらかと言えば武将ではなく文官と言っていい。他には、開戦後に他国から仕官してきた若い騎士が二人。はっきり言って、軍再編が終わるまでの仮の防衛部隊と言っていい。はたしてこれでこの砦を守ることができるのか――兵達の間に不安が広まっていた。
そんな中。
いち早く西壁に陣取った若い騎士二人は、兵とは逆に、喜びとも言える気持ちを胸に敵軍を迎え撃とうとしていた。
「――あれがドリスト率いるイスカリオ軍か。まさか、今このタイミングでハドリアンに攻めてくるとは。さすがに狂王と呼ばれるだけあって、考えが読みづらいな」
砦の西壁に陣取った騎士シュトレイスは、防壁の上から敵軍を見おろし、ため息交じりの口調でそう言った。イスカリオはエストレガレス帝国へ侵攻し、ノルガルド方面へはしばらく攻めてこないだろう、というのが、ノルガルド側の考えだったのだ。それが、突然帝国から主力軍を引き上げ、こちらへ侵攻してきたのである。
シュトレイスは続ける。「おかしな王らしいが、その強さだけは侮りがたいと聞く。以前、このハドリアンを追い詰めたこともあったらしいからな」
それは、まだこのハドリアンがレオニア領だった頃の話だ。ドリストは、砦内で飼育されていた怪鳥ロックの爪を切って嘴を縛り、魔竜バハムートを投入するという奇策を用いてこの砦を攻めた。一見バカバカしいとも思えるが、実は非常に理にかなった作戦である。そのいくさはどうにかレオニア側が勝利したものの、この時ロックの部隊を失ったことは大きな痛手となり、後にエストレガレス帝国の侵攻を許してしまった。
そして。
今回も、砦前に陣取ったイスカリオ軍の頭上には魔竜バハムートが羽ばたいていた。他にも、ワイバーンやグリフォンなど、空を飛ぶモンスターの姿が多く見える。敵将ドリストは、空からの襲撃がこのハドリアン唯一の弱点だと心得ている。頭のおかしな王などと侮らない方が良いだろう。
軍師であるグイングラインからは、ブランガーネ不在の間に万一敵国から攻められ、防衛が困難であると判断した場合は、被害を最小限に抑えつつ後方のグルームまで撤退せよ、との指令が出ていた。
だが。
「お前がいる時に攻めてくるとは、イスカリオ軍も不運だったな」シュトレイスは隣に立つもう一人の騎士を見ると、敵軍を憐れむように言った。そして、「どうだ? ソレイユ、やれそうか?」と訊く。
「問題ない」ソレイユも敵軍を見下ろし、その数に動じた様子もなく答えた。「あのモンスターは私が引き受けよう。シュトレイスは、兵の方を頼む」
「さすがだな」と、シュトレイスは笑った。ドリストを含む三人の敵騎士が率いるモンスターを一人で相手するなど並大抵のことではない。しかし、この男にはそれができるのだ。
ソレイユは、シュトレイスと義兄弟の契りをかわした男だ。獣と心を通わす
「なら、撤退は必要ないな」シュトレイスは言った。
「もちろんだ。私たちの力で、侵略者を追い払うぞ」
その力強い言葉に、シュトレイスは笑みを浮かべる。
ソレイユも口元を緩めた。「どうした、シュトレイス? 随分と嬉しそうだな」
「当然だ。またお前と戦えて、こんなに嬉しいことはない」
「そうだな……」と、ソレイユも気持ちを噛みしめるように言った。「私も嬉しいよ。これからは、自分の信じるもののために戦える。お前のおかげだ」
シュトレイスはかぶりを振った。「俺は何もしていない。全ては陛下のおかげさ」
「――そうだな」ソレイユは頷いた。
ソレイユは、ゼメキスが起こしたクーデターの際、デスナイト・カドールの手によって母親を人質に取られ、己の意志に反して帝国の騎士として戦うこととなった。だが、半年ほど前、カドールが帝国を去ったことで、ソレイユの母親は解放された。それを機に、ソレイユは帝国を離脱したのである。しかし、帝国軍において逃亡は死罪であるため、ソレイユには刺客が放たれる恐れがあった。ソレイユはシュトレイスを頼り、ノルガルドへ落ちのびた。シュトレイスはソレイユと母親の保護を求め、王ヴェイナードへ直々に嘆願したのだ。無論、それは容易なことではなかった。ソレイユは帝国の将としてノルガルドとも戦っていた。しかも、その戦いでは王ヴェイナードが剣聖エスクラドスとの一騎打ちにより負傷している。ソレイユ自身はヴェイナードに手出しはしていないが、ノルガルドの騎士にとって面白くない相手であることは間違いない。騎士内には仕官に反対する声もあったようだが、シュトレイスの嘆願が通じたのか、最終的に王はソレイユの仕官を認めたのだった。
「この恩には報いなければならないぞ、ソレイユ?」
シュトレイスの言葉に、ソレイユは「もちろんだ」と返す。「我が主君ヴェイナード様と、私を救ってくれたお前のために、これからは戦い続けよう」
ソレイユは、シュトレイスと、そして、遠い首都フログエルにいるであろう新たな主君へ、右拳を左掌で覆うノルガルド流の忠誠の仕草を捧げた。
敵軍の方から歓声が聞こえた。砂埃を上げ、兵達が進軍してくる。
「来るぞ、ソレイユ。油断するなよ?」
「ああ」
二人は敵を迎え撃つべく、兵とモンスターに命令を下した。
――この時。
ソレイユは、ひとつ大きな失念をしていた。
カドールが去ったとはいえ、母親一人の力で牢から脱出するなど、できるはずもない。母親は、ルーンの加護など持たない――なんの力も無いひとりの女性でしかないのだから。
そこには、
後に、その事実をソレイユが知ったとき。
この日の彼の決意は、大いに揺らぐことになる――。