仇を追い求め大陸を旅する女騎士ハレーは、レオニア領ウィズリンドの西に連なる山の中にいた。エストレガレス帝国とレオニアの国境を越える際、人目につく街道を避け、あまり人の通らない峠を越えることにしたのだが、いつの間にか迷ってしまったのだ。山肌を縫うように続いていた細い山道はいつの間にか森の中に消え、生い茂る木々の枝や葉をかき分け、足に絡みつく下草を蹴り払うようにして進まなければならない状態だ。空を覆う木の葉の間から時折差し込む陽の光は、すでに西に傾き始めている。日が暮れるまであまり時間はない。長く旅を続けているハレーは野宿にも慣れているが、できればこんな深い森の中で一夜を明かすのは避けたいところだ。森の中には危険な生物が潜んでいる。熊や虎などの動物はもちろんだが、最近では野生化したモンスターも珍しくはない。ハレーの槍は決してそれらの生物に劣るものではないが、夜の闇はどうしても人に不利な状況を生む。ましてこんな深い森の中では相手を捉えることさえ難しいだろう。無用な危険は避けたい。なんとか、夜になる前に人里にたどり着くか、せめて森から抜け出したいものだ。ハレーは、草木をかき分け進む。
西アルメキアのランス王子からの仕官の誘いを断って二ヶ月。最愛の人の命を奪った者・魔導士ブロノイルの行方は、いまだ掴めていない。大陸のあちこちでその名を耳にすることはできる。特に、旧アルメキア時代、当時軍総帥だったゼメキスの周りでその姿を見たという証言が少なからずあり、真実だとすれば極めて重大な情報だった。
常々ハレーは、ゼメキスがクーデターを成功させたことに大きな違和感を覚えていた。あの日、アルメキア王国に反旗を翻したゼメキスには、彼直属の部隊だけでなく、アルメキア軍のほぼすべての兵、神官騎士団、魔術師団など、多くの者が味方に付き、ゼメキスら反乱軍と戦ったのは王ヘンギストの近衛兵と王太子ランスの親衛隊だけだったと言われている。ゼメキスは、武の力は大陸最強と言っても過言ではないが、決して謀略に長けた人間ではない。にもかかわらず、一夜の反乱で多くの者を味方に付けた。ゼメキスの力だとは思えなかった。何か、大きな力が働いているように思えた。
もし、ゼメキスのクーデターの裏で、魔導士ブロノイルが暗躍していたとしたら――。
確実なことは何も無い。不確かな情報から導き出した推測でしかない。しかし、捨て置くことはできない。万が一この考えが正しければ、いまのフォルセナ大陸の戦乱は、ブロノイルが仕組んだとも言えるのだから。
さらに調査を進めた結果、ブロノイルは東へ向かったとの情報を得ることができた。これも不確かな情報であったが、他に手がかりはなく、ハレーはエストレガレスの東・レオニアへ向かうことにしたのである。
どれくらい森の中を進んだか、生い茂ってきた草木が突然開けた。と言っても、森を抜けたわけではない。森の中の、泉が湧きだす場所に出たのだ。深い森の中にあるとは思えないほど水は澄んでおり、静かにたゆたう水面には、泉の周りの木々や青空に浮かぶ雲などが、まるで鏡のようにくっきりと映りこんでいる。
小さく安堵の息を洩らすハレー。森を抜けたわけではないのでひと安心という訳にはいかないが、ひとまずここで休憩しよう。ハレーは、喉を潤そうと水面に手を近づけた。
不意に、強い風が吹く。
水面が大きく波うち、映っていた木々や空が揺らめいた。
風はすぐにやみ、揺れていた水面も静かになる。
だが。
そこに、さっきまで映りこんでいた木々の葉や空は、無かった。
代わりに映るのは、蛇のような姿をした巨大な生物。
はっとして頭上を見るが、何もない。
再び水面を見る。確かに、そこに映っている。
――どういうことだ?
水面を覗き込むハレー。木々の葉や空だけでなく、自分の顔も映らない。存在しているものが映らず、存在していないものが映っている。それも、随分と禍々しき姿のものが。
長い首と、長い胴と、長い尾――一見すると巨大な蛇のようではあるが、胴体から昆虫のように節くれ立った足が何本も生えているという点で、決して蛇ではない。正面と思われる方向に飛び出した腕のようなものは、巨大な胡桃のような形をしている。頭部に目のようなものはない。大きく前に突き出した口と、翼を広げた蝙蝠のような耳があるだけだ。
異形の生物――そう表現するしかない。
ハレーはどこの国にも仕えていないが一応騎士であり、モンスターに関する知識はある。だが、こんな異形の生物は見たことも無い。モンスターの中には醜い姿をしたものも少なくはないが、この異形の生物に抱く嫌悪感はそれらの比ではなかった。
――これは、モンスターではない。
ハレーは、直感的にそう悟っていた。
異形の生物に羽は生えていない。にもかかわらず、それは空中を浮遊している。異形の生物の下には見渡す限りの焼けただれた大地が広がっていた。木の一本、草の一葉さえ生えていない。人家や人の気配、他の生物の気配も無い。それはまるで死の世界だった。この異形の生物の仕業だろうか? 火竜サラマンダーの炎をもってしても、これほど大地を焼き尽くすことは不可能だ。
ハレーは、水面をもっとよく見ようと、さらに身を乗り出した。
再び強い風が吹き、水面が大きく波うった。と、同時に、水面に映った映像が歪む。
風が止み、波うつ水面がまた静かにたゆたい始めると、水面に映っているのは木々の葉と青空、そして、ハレー自身の姿だけだった。もう二度と、異形の生物が映ることはなかった。
言い知れぬ不安を覚えたハレーは、泉の水には手をつけず、その場を離れた。すると、今まで迷っていたのが嘘のように、数刻で人家が点在する小さな集落にたどり着いた。
ハレーは集落で泉のことを訊ねたが、誰もそんな泉のことは知らなかった。