その日、メリオットは兄カイと共に、
しかし、いざ狩りが始まると、父は大勢の家来を引きつれて森の中へ入って行き、メリオットとカイは数人の従者と共に森の外に張られた天幕に残された。当然、ここからでは森の中の様子など判るはずもない。父が勇ましく獣を刈る姿を間近で見られると思っていたメリオットは、ひどくガッカリした。森の中は危険だから絶対に入ってはいけない、と、従者からきつく言われている。せっかく外に出たのにずっと天幕にいるのでは、お城にいるのと大して変わりはない。
「ねえおにーちゃーん。あたしたいくつだよー。どこか遊びに行こうよー」
メリオットは、従者の言いつけを守り天幕でおとなしく本を読む兄カイの袖を引っ張った。
「ダメだよ。父上からも、ここでおとなしくしてるように言われただろう?」
妹がワガママを言うのに慣れているカイは、本から目を離すこともなく落ち着いた声で言う。メリオットは「ぶううぅぅ!」と口で言って頬を膨らませた。一人でこっそり森に行こうとしても、きっと無駄だ。兄は本に集中しているように見えてちゃんと妹にも気を配っている。天幕を離れたらすぐに気づかれるだろう。それに、一人で森に行くのは、さすがにちょっと怖い。
「メリオットも本を読めばいいだろ? ほら」
と、兄から渡されたのは『せいおうのけんこくき』という本だ。フォルセナ大陸の歴史が書かれた本だが、子ども向けに書かれた絵本であり、もう何度も読み聞かされている。
「それもう飽きちゃったよ。お兄ちゃんは、なに読んでるの? お兄ちゃんの本、読んでよ」
「別にいいけど、メリオットに判るかな?」
そう言ってカイが読み聞かせ始めたのは、『アルメキア・パドストー・カーレオン同盟の不平等性について』という本だった。
「『――この三国同盟最大の問題点は、アルメキアが敵対国に攻め込まれた場合はパドストーとカーレオンは参戦する義務があるが、パドストーとカーレオンが攻め込まれた場合は必ずしもアルメキアが参戦する義務はないことである。これを平等なものに改正させることは、我が国が恒久的な平和を保つために極めて重要な』……」
兄は十四歳。十五歳で成人とみなされるカーレオンではまだ子どもだが、すでに大人でさえ読むのが難しいような本を何冊も読んでいる。もちろん、メリオットにはちんぷんかんぷんである。
「その本やだー、つまんないー、つまんないつまんないつまないー」
メリオットはごろんと寝っころがると、手足をばたばたさせた。こうすれば、兄は「やれやれ」と言いながら遊んでくれることを、メリオットは知っている。
案の定、兄は「やれやれ」と言って、本を閉じだ。「メリオットも、ちょっと狩りの練習をしてみる?」
がばっ! とメリオットは起き上がった。「え? いいの?」
「メリオットにもいずれルーンの加護が目覚めるだろうから、どんな騎士になりたいか早めに考えておいた方がいいからね。弓は女性騎士が使う代表的な武器のひとつだから、メリオットに向いているかどうか、僕が見てあげるよ」
「うん!」
メリオットが笑顔で頷くと、カイは天幕の道具箱から小さな弓と矢を取り出した。弓は非力な子どもでも引けるもので、矢に刃はついていない。訓練用の道具というよりはおもちゃといった方が良いものだが、メリオットは興味津々で受け取った。カイは、天幕の外にヘルハウンドやギガスコーピオンなどのモンスターを
「じゃあ、まずあのヘルハウンドを狙ってみようか」
兄から、弓の構え方、引き方、狙い方を教わり、メリオットは言われた通りやってみる。ぴょこん、と放たれた矢は、目標よりもかなり手前に落ちた。
「ああ、残念。じゃあ、次はスコーピオンだ。今度は、もう少し強く引っ張ってみて」
言われた通り、さっきよりも強く引き、狙いを定め、撃つ。ひゅーん、と、矢はさっきより速く飛んだが、今度は目標のはるか上を飛び越してしまった。
その後も、兄の言う通り矢を撃ってみるが、目標には全然当たらない。「大丈夫、ちょっとずつ上手になってるよ」と言う兄のお世辞も、なんだか腹が立ってくる。
十本目の矢が外れた。カイは「あー、おしい」と言うが、見当違いの方向に飛んで行ったので全然おしくない。メリオットはうつむいて肩を震わせると、ばしっと弓を地面に叩きつけた。
「こんなのつまんない! もう弓なんてやめる!」
また頬を膨らませ、ぷいっとそっぽを向いた。
「やれやれ。まあ、弓がイヤなら、魔法を使う騎士になるしかないけど。そのためには勉強をしなくちゃね」
カイは、今度は道具箱の中から魔法に関する本を取り出した。もちろん、メリオットは勉強なんて大キライだ。
「いいもん。あたし、騎士になんてならないもん。どうせお兄ちゃんが騎士になるんだから、お兄ちゃんに守ってもらうもん」
メリオットがそう言うと、カイはまた、「やれやれ」とため息をついた。
がさり、と、森の葉が揺れた。
ふたりは音がした方を見る。一匹のキツネが、草むらからひょっこりと顔を出していた。
生まれて初めて見る野生の動物に、メリオットはびっくりしてカイの後ろに隠れる。
「大丈夫だよ」と、カイは妹を不安にさせないよう、優しい声で言った。「凶暴なモンスターじゃないから、襲ってきたりしないよ」
兄の言葉通り、キツネは森の外に出ると、メリオット達の方には近づいて来ず、地面に鼻を付けてふんふんと鳴らし始めた。
しばらく兄の陰に隠れながらキツネの様子を見ていたメリオットは、相手が危険な動物でないと判ると、ぴーんとひらめいた。兄から離れ、道具箱をがさがさと探る。そして、矢を一本取り出した。おもちゃの矢ではない、父が使う、刃のついた本物の矢。
「こらメリオット、危ないよ」
ちょっと真面目な顔になって言う兄に、「大丈夫だよ。さっきお兄ちゃんにやり方教えてもらったもん」と言って、弓を拾った。
「どうするの?」
「キツネって、ふっかふかの毛皮になるんでしょ? だから、あたしがあのキツネを捕まえて、マフラーにしてお兄ちゃんにプレゼントしてあげるの」
ふふーん、と鼻を鳴らして胸を張るメリオット。カイは少しためらったが、「まあ、メリオットが弓の練習を続けてくれるなら」と、しぶしぶ認めた。
また兄の指示に従い、弓を構え、矢を引き、狙いを定める。
「お兄ちゃんにマフラー……お兄ちゃんにマフラー……」
その一心で、しっかりと狙いを定める。
「お兄ちゃんに……マフラー!!」
メリオットは、矢を放った。
その矢は、今までで一番速く、真っ直ぐにキツネに向かって飛ぶ。
そして、ぐさり、と、キツネの足の付け根に刺さった。
「やった! お兄ちゃん! 当たった! 当たったよ!」
メリオットは、ぴょんぴょん飛び跳ねて喜ぶ。
「すごい! すごいよメリオット!」
カイも、まさか当たると思っていなかったのかもしれない。驚き、しかし、ここで褒めておけば妹も機嫌良く弓の練習をするだろうと思ったのか、メリオットを褒めまくる。
この時。
メリオットはもちろん、後に賢王と呼ばれるカイさえも、知らなかった。
野生の動物は、人間が考えているよりもはるかに強靭な肉体を持ち、そして、はるかに生への執着があることを。
キツネは、そのかわいらしい姿からは想像もつかぬほど恐ろしい声で吠えると、足の付け根に刺さった小さな矢などものともせず、危害を加えてきた小さな人間たちに向かって、走る。
「――――」
矢が刺さったキツネはバタリと倒れる――そう思っていたメリオットは、考えてもみなかった光景に、ただその場に立ち尽くす。
「――メリオット!!」
どん、と、押し倒された。
カイが、向かって来るキツネの前に立ちはだかった。
そして、跳びかかってきたキツネの爪を、牙を、その身体で受け止めた。
血がしぶきとなって飛び散り、メリオットの顔にかかる。
地面に尻餅をついたメリオットは、ただ茫然と兄を見る。
キツネはカイを押し倒し、その上に乗り、さらに牙を剥く。
メリオットは逃げることもできず、立ち上がることもできず、叫ぶこともさえもできず、もちろん兄を助けることもできず、ただ茫然と、その光景を見つめていた。
その後。
異変に気づいた警護兵が駆けつけ、キツネは即座に退治された。
カイは全身に大怪我を負った。城からは救護の者も同行していたが、そんなものでは間に合わず、直ちに城へ戻り、治療が施された。
メリオットは、一節の間兄と会うことができなかった。ずっと一緒にいたメリオットにとって、これほど長い間兄と会えないのは、生まれて初めてだった。
ようやく面会が許された時、兄は全身包帯にくるまれた姿で、ベッドに横たわっていた。
痛々しい兄の姿を見て、メリオットは大粒の涙をボロボロと流し、ごめんねお兄ちゃん……ごめんねお兄ちゃん……と、ただ謝り続けた。
そして、言った。
「あたし、がんばって弓うまくなるから……キツネなんて一発で倒せるくらい、うまくなるから……キツネだけじゃなくて、イノシシだって、クマだって……モンスターだってやっつけられるくらい、うまくなるから……もう二度とお兄ちゃんがケガしないように、弓で一番になるから……誰にも負けないくらい、弓がうまくなってみせるから! ぜったいぜったい! うまくなってみせるから!!」
カイは、泣きじゃくるメリオットに向けて笑顔を返すと、そっと、頬の涙を拭ってくれた。
そこで――。
メリオットは、意識を取り戻した。
不快な振動と共に意識を取り戻したメリオットは、すぐに手足を縛られていることに気がついた。全身真っ黒な馬の背に負ぶされている――いや、馬ではない。その額には一本の鋭い角が生えていた。白馬ユニコーンが進化したモンスターのひとつ、黒夢馬ナイトメアだ。
「――気付いたか。だが、おとなしくしていた方が身のためだぞ」
ナイトメアを引きつれていた者が振り返った。深い緑色の鎧に身を包み、その顔は悪魔の骨面で隠されている。
「あなたは、デスナイト・カドール!!」
メリオットは叫び、そして、置かれた状況を思い出した。兄に内緒でこっそりオルトルートの戦場に同行し、城攻めをするディナダンたちに助太刀しようとして、何者かに襲われ意識を失ったのだ。
メリオットは周囲を見回した。森と森に挟まれた平原で、向かう先には大きな湖が見える。オルトルート城がある湖よりも、さらに大きいように思えた。
「ここはどこ? あたしをどうする気?」
メリオットの質問にカドールは応えず、ただナイトメアの歩みを進める。
「あなた、今までどうしてたの? 帝国から追い出されたって聞いたけど?」
そう言うと、カドールはふん、と鼻を鳴らした。「元々俺は帝国などに仕えてはおらぬ」
「じゃあ、あなたは何者?」
カドールは骨面の下で不敵な笑みを浮かべたようだった。「貴様には関係のないことだ。それより、おとなしくしていろと言ったはずだ。命が惜しくばな」
「あっそ」と、メリオットはカドールの脅しなど意に介さないとばかりに言い捨てた。このメリオット、自慢じゃないが今までの人生で誰に「おとなしくしろ」と言われても、その言葉に従ったことはない。
「誰か! 誰かいないの!! 化け物騎士はここよ!! 誰か! 誰か!!」
その大声に驚いたナイトメアがいななき、棹立ちになった。どさり、と、メリオットは地面に落ちる。
ちぃ、と舌打ちをしたカドールは、腰に携えた剣を抜き、そして、這って逃げようとするメリオットの鼻先に刃を突きつけた。
「口で言っても判らんようなら、その身体に教えてやろうか? 殺すなと言われているが、傷つけるなとは言われておらんのだぞ? 二度と声を上げられぬよう、喉をつぶしてやろう」
「はん、そんなんであたしがおとなしくなると思ったら大間違いよ! こっちはお兄ちゃんのサイレントの魔法だって効いたことないんだから!」
兄が聞いたらまたやれやれとため息をつきそうなことだが、こうして時間を稼いでいれば、きっと。
「――そこで止まれ!」
勇ましい声がした。ほーらね、と、メリオットはドヤ顔をする。乙女のピンチには、いつだって頼もしい騎士が駆けつけるものなのだ。
「ナイトマスターか……貴様こそ動くな!」
現れたナイトマスター・ディナダンを見て、カドールはメリオットを無理矢理立たせると、喉元に剣の刃を当てた。
ディナダンは踏みとどまり、カドールに鋭い視線を向けた。「カドール! 帝国を去ったお前が、なぜこのようなことを!」
カドールは、また面の下で不敵に笑う。「ある国から頼まれてな」
「ある国? ノルガルドか!」
ディナダンが言った。ノルガルドは、カーレオンとの同盟交渉時にメリオットを人質に要求していた。いま残っている国はカーレオン・帝国・ノルガルドの三国だけだし、すでにカドールが帝国を去った以上、残るはノルガルドしかない。
しかし。
「フフ……あのような卑小な国のために、この俺が動くはずなかろう」
カドールは嘲笑するように言う。ノルガルドは元々北の大国と呼ばれ、今回の大戦でも大きく勢力を伸ばしている。それでも『卑小な国』と呼ぶならば、カドールが言う『ある国』とは、どれだけ大きな国なのか。
「ナイトマスター! 賢王に伝えろ。妹の命が惜しくば、軍をスクエストとハーヴェリーまで下げ、その後三ヶ月間動かすなとな!」
カドールの要求に、ディナダンは「なんだと? ふざけるな!」と、怒りをあらわにする。
それが目的――? メリオットは、自分が連れ去られた理由を悟る。
スクエストとハーヴェリーは、かつてカーレオンの国境を守っていた城だ。今からそこまで軍を下げるとなると、旧パドストーや旧イスカリオの領土を手放すことになり、カーレオンの領土は開戦時の状態に戻る。
それはすなわち。
――あたしが、お兄ちゃんの足を引っ張ってる。
南の小国と呼ばれたカーレオン。開戦後は西アルメキアと同盟を結び、戦力的に劣る帝国やイスカリオの侵略をかわしながら、少しずつ在野の騎士を登用し、鍛え、国力を蓄えていった。そして、旧イスカリオや旧パドストーの領地を奪い、ノルガルドにも負けないほど大きく、強い国となった。
それが、全部ムダになる。
兄がここまでやってきたことが、全て無駄になるのだ。
開戦後、兄の足手まといにならぬために、メリオットは弓の修行に励んだ。兄に頼りにされる騎士になるために、苦手だった魔法の勉強もした。ただ兄の役に立ちたいから――その気持ちはずっと空回りし、戦場で手柄を立てたことはない。兄からは、ずっと重要な戦いから遠ざけられていた。そのことに対して不満はあったが、今ならわかる。自分が戦場出でても、役に立たないどころかお荷物になる恐れがあったからだ。実際、こうして兄の足を引っ張っている。子どもの頃からそうだった。勉強でも魔法でも優秀な成績を残す兄に対し、自分は落ちこぼれ同然の成績だった。ならば、と、兄とは逆に体力面を活かして弓騎士になったが、兄からすればただのお転婆な妹に過ぎなかった。必要以上に身の周りの世話をするのも兄の役に立ちたかったからだが、それは本来従者に任せればいいことで、兄にとっては付きまとわれて迷惑なだけだった。
兄にとって、自分はなんだったのだろう? 頼りなくて、お荷物で、うるさくて、迷惑ばかりかけて――。
それでも、兄はきっと決断するだろう。言われた通り、軍をスクエストとハーヴェリーまで下げるだろう。たった一人の妹のために。
だが、それで家臣は納得するだろうか? 国民から理解を得られるだろうか? ここまで家臣は多くの血を流し、国民は不自由な生活を余儀なくされてきた。国益よりも身内の安全を優先する者を、民は王と認めるだろうか?
なにより。
以前の『南の小国』に戻ったカーレオンが、その先のいくさを生き残ることができるだろうか。
それならば、いっそ――。
「ディナダン! あたしに構わず、こいつを斬って!」
メリオットは突きつけられた刃をものともせず、叫んだ。
「余計な口を叩くな!」
鋭い刃がのどに触れる。皮が一枚切れ、チクリとした痛みと共にわずかな血が流れる。それでも、構わず続ける。
「お願いディナダン! こいつを斬って!」
「しかし……姫……」
苦渋の顔をするディナダンに、メリオットは訴える。
「あたし、お兄ちゃんの足手まといになりたくない……」
子どもの頃からわがままばかり言って兄を困らせた。自分のせいで大怪我をさせてしまったこともある。カーレオンという国の存亡をかけたこの戦いにおいても、ルーンの加護を受けた騎士でありながら、民や兵や騎士を導かなければならない王族の一人でありながら、なんの役にも立てず、かえって足を引っ張っている。こんな醜態を晒すくらいなら、国のために――そして、兄のために、喜んでこの命を奉げよう。
メリオットは、決意を込めた瞳を、ディナダンに向ける。
「ナイトマスター・ディナダン。カーレオン時期王位継承者として命じます。カドールを斬りなさい!」
ためらうディナダンは、ギリギリと歯を噛みしめ、メリオットとカドールを見つめる。
だが、やがて、その目に決意が宿った。
剣を強く握りしめる。
「仕方ありません……姫……お覚悟!!」
剣を振り上げ、踏み込んだ。
メリオットは目を閉じる。
――ごめんね、お兄ちゃん。
心の中で、兄に謝る。大陸一の弓騎士になる、ずっとお兄ちゃんのそばにいて面倒見てあげる……いろいろ約束したけど、どれも果たせなかったね。でも、大陸最強の騎士になれそうな人は他にいっぱいいるし、お世話をしてくれる人も、シェラさんやヴィクトリアさん辺りなら、お嫁さんになってくれるよね、きっと。
メリオットは、様々な思いを胸に浮かべる。
カドールの刃が動いた。
だが、それと同時に、突然カドールは大きく体勢を崩した。背後から強い衝撃を受け、前のめりになったようだ。
そして。
「――メリオット!!」
声が、周囲に響いた。
メリオットは目を開ける。声がした方を見る。
カドールの背後から、兄カイが魔法を放っていた。
「隙あり!!」
それに合わせ、ディナダンも剣を振るう。
「ちぃっ!」
カドールは舌打ちをすると、メリオットから手を話し、剣をディナダンへ向けた。
その瞬間、ディナダンの剣はカドールではなくメリオットに向けて振り下ろされた。ナイトマスターの剣は、メリオットの手足を縛りつけていたロープを、的確に切り落とす。
「姫! 陛下のもとへ!!」
拘束を解かれたメリオットだが、立ち上がることができず、ただ、兄を見つめる。
――どうして?
瞳から、涙が溢れ出す。
兄は、オルトルートで国の威信をかけた重要な戦いをしていたはずだ。頼りなくて、お荷物で、うるさくて、迷惑ばかりかけている妹なんか、放っておけばいいのに。いつだってそうだ。メリオットが退屈している時も、わがままを言っている時も、困っていたる時も、そして、危険が迫っているときも。
「メリオット! 来るんだ!」
いつだって、こうして手を差し伸べてくれる。
メリオットは立ち上がった。
「させるか!」
カドールが攻撃しようとしたが、構わずメリオットは走る。がきん! と背後で音がした。カドールの剣をディナダンの剣が受け止めたのだ。かつてカドールは大陸最“凶”のデスナイトとして恐れられたが、ディナダンも大陸最強の剣士・ナイトマスターだ。決して後れを取るものではない。
「ええい! こうなったら!!」
背後でカドールの声がした。メリオットはカイの元へ走る。カイが手を差し伸べている。その手を握ろうとした、瞬間。
「――メリオット!!」
兄の叫び声とともに、メリオットの背中に、鋭い痛みが走った。
――え?
不意に、力が抜ける。メリオットの体を支える足が、ぐらりと揺らいだ。背中に何か刃が刺さったようだ。その痛みが全身に回る。手足がしびれて動かない。意識が薄れる。倒れかけたところを、カイが支えてくれた。だが、抱きしめられる感覚は無かった。背中から全身に回った痛みも、もう感じない。視界も、闇に包まれるかのごとく失われていく。
――メリオット! しっかりするんだ!
兄の声が、ひどく遠くに聞こえるような気がした。まるで、兄を残して深い湖の底へ沈んでいっているかのような感覚。浮かび上がろうとしてもムダだ。手足は動かず、意識も薄れる。ただ、兄の悲痛な叫びが、表情が、メリオットの胸に刻まれる。
――ごめんね、お兄ちゃん。やっぱりあたし、迷惑かけてばかりだね。
メリオットの意識は、暗黒の呪いの泉に沈んでいった。