イスカリオの女魔術師ヴィクトリアは、ティーポットとティーカップとケーキをのせたトレーを持ち、王都カエルセントの王宮内にあるイリアの居室へ向かっていた。前節、イリアはブロノイルという謎の魔導士の術にかかり、王ドリストを襲撃しそうになったという。幸い襲撃は未遂に終わったものの、ブロノイルの施した術を破るため、イリアは呪いの炎で自らの身体を焼いたそうだ。その傷は深く、イリアをもってしても一節の休養を余儀なくされていた。今日は、そのお見舞いのため、戦線を離れてやってきたのである。
イリアの部屋の前に来たヴィクトリア。両手は塞がっているので、ちょっと行儀は悪いがヒールの先で蹴ってノックする。返事は無いが、まあ返事をする人でもないので、構わずドア越しに呼びかける。
「イリア? いるんでしょ? ちょっと手がふさがってるの。ドアを開けてちょうだい?」
しばらくすると、がちゃりとドアが開き、いつも通りの無表情で無言のイリアが顔を見せた。
「おはよう、イリア」
「…………」
「挨拶くらいしなさいな。まあいいですけど。それより、聞きましたわよ? あなた、ドリスト様を守ろうとして、大怪我なさったんですって? 大変でしたわね? 今日はお見舞いにきましたの。入れてくださる?」
「…………」
イリアはやはり無言だったが、ヴィクトリアの訪問を拒むことはなく、通れるようにドアを大きく開けてくれた。
「お邪魔しますわね」
中に入り、部屋を見回す。ベッドとテーブルがひとつずつにイスが二脚。家具はそれだけで、あとは槍や鎧兜などの武具があるだけの簡素過ぎる部屋だ。ヴィクトリアがイリアの部屋を訪れるのは初めてだが、まあ予想通りと言えば予想通りではあった。
ヴィクトリアはテーブルの上にトレーを置いた。「驚かないでね? これ、カエルセント坂通りの三ツ星スイーツ店・ミッツホッシーの一日三十個限定クリームたっぷりプレミアムロールケーキですのよ? 開店十五刻で売り切れる幻の品ですの。朝から並んで買って来たんですからね」
イリアの年頃の女子なら悲鳴を上げて喜ぶスイーツだが、イリアは何の反応も示さない。もちろんヴィクトリアもそこに期待していたワケではないので、気にせずテーブルにケーキを置き、ティーカップにお茶をそそいだ。
「さあ、どうぞ」
「…………」
イリアが席に着いたので、ヴィクトリアも座る。いただきます、とヴィクトリアが言うと、イリアも無言で食べ始めた。ヴィクトリアも食べる。このプレミアムロールケーキは、スポンジケーキよりもクリームの量が多いというロールケーキ界に革命を起こした品である。シルバードラゴンのブレスよりも白い純白のクリームは量が多い分甘みを抑えあっさりとした味わいで、ウィークネスをかけられたグールよりもやわらかいと賞されるスポンジケーキとの相性はバツグンだ。
「ああ、美味しいですわねぇ」ひと口食べ、ほっぺを押さえて美味しさを表現したヴィクトリアは、イリアにも訊く。「どう? イリア、美味しい?」
まあ何も答えないだろう、と思って訊いたのだが、意外にも返事が返ってきた。
「……判らない」
「……え?」
「食べ物の味は、判らない」
「そんな……こんなに美味しいのに?」
「判らないんだ。おいしいとか、美しいとか、いい香りとか。そういったものを感じることはできない」
イリアは、それを憂いたり悲しんだりもちろん喜んだりすることも無く、ただ当たり前のことを当たり前に伝えるように言う。
「…………」
今度は、ヴィクトリアが無言になってしまった。
魔導士ブロノイルの手によりデスナイトの実験台にされてしまったイリアは、感情や意思の大部分を失ってしまったという。失敗作とされ捨てられた彼女は、偶然ドリストと出会った。ドリストの命令に絶対服従し、表情ひとつ変えず敵を討つイリアは、いつしか『キラードール』と呼ばれるようになった。その理由が判ったような気がした。意志を失っているから他者の命令で動き、感情が無いから敵を討つ時も表情を変えられない。キラードール・イリアは、こうして生まれたのだ。
「……そう言えば、キャムデンさんが、あなたの過去について調べたそうなの」
ヴィクトリアは、キャムデンから預かったメモを取り出した。
「ログレスの遊郭で、セレナという名前で調べたら、少しだけ判ったみたいだけど――」
「いらない」
イリアは、ヴィクトリアの言葉を最後まで聞くことはなく、それを拒否した。
そして。
「私の名はイリアだ。セレナではない」
そう言い切った。
「……そうね」
ヴィクトリアもそれ以上は言わず、メモをしまった。時には知らなくていい過去もある。彼女がそれを求めていない以上、これはもう必要のないものだ。
イリアは、静かに立ちあがった。「――もう行く」
「行くって、どこへ?」
「私は陛下の犬だ。常に陛下のそばにいて、陛下の命令に従う」
防具を身に付け、槍を持つと、イリアはそのまま部屋から出て行こうとする。
ヴィクトリアは小さくため息をついた。ブロノイルの事件の際、ドリストは、イリアという名が昔飼っていた犬の名前であると言ったそうだ。彼女は、陛下が大切にしていた名前を頂いた、と解釈したようだが、正直、ちょっとどうなのかと思う話である。それに、自分のことを『陛下の犬』というのは……。イリア自身は自虐的に言っているわけではないだろうが、聞く側はどうしてもネガティブに感じてしまう。
「イリア?」
ヴィクトリアは、出て行こうとするイリアを呼び止めた。
そして、振り返ったイリアに、「ちょっと、お出かけしましょうか?」と誘い、ふたりで城を出た。
ふたりは、カエルセントの寺院にある王家の墓所へやってきた。高い柵に囲まれ、門は固く閉ざされてあるが、ヴィクトリアは空を飛ぶフライングの魔法を使い、軽々と飛び越えた。そして、奥にある最も大きな墓の前まで行く。
「陛下が飼っていた犬……イリア、の墓」
イリアは、名前の刻まれていない墓を見上げ、そうつぶやいた。
ヴィクトリアはわずかに首を振った。「違うのよ。陛下は恥ずかしがり屋さんだから、あんな風に言ってたけどね――」
そこで言葉を切る。この話をしたことがドリストにばれると、ヴィクトリアは一生化粧禁止にされるかもしれない。考えただけでも恐ろしいが、それでも、どうしても伝えておかなければならない。
ヴィクトリアは心を決めると。
「これ、陛下の――妹さんのお墓なの」
ずっと、心に秘めていた真実を、伝えた。
「陛下の……妹?」
イリアが、驚いたように大きく目を見開く。
「ええ」と、ヴィクトリアは頷き、「これは、陛下が即位する、何年も前の話なんだけどね――」と、自分が知る限りのことを、話して聞かせる。
それは、ドリスト即位前――先王の時代。
当時のイスカリオは、旧アルメキアにも劣らぬほど腐敗しきった国であったという。
国の財は一部の貴族にのみ集中し、庶民は苦しい生活を強いられていた。王宮内では権力闘争が続き、真に国に忠義を尽くす家臣は謀略の末に排除され、私腹を肥やすことしか頭にない者どもが、醜い争いを繰り広げていた。
イスカリオは代々独裁国家である。国を牛耳るのは王自身だ。そのため、王宮内での権力争いは、いかに王に気に入られ、王に取り入るかであった。やがてこの争いは、王位継承権を持つ者をいかに身内の陣営に取り入れるか、という争いへ発展した。
先王には、正室との間に子が一人いた。これがドリストである。王位継承権は、もちろん第一だ。
当時の大臣や貴族は、先王に多くの側室を送った。王と側室の間に子が生まれれば、その者は王位継承権を得る。それだけでも王宮内の地位は上がるし、もしドリストに万が一のことがあれば、自分の息のかかった者が次の王ともなれる。そうなれば、国を操ることもできるのだ。
そのような中、先王と地方貴族の娘だった側室との間に、一人の女の子が生まれた。それが、ドリストの妹・イリアだった。
イスカリオでは、女性にも王位継承権は発生する。王宮内は、ドリストを次期王として推す勢力と、イリアを次期王と目論む勢力のふたつに分かれ、権力争いはますます過熱する――と、思われた。
しかし、イリアの母親は、これらの権力闘争に自分の子が巻き込まれることを恐れた。そして、我が子を喪うよりは、と、王位継承権を捨て、まだ赤子のイリアを連れて王宮を去ることを決意したのである。
母親は、南にある辺境の土地ロージアンに住居を与えられ、そこに移り住むこととなった。幽閉同然の処遇であったが、王位継承権さえ捨てれば、醜い争いに巻き込まれることはない――そう考えていた。
だが、甘かった。いかに継承権を放棄しようとも、血のつながりまで断つことはできない。継承権がよみがえる可能性も充分ある――そう考えた者は、少なくなかったのだろう。
数年後、イリアとその母親は謎の死を遂げた。詳細は定かではないが、恐らくドリストを次期王に推す者が、彼の王位継承を盤石にするために暗殺したのであろう。
この話を知ったドリストは、深く悲しんだという。
数年後、先王の急死によりドリストが王に即位すると、ドリストはイスカリオの貴族制度を廃止。同時に独裁体制を強固なものとし、権力争いを続ける王宮の大臣どもを一斉に国外へ追放したのだ。その追放された者の中には、彼の母親も含まれている。
そして、アルスターやキャムデンなど新たな家臣を登用したドリストは、古くから続く国の制度も独断で廃止、あるいは変更し、新たな政策も次々と提案し即実行した。
それらの振る舞いは、他国から『狂王』と揶揄されるほど常軌を逸したものであったが。
結果的に、ドリストは腐敗しきっていた国を生まれ変わらせたのだ。
「――このお墓にはね、陛下の妹さんと、そのお母さまが眠っているの」
ヴィクトリアは、そう話を終えた。この話は、側近のアルスターやキャムデンでさえ知らない。当時の王宮内でもごく一部にしか知られていないし、詳しく知る者はみな追放されたのだから。
「イリア……陛下の……妹の名前……」
妹の名を託された少女は、その名を胸に刻むようにつぶやく。
「だからと言って、あなたが妹さんの代わりという訳ではないでしょうけど……あなたは、妹さんと歳の頃が同じだったのよ。どうしても、想いを重ねてしまうんでしょうね」
そのとき。
感情を持たぬはずのイリアの目から、涙がこぼれ落ちた。
それは、ほんのひと粒の、本当に小さな涙であったが、ヴィクトリアは確かに彼女の涙を見た。
「イリア! あなた、涙が!」ヴィクトリアは叫んだ。
「涙……私が……」
イリアは頬に残った涙の跡を右手で触り、そして、その涙の後を追うように下を向く。こぼれ落ちた涙は、彼女の衣服にしみ込んだのか、あるいは地面に落ちて土に消えたのか、もう判らない。だが、確かにそこにあったのだ。
そして、そのひと粒の涙は、
「イリア! あなた、いま悲しいのね!? 妹さんを喪った陛下の心情を思い、悲しんでいるのね!?」
ヴィクトリアは、イリアの胸の奥に隠されたものを引き出すために、強い口調で言う。
「悲しい……これが、悲しいという感情……」
イリアは、己の感情の存在を探るように、自分自身の身体を見つめる。
「ええ! そう! あなたは感情を失ってなどいない。そうよ! あなたはデスナイトに改造されそうになったけど、それに耐えた。デスナイトにならなかったのは、きっと、感情を失わなかったからよ! あなたには、元々それだけ強い感情があったのよ!」
デスナイトの改造の詳細など、ヴィクトリアは知るよしもない。なんの根拠もないことを言っているだけだ。なくても良い。そこに、彼女が感情を取り戻すきっかけさえあれば。
「……私にも、感情がある」
イリアは、わずかに唇の端を震わせた。
「イリア、いま笑ったでしょ? ええ、笑ったわ! イリア、あなた、感情が戻ってきてるのよ! その気持ち、大切にしてね!」
「……はい」
イリアは静かに――しかし、強い気持ちを宿した声で、ヴィクトリアに応えた。
イリアは、ドリストの元へ戻って行った。
その背を見つめながら、ヴィクトリアは。
「イリア……あなたのその名前も、大切にしてね」
決して届くことのないかすかな声で、つぶやく。
ヴィクトリアは、王の妹とその母親の墓の前に跪くと、深く――深く、祈りをささげた。