旧パドストーの老王コールは、カルメリーの居城を離れ、一人、城下町の居住区に来ていた。一人で城を離れるのは何年ぶりだろうか? 思い出そうとしても無駄だった。記憶から無くなるほど遠い昔の出来事なのか。あるいは、そもそも一人で出歩いたことなど、生まれてから一度も無いのかもしれない。かつてこの国の王であった彼の周りには、常に家臣や護衛兵がいた。城内においても一人でいられる時間は極めて少なく、一人で城外に出るなど許されないことだったのだ。いま思えば、王とはなんとも窮屈な身分であった。
コールが一人で城を離れたのは、ある人物を訪ねてのことだった。居住区の大通りから外れ、裏路地を少し進んだ先にある小さな家に、その人物はいるはずだ。コールは、玄関のドアをノックした。
「――グラウゼ殿はおられるかな?」
しばらくしてドアが開き、若い男が顔を見せた。男はコールの顔を見ると、目を丸くして驚いた。
「コール王!? なぜこのような所に!?」
コールは肩を揺らして笑った。「しばらく姿を見ぬと思ったが、やはり、城を離れておったか、グラウゼ」
グラウゼと呼ばれた男は、すまなさそうに目を伏せた。「申し訳ありません。陛下に一言もなく城を去るなど、騎士としてあるまじきこと」
「わしは、もう王ではない。気を使う必要は無いぞ」
「しかし、私は――」
コールはグラウゼに手のひらを向け、言葉を遮った。「まあ、まずは中で茶でも飲ませてくれぬかね? 久しぶりに長い距離を歩き、喉が渇いておるのでな」
「これは、失礼しました。大したおもてなしもできませんが、どうぞおあがりください」
グラウゼに言われ、コールは中へ入った。
グラウゼは、旧パドストー時代に仕えていた騎士である。まだ若いが武勇に長け、忠誠心も厚く、コールが特別目をかけてきた騎士であった。しかし、コールがランス王子に王位を譲った頃から姿を見なくなっており、気にかけていたのだ。
「――もしや病になったのではないかと心配もしたが、ひとまず、元気そうでなによりじゃ」
客間の椅子に座り、コールは出された茶をすすりながら笑った。
「勝手に城を去るような真似をして、申し訳ありませんでした」グラウゼは、深く頭を下げた。「――ですが私は、此度のことに、どうしても納得がゆかぬのです」
「……ランス殿の事じゃな」
「はい。失礼を承知で申し上げます。陛下は、なぜあのような若輩者に王位を譲られたのですか? 私には、あの者が王にふさわしいとは思えません」
まっすぐにコールを見据えるグラウゼ。その目には、決して曲げることのできない己の信念が宿っているように見えた。
「ランス殿には仕えられぬと申すか?」
コールの問いに、グラウゼは迷うことなく「当然です!」と言い切り、さらに続けた。「私が忠義を捧げるのは、コール王をおいて他にありません! ましてあの者は、我が父・ハンバルをアルメキアから追放した愚王の子。そのような者に、なぜ私が仕えねばならぬのです!」
いまでこそパドストーに仕えているグラウゼだが、元々彼の一族は、代々アルメキアに仕えてきた騎士の家系である。特に、彼の父ハンバルは祖国への忠義に厚く、戦場で多くの戦績を上げた将軍であった。老いて一線を退いた後は若い騎士に戦術を指南する役職に就き、生涯をアルメキアに捧げるはずであったのだが。
五年前、ハンバルは、身に覚えのない疑惑をかけられた。王を殺害し、自らが王位に就こうと企んでいる、というのである。
あり得ない話であった。ハンバルほど国に尽くした騎士はいない。誰もが、そう認めているはずだった。しかし、アルメキア王ヘンギストは、その疑惑を理由に、ハンバルら一族を国外へ追放したのだった。
「父が反乱など企てるはずが無い! 父は、何者かの謀略に
グラウゼは声を荒らげ、忌々しげな表情で机を叩いた。ハンバルはパドストーに身を寄せた後も無罪を訴え続けたが、それがアルメキア王に受け入れられることはなく、二年前、疑惑を晴らすことなくこの世を去った。
「……父の無念がいかほどのものであったか、私には、想像もつきません。父の気持ちを思えば、どうして愚王の子に仕えることができましょう?」
言葉の端々に、無念の思いが滲み出ている。グラウゼの気持ちは、コールにも判らないではない。無実の罪で父を追放した国の王子に仕えることができないと言うのも、当然のことかもしれない。
グラウゼは、誰よりも父を敬愛している。
しかし、だからこそ、言わなければならない。
コールは、静かに口を開いた。「グラウゼよ。もし、そなたの父が生きておったならば、今のそなたを叱りつけていたであろうな」
グラウゼは、心外だと言わんばかりの表情になる。「なぜ、そのようなことを仰るのでしょう? 私は、父の無念を思えばこそ、ランス王子には仕えられぬのです」
コールは、深くため息をついた。「……どうやらおぬしは、父の心内がまるで判っておらぬようじゃな」
「な……何を仰るのです!」
「グラウゼよ。そなたは、父ハンバルがアルメキアを追放された後、なぜパドストーに仕官したのか、考えたことがあるかね? パドストーはアルメキアの同盟国。もしハンバルがアルメキアを恨んでおるならば、敵対国であるノルガルドに仕官するはずであろう?」
「そ……それは……」
目を伏せ、言葉を探す様子のグラウゼ。なぜ父がパドストーに仕官したのか? 理由が判らないのではないだろう。答えは極めて簡単だが、それを認めたくないのだ。
だから、代わりにコールが言う。「そなたの父ハンバルは、アルメキアを追放されてもなお、祖国への忠義を捨てなかったのじゃ」
「そんなバカな!?」グラウゼは、椅子を倒して立ち上がった。「アルメキアは、父を謀反人扱いしたのです! 父は誰にも負けぬほど国に尽くしてきたのに、その忠義を踏みにじった! そのような国に、なぜ父が忠義を捧げ続けねばならぬのです!」
「それが、ハンバルという男なのじゃ」
「――――」
言葉を失うグラウゼ。彼自身にも、思い当たる所はあるはずだ。ハンバルは生涯、祖国を批判することは無かった。
コールは言葉を継いだ。「ハンバルはいわれなき罪で国を追われてもなお、祖国への忠義を捨てなかった。わしは、その忠義にほれ込み、そなたら一族を受け入れたのじゃ。周囲の者が、どれだけ反対しようともな」
パドストーは、かつてはアルメキアの属国であった。現在ではその主従関係は無くなったものの、それはあくまでも表面的なものであり、実際の立場はアルメキアの方が上だと言って良い。そのアルメキアから反乱の罪で追放された騎士をパドストーが受け入れるというのは、大変危険な行為だった。ともすれば、パドストーはアルメキアに反乱を企てている、と、されかねない。多くの家臣が反対したが、それでもコールは、ハンバルら一族を受け入れたのだった。
「我が一族を受け入れて頂いたコール王には、大変感謝しております」グラウゼは、まっすぐな目で訴えた。「だからこそ、我が忠義は、コール王に捧げたいのです」
だがコールは、その言葉を否定する。「グラウゼよ。この大陸は、かつてない動乱の時代を迎えようとしておる。少しでも選択を誤れば、この国はすぐに歴史から消えるであろう。そのような時代にあって、剣を取らず家に引きこもっておるのが、そなたの忠義であるというのか?」
「――――」
「いや、すまぬ。そなたがわしを思う気持ちはありがたい。そなたの忠義を否定したいのではない。だが、グラウゼよ。その忠義も、捧げる相手を間違えては、一生を棒に振ることになりかねんぞ」
「……どういう意味でしょうか?」
「忠義とは、王に捧げるものではない。国に捧げるものじゃ。そなたの父が、そうであったようにな」
「忠義とは、国に捧げるもの……」
グラウゼは、コールの言葉を胸に刻み込むようにつぶやいた。そのまま顔を伏せ、しばらく沈黙。胸の内で迷っているように見えた。
やがて顔を上げたグラウゼは、まっすぐにコールを見つめ、「ひとつだけお聞かせください」と言い、続けた。「コール王がランス王子に王位を譲られたのは、国を思ってのことでしょうか? この動乱の時代、我が国を正しい方向に導くのはランス王子であると……?」
「無論じゃ」
コールは、迷うことなく、真剣な表情で答えた。
しかし。
「と、言いたいところじゃが……」と言って破顔し、そして続ける。「お主には、本心を語っておくべきかのう」
「本心……ですか……?」
「正直に言えば、わしにも判らぬ。ランス殿に可能性を感じておるのは確かじゃが、果たして王位を譲ったのが正しかったのか、今はまだ判らぬよ」
「――――」
「ただし、これだけは言える。わしは老いた。今のわしに、この動乱の時代を生き抜く力は、もう無いであろう。そして、我が息子メレアガントには、人を制する力はあっても、人の上に立つ器量は無い」
「だから、ランス王子に任せたと――」
「そのとおりじゃ。少なくとも、わしやメレアガントが王位にいるよりは、国の未来は明るいであろう。それに、ランス殿が王位に就いたことで、メレアガントも負けてはならぬと張り切っておる。あのバカ息子にも、少しは期待できるであろう」
コールは髭を撫でて笑った後、最後の言葉を伝える。「――わしの話は以上じゃ。これからどうするかは、そなたに任せる。騎士として――ハンバルの子として、いま何をするのが正しいのか、よく考えるのじゃ。決して、後悔をせぬようにな」
コールは席を立ち、部屋から出ようとした。
「お待ちください、コール王」グラウゼが立ち上がり、呼び止める。「考えるまでもありません。私は、間違っておりました。陛下の仰る通りです。我が忠義を貫くならば、いかなる理由があろうと、いま城から去るべきではなかった。お許しください」
そして、グラウゼは深く頭を下げた。
「ほっほっほ。許すかどうかは、これからのそなたの働きを見てからにしようかの」
「もちろんです」頭を上げるグラウゼ。その目には、もう迷いはなかった。「我が剣と、そして偉大なる父に誓い、必ずや、この国を正しい方向に導いて見せます」
「その意気じゃ。期待しておるぞ」
「はっ!」
グラウゼは右手で拳を握り左胸に当てた。この国で忠誠を意味する仕草である。コールも、同じ仕草で応えた。
「――それはそうと、わしはもう王ではない。これからは、わしのことを王や陛下と呼ぶでないぞ」
コールは、髭を撫でながら笑った。