カーレオンの首都リンニイスの王城にて、ナイトマスター・ディナダンは居住棟の屋上へ続く階段を早足で上がっていた。ずっと城内で主君のカイを探しているのだが、どこにもいないのだ。これが妹のメリオットならばまた内緒で外出したのだろうと思うところだが、カイに限って誰にも告げず外に出ることはないはずだ。
数時前、赴任先のファザードから戻ったディナダンは、荷物を置く時間も惜しんでカイの政務室を訪れたのだが、そこに彼の姿はなかった。それから、会議室、寝室、訓練場、など、彼がよくいる場所を順に探した。もちろん、城内の警護兵や従者にも訊いてみたが、誰も知らないと言う。
城内のほとんどを探し回り、あと見ていないのはこの居住棟の屋上くらいだ。もしここにもいなければ、拉致誘拐などの緊急事態も考えなければならないところだが、幸いそれは杞憂に終わった。屋上に出ると、手すりの所に見慣れた主君の背中が見えた。ディナダンは小さく安堵の息を吐く。無事であったのは何よりだが、安心すると今度は腹立たしくなってくる。城に着いたのはまだ夕方前であったのに、すでに陽は落ち、空には煌々と月が輝いていた。城内を探し回っているうちに夜になってしまったのだ。ディナダンは今日中にリンニイスを発ってファザードへ戻るつもりだったのだが、これでは明日の朝にせざるを得ない。現在ファザードは対ノルガルドの最前線基地であり、騎士団長であるディナダンが長く不在にするのは好ましくないのだ。王ともあろう者が、警護に何も告げずこんなところで何をしているのか。これは大いに皮肉を言ってやろうと思ったが。
「…………」
夜風に吹かれながら一人城下の街を眺める王の背中が、不意に小さく見えた。ディナダンは、やれやれ、と心の中でため息をつく。
「おや、陛下。こんなところで何をされているのです?」
今回は特別に皮肉を封じることにし、たまたまここに来た風を装って話しかけた。
「……やあ、ディナダン。戻っていたのかい」
首だけ振り向き、力無く答えるカイ。その顔からは疲れが溢れだしていた。普段『静かなる賢王』や『大陸一の知恵者』と呼ばれる堂々たる姿はなく、一人の悩める青年がそこにいた。
「メリオット姫のことを考えておられたのですか?」
いきなり核心をつくように言うディナダン。いまカイを悩ます問題は、それ以外にないであろう。
「まあね」
カイも気持ちを隠すことなくそれを認めた。
先月、カーレオンの宰相ボアルテから、カイは先王の実子ではなく養子であり、妹メリオットとの血の繋がりは無いと告げられた。そして、ふたりが結婚し、共にカーレオンを治めるのが一番良い、という先王の遺言も託された。
「どんな気持ちなんだろうね、一人の女性が、王家とか国とかに縛られて、自由に生きられないというのは」
メリオットを気遣うように言うカイ。ボアルテの告白の場にはディナダンも立ち会った。あの時はディナダンも衝撃を受け、ボアルテに対して憤りを感じていたが、時が経ち、冷静に事態を考えると、あの時とは違う気持ちも湧いてくる。
「陛下が考えるほど、姫は落ち込んでいないかもしれませんよ? どうも陛下は姫のことをか弱い娘だと思いたいようですが、姫はもう一人前の騎士です。いつまでも子ども扱いしてはかわいそうだ」
「騎士としては一人前でも、中身はまだ純粋な少女だよ」
「姫ももうすぐ二十歳でしょう? 立派な大人の女性だと思いますがね」
「それでも、ついこの前まで兄だった男と無理矢理結婚させられそうになってるんだ。彼女の気持ちを思うと、胸が痛む」
「結婚の話は無理矢理ではないでしょう。先王は決して強制はしていないとボアルテ卿もおっしゃられていました。なにより、姫は陛下のことを慕っておられる」
「兄としてはね。結婚となると、話は別さ」
「ですが、結婚とは他人と家族になることです。だからうまく行かないこともある。我が国の離婚率は約三十五パーセントで、年々上昇傾向にあるそうですからな。その点、陛下と姫は元々家族なのですから、うまく行くのではないでしょうか」
「そう単純なものではないと思うよ」
カイは極論だと言わんばかりの呆れ声で答えた。
だがディナダンは意に介さず続ける。「そうでしょうか? 陛下は大陸一の知恵者と呼ばれておりますが、私に言わせれば物事を複雑に考え過ぎです。たまには単純に考えてみても良いのでは」
「……ナイトマスター殿は、この話に反対だと思ってたんだけどね」
「私は全ての女性が幸せになるべきだという信念がありますので。それに、陛下も姫のことを愛していらっしゃるでしょう。なにせ、ノルガルドとの同盟交渉を決裂させてまで、姫を人質に差し出すのを拒んだくらいですから」
カイは少し驚いたように目を見開いた。「誰にその話を聞いたのかな」
「白狼本人から聞きました。ヤツは快く思っていないようでしたが、私は愛のある行為だと思いましたよ」
昨年十一月下、アスティンにて行われたカーレオンとノルガルドの会見で同盟交渉を試みたカイだったが、白狼ヴェイナードが同盟の証に妹メリオットを人質として差し出すことを要求し、交渉は決裂した。同盟において王が親族を人質に差し出すことは決して珍しい話ではなく、むしろ白狼の要求は当然とも言える。だが、賢王カイともあろう者がそのことが頭の片隅にもなく、さらに彼は国の利よりも妹の安全を優先した。一国の王としては決して正しい行為とは言えないであろう。だが、そこに妹への愛があったことは間違いなく、それを非難することなど、ディナダンにできるはずもない。
冷たい風が吹いた。南国カーレオンは一年を通して気候が穏やかだが、三月の夜はまだまだ冷える。カイは視線を城下へ移した。城下町には多くの明かりが灯っている。まるで星が瞬くかのようなその輝きのひとつひとつに民がいて、家族がいて、人生がある。
カイは小さく息を吐くと、ディナダンを振り返った。
「今は一刻も早くこの戦争を終わらせて、人々が幸せに暮らせる世界を作らなければね」
この話を終わらせようとしているように思えたディナダンは、「一人の人間を幸せにできない者に、多くの人を幸せにできるとも思えませんがね」と、封印していた皮肉を最後に解き放った。
「そうかもしれないね」カイは、いつものように苦笑いで受け流す。「まあ、なんにしても一度メリオットと話をしてみよう。今日はありがとうディナダン。話をして、少しスッキリしたよ」
「お役に立てたなら光栄です、陛下」
ディナダンは右の拳を左胸に当てて頭を下げる。その横を通り抜け、カイは階段を下りて行った。カイを見送ったディナダンは、入れ代わるように手すりのそばに立ち、城下を見つめる。
次月、カーレオンはノルガルド領カルメリーを攻める予定になっている。その時のファザードの守りをどうするか――今日は王とその話をするためにリンニイスに戻ってきたのだ。カルメリーは旧西アルメキアの首都だ。城塞都市であり、守りは堅い。その上、北のキャメルフォードからもノルガルドの部隊が睨みを利かせている。カルメリー侵攻に軍を投じれば、その分ファザードの守りは薄くなる。もしカルメリー侵攻中にファザードを落とされようものなら、退路が断たれ、大きな被害が出るのだ。これを避けるため、大陸一の魔術師であるカイに、ファザードの防衛部隊に入ってもらえないか、その相談に来たのだ。
しかし、話はできなかった。あれほど悩む主君を前に、どうして話すことができよう。
ボアルテが先王の遺言を告げて以降、作戦に遅れが生じている。本来の作戦通りならば、この時期西の戦線はキャメルフォードまで攻め上がっているはずだった。東の戦況も予定通りに進んでいない。近く、帝国に奪われたソールズベリーを奪還する予定なのだが、その部隊編成がまだできていない。
不意に。
――断言しよう。カーレオンは、いずれその兄妹の愛とやらによって滅ぶことになる。
ベイドンヒルの防衛戦にて、白狼ヴェイナードから言われた言葉を思い出した。
だが、その言葉を頭から振り払う。作戦は遅れているだけであり、決して後退しているわけではない。カーレオンは、着実に領土を広げ、勢力を伸ばしている。問題は無い。
ディナダンは剣を握りしめた。あれほど悩む主君の姿を見るのは初めてだ。こんな時ときこそ主君を支える――それが、家臣の務め。
そして、自分にできることは、この剣で戦うのみ。
ナイトマスターは決意を新たにし、屋上を後にした。