四月。旧パドストー領キャメルフォードは、春を迎えた。
弱々しかった日差しは日に日に強さを増し、吹き付ける風は身を切る冷たさを失い優しい温もりを含み始める。北の山から流れる川は雪解けで水かさが増し、南の地で冬を越した渡り鳥を水面で迎えている。川辺には色とりどりの花が咲き、蝶や蜂などがせわしなく花の間を飛び回っていた。
フォルセナ大陸西の交通の要衝である城塞都市キャメルフォードは特殊な地形上に存在する。北から流れる川は途中でふたつに分かれ、南北にそれぞれ流れた後、またひとつの流れに戻る。それは巨大な川の中州のような地形だった。城塞都市があるのはその巨大な中洲の南端だ。北東のオークニー以外の道は全て川を越えなければならないため、キャメルフォードを巡る攻防は、この川をどう攻略するかがカギとなる。
ノルガルドの槍騎士アデリシアは、キャメルフォードの南に架かる橋の手前に立ち、複雑な心境で対岸を見つめていた。間もなく、南のカーレオン領ファザードから侵攻してきた部隊との戦闘が始まる。
アデリシアは、パドストー時代にキャメルフォードの防衛隊長を務めていた。この地での防衛戦術は熟知しているつもりであったが、当時パドストーの敵はノルガルドだけであり、防衛戦は北からの侵攻に備えたものであった。その上、北にはまだゴルレという国境を守る砦があり、パドストー時代にこのキャメルフォードが戦場になったことは無い。その頃は、まさか自分がノルガルドの騎士として南から侵攻してくる敵を相手に戦うなど思ってもみなかった。しかも、その相手が、パドストー時代の最も古い仲間のひとりであろうとは。
橋の対岸に一人の小柄な騎士が立った。ここからでは紫色の法服を着ていることくらいしか判別できないが、それでも、見慣れたその姿に懐かしさが胸に浮かぶ。しかし、再会を喜ぶわけにはいかない。これは戦闘前に行う戦義であり、相手はまぎれもなくアデリシアの敵なのだから。
アデリシアが橋を渡りはじめると、相手も同じくこちらに向かって橋を渡りはじめる。二人は橋のちょうど中央あたりで相対した。
「……カルロータ、まさか、あんたと戦うことになるなんてね。それも、このキャメルフォードで」
アデリシアは悲しみを含んだ声で言った。
かつてアデリシアと共に『アルメキア美女三人集』と名乗った騎士の一人で、現在はカーレオンに仕えている魔術師のカルロータは、「ホントですわね」と、暗い声で頷き、そして続けた。「まさか、アディがノルガルドに行くなんて、思ってもみませんでしたわ」
その声には、アデリシアに対する静かな憤りが含まれていることに気づいた。それが、ますますアデリシアを悲しくさせる。
エストレガレス帝国の侵攻により西アルメキアが滅びた後、ふたりは別々の国へ仕官した。アデリシアはノルガルドへ、カルロータはカーレオンへ。それは袂を分かち合ったとも言える。
「まあ、アディにはアディの考えがあるんでしょうから、それは尊重いたしますわ。あたしには叶えたい夢がありますから、そのために戦います」
カルロータは冷たく突き放すように言う。ノルガルドはパドストー時代より敵対国だ。そこへ仕官したアデリシアは、裏切り者とされても仕方ない立場にある。
「……そうだね」
アデリシアはさらに悲しみを帯びた声で答えた。
カーレオンはパドストー時代からの同盟国であったため、滅亡後は多くの騎士が再仕官した。アデリシアもカルロータを始め何名かの仲間から勧められたが、彼女はカーレオンへ仕えることを拒否した。賢王カイを、どうしても信用することができなかったからだ。
同盟時代、西アルメキアはカーレオンに対し再三共闘を申し出たが、カーレオンがこれに応じることは無かった。カーレオンもエストレガレス帝国やイスカリオと戦闘状態であったため、容易に兵を動かすことはできない事情は理解できる。だが、結局カーレオンは西アルメキアが滅びるまで、一切西アルメキアのために兵を動かすことはなかったのだ。果たしてこれで同盟国と言えるのか、西アルメキアの滅亡には、大陸一の知恵者と呼ばれる賢王カイの思惑が絡んでいたのではないか――その疑惑を拭いきれなかったアデリシアは、ノルガルドに仕官したのである。
ふたりの間を風が吹き抜ける。春の温もりを含んでいる風なのに、すきま風のような冷たさを感じる。今回この戦義を望んだのはアデリシアだったが、なにも言うことが思いつかない。
「お話が無いようでしたら、これで失礼いたしますわ。後でまたお会いしましょう」
カルロータは法服の袖をなびかせて背を向け、去って行った。結局、話らしい話をすることはなかった。
アデリシアも橋を戻る。これで、本当に二人は袂を分けた。後はただ、戦場で相対するのみ。
今のあたしたちをエフィーが見たら、どう思うかな――ふと、そんなことを思う。
エフィーリアは、アデリシアがまだ訓練生だった頃からカルロータと共に行動を共にすることが多かった仲間だ。昔から勝気な性格だったアデリシアは、パドストーの王太子メレアガントをはじめとする訓練場の男どもと対立することが多かった。そんな時、いつも仲裁をしてくれたのがエフィーリアだった。
もし、いま彼女がそばにいれば、この戦いを止めただろうか? それとも、お互いの考えを尊重して見守っただろうか? あるいは――あたしの味方をしてくれただろうか。
判らない。彼女はもうそばにはいない。この戦いを止める者はもういない。アデリシアの味方をしてくれる人は、もういない。
あたしは、なにをしているのだろう。なぜ、ノルガルドに身を置いているのだろう――判らなくなった。
祖国パドストーを愛していた。民を思う王に仕えることを誇りに思っていたし、仲間たちと過ごす時間が大切だった。メレアガントとはいがみ合うことも多かったが、互いに信頼する気持ちはあったように思う。パドストーから西アルメキアになったときは迷いもあったが、国の名は変わっても国そのものは何も変わることはなかったし、新たに君主となったランス王子の純粋さに触れ、この身を挺して守らなければならない使命感もあった。西アルメキアとなっても、そこが祖国であることは変わりなかった。
だが、皇帝ゼメキス率いるエストレガレス帝国の侵攻によって、西アルメキアは滅びた。アデリシアが愛した祖国は滅びた。アデリシアは帝国への復讐を誓い、同盟国を見捨てたカーレオンを憎み、いま、このノルガルドの地にいる。
だが、はたしてそれは正しかったのか。祖国が滅び、その悲しみと憎しみに囚われるあまり、もっと大事なものを無くしてしまったのではないのか。
――ごめんよ、エフィー、カル。
アデリシアは悲しみを胸に抱え、小さくため息をつく。
――どうしたの? アディ。ため息なんか付いちゃって。
不意に、背後から声をかけられた。
はっとして、足を止める。懐かしい声だった。いま、アデリシアが最もそばにいてほしかった人の声。
「――エフィー!」
悲しみも憎しみも忘れ、アデリシアは振り向く。
だが、そこには誰も――背を向けたカルロータの姿さえ、もう無かった。
アデリシアは、一人、橋の上で呆然と立ち尽くす。
その頬を、涙が一筋、伝い落ちた。
四月。旧パドストー領キャメルフォードは、春を迎えた。
しかし、北の大地ノルガルドには、まだ多くの雪が残っている。