カーレオンの首都リンニイスの王城で、王妹メリオットは中庭の花壇の前にしゃがみ込んでいた。四月の下旬、南国カーレオンではもう初夏と言ってよい時期だ。降り注ぐ日差しは少しずつ夏の力強さを含み始め、見上げた空を薄桃色に彩っていた桜の木々も今は緑に染まり、花壇の主役もチューリップやマリーゴールドからバラやガーベラに変わった。春から夏へと移り変わる様子に心が弾む時期。しかし、いまのメリオットは、木々の緑の美しさも、色とりどりに咲く花の一本も、その目に映ることはない。心ここにあらずの状態で、ただそこにしゃがんでいるだけであった。
「やあ、メリオット。ここにいたのかい」
背後から声をかけられ、メリオットははっとして顔を上げる。振り返ると、兄王カイがそばに立っていた。
「……お兄ちゃん」
メリオットは力無く答える。ほんの少し前まではメリオット自ら走り回って兄を探すことが多かったが、最近は避けることが多くなっている。思えば、以前は兄の方から話しかけてくることなどほとんど無かったように思う。なんだかそれがおかしいような、腹立たしいような、悲しいような、そんな複雑な気分。
「綺麗に咲いたね」
カイは花壇を彩る花に目を向けて言った。メリオットは「うん」と頷き、改めて花を眺める。最近、リンニイスの城をはじめとするカーレオン各地の城で、季節を問わずこうしてたくさんの花が咲くようになった。
「イスファスさんのおかげだね」
メリオットは答えた。イスファスはレオニア滅亡時に仕官してきた騎士だ。二メートル近い巨漢の戦闘僧にもかかわらず、花を育てたり小鳥にエサをあげたりといった趣味を持っており、彼が丹精込めて各城の花を育てているのだ。
「そうだね」と、頷いたカイは、「少しいいかな? 父上の遺言のことで、話があるんだけど」と、優しい声で続けた。
父上の遺言――その言葉を聞いて、一瞬、メリオットはこの場から逃げ出したい衝動に駆られる。その話になるのが嫌で、最近兄を避けてきたのだ。この場も、何か適当な理由をつけて逃げることもできるかもしれない。優しい兄は、「やれやれ」と小さくため息をつきながら、こちらの心の準備ができるまで先延ばしにしてくれるだろう。
しかし、この話は国の行く末に関わる重大な問題であり、いつまでも避けてはいられないことも理解している。
メリオットは覚悟を決め、「うん」と頷いた。
ふたりは花壇そばのベンチに並んで座る。以前なら特になにも思わなかった状況だが、いまは恋人が語らうような雰囲気に思え、メリオットは顔が紅潮してくるのが判った。
「本当に驚いたよね。まさか、僕たちに血の繋がりが無かったなんて」
花を見つめたまま話すカイに、「そうだよね」と頷くメリオット。いま思えば、二人は性格や特技や趣味嗜好など、なにからなにまでまるで違う。以前、メリオット自身、二人は似ていないと話題にしたこともあったが、まさかその裏にこのような真実が隠されていようなど、想像すらしていなかった。
「父上は、僕たちが結婚して二人で国を治めてくれるのがいいと言っていたそうだけど、そんなことをする必要はない。メリオットは好きな人と結婚すればいいからね」
優しく諭すように言うカイ。兄がそう言うであろうことは、メリオットも予想していた。だからこそ、メリオットの胸に小さな落胆が生まれる。
その落胆を打ち消すように、メリオットは言う。「でも、遺言って、大切なものなんでしょ? だって、先代の王様の……お父さんの、最期のお願いなんだから」
「もちろん遺言は大切さ。でも、絶対ってワケではない。父上も強制はしていなかったそうだからね。遺言なんかより、メリオットが幸せになる方が、よっぽど大事だよ」
「あたしの幸せ……?」
「そうさ。僕は王位に未練はないから、メリオットが選んだ相手が王位を継いでもいいし、メリオット自身が王になっても構わないよ」
メリオットは目を大きく見開いた。「あたしに王様なんてムリに決まってるじゃん!」
カイは、「そんなことはないさ」と微笑む。「メリオットには、みんながついてる。僕も、誰が王になっても、私なりに支えていくつもりだよ」
「でもさ、あたし、別に好きな人なんていないし……それに……」
その先に続ける言葉を探す。カイと違い、メリオットは考えることは得意ではない。それでもなんとか言葉を見つけ出そうとする。
「……そう、あたしはお兄ちゃんの面倒を見るのは慣れてるし、ガマンできると思うの。だって、今までだってずっとお兄ちゃんのお世話をしてきたんだから」
「好きな人はこれから見つかるだろうし、僕も、メリオットのお世話になりっぱなしじゃ、申し訳ないからね」
せっかく見つけ出した言葉も、カイの前ではむなしく消え去って行く。
「でもでも、お兄ちゃんってモテないから、きっと、誰も結婚してくれないでしょ? 一生独身なんて、かわいそうだから」
「こう見えても、学生時代は結構モテたんだけどね」
「またそんな見栄はって。仮にそれがホントだったとしても、もう昔の話でしょ? 今はただグータラしてるだけの
「やれやれ。僕はこう見えてもカーレオンの賢王だよ? 必死で作戦を練れば、美女の一人くらい、すぐに落としてみせるさ」
冗談のように言うカイ。以前だったら「はいはい」と聞き流すようなことだが、いまは、とても悲しい言葉に感じる。
「でも……でも……」
でも……その先に続ける言葉を、メリオットはもう見つけられない。見つけられないから、沈黙に陥るしかなかった。
やがて、カイは。
「さて、じゃあ僕はもう行くよ」
ベンチから立ち上がる。この後、会議室で戦略会議が予定されているから、それに行くという意味だろう。
「――待って!」
メリオットは思わず呼び止める。本当に、どこか手の届かないところに行ってしまう――そんな気がしたから。
「なんだい?」
優しく微笑むカイに、メリオットはさらに言葉を探す。
そして。
「前にアスティンでやったノルガルドとの会見で、同盟の交渉をしたけど、あたしのせいで破棄になったって、本当?」
見つけた言葉を口にする。
カイは少し驚いたように目を見開いた。「誰にその話を?」
「ディナダンから」
正直にそう答えると、カイは、やれやれ、余計なことを、と言わんばかりの顔になった。
ノルガルドへ同盟交渉を持ちかけたカイだったが、ヴェイナードは同盟の証にメリオットを人質に差し出すよう要求してきたという。カイがそれを拒否したことで交渉は決裂し、カーレオンとノルガルドは戦闘状態になった。
「どうして断ったの? 同盟を結んだ方が国のためになったんでしょ? あたしなら、別に良かったのに」
「良くないよ」
カイは、メリオットの言葉を遮るように、そう言い切った。「メリオットが、国のために犠牲になることは無い」
「だから、それはどうして?」
身を乗り出して訊く。これは、聞いてはいけないことだというのは判っていた。返って来る言葉は、想像がつくから。
それでも。
万が一にも、メリオットが想像しているものと違う言葉が返って来ることも、あるかもしれない。
その、わずかな可能性に期待したのだが。
「妹だからさ。決まってるだろう」
返ってきた言葉は、メリオットが想像していたものと、何らたがわぬものであった。
「――――」
今度こそ本当に、メリオットは続ける言葉を失う。
「じゃあ、僕は会議があるから、行くよ」
もう一度念を押すように言って、カイは中庭を後にする。その背中を、メリオットは無言で見送る。
戦争が始まって以降、メリオットは留守にしがちなカイのことを考えることが多くなっていた。寝坊をしてないだろうか、きちんと身だしなみを整えただろうか、病気や怪我をしていないだろうか――それが、妹が兄を心配する気持ちを超えていることに、メリオットは気付いていた。気付いていたが、どうしようもないことだということも理解していた。気持ちを封印する覚悟もしていた。兄はいずれこの国の王として妃をめとり、子をもうけるだろう。それでも構わないと思っていた。メリオットとカイの間には、血の繋がりという強い絆がある。兄が誰を愛そうと、自分はずっとそばにいられる――そう思っていた。
だが、その絆が無かったと知らされた今、彼の言う『妹』という言葉は、もう何の意味も持たないように思える。
自分が他の誰かを愛する姿など想像できない。彼が他の誰かを愛する姿など、想像したくもない。
妹だから――その言葉が、彼が決して手の届かない存在だということを、知らしめる。
カイの姿が、政務棟の中に消える。
「……ばか」
その背中にかけたメリオットの言葉は、初夏の花の香りに誘われた小鳥たちの囀りに紛れ、彼に届くことはなかった。