ゼメキスがアルメキアの王都ログレスを制圧し、エストレガレス帝国樹立の宣言をしたことは、一夜にして大陸中を駆け巡り、人々を驚かせた。そして、この一報に最も驚き、同時に、胸の内の野望を燃え上がらせたのは、昨年アルメキアとの戦争に破れた北の大国ノルガルドの王・ヴェイナードと、その側近・グイングラインであった。
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ノルガルドの首都であるフログエルは、フォルセナ大陸の最も北に位置する都市だ。夏でも高地には雪が残るこの地方は、二月の下旬ともなると、城壁ほどの高さの雪に覆われる。時に人々の生活を脅かす雪だが、いざ戦闘となった場合、降り積もった雪は天然の城壁と化し、敵の侵攻を阻む。フログエルの城は、自然の力を護りに取り入れた要塞だ。
その、フログエル城の奥にある王の執務室で、軍師のグイングラインは、王・ヴェイナードの言葉を待っていた。南のアルメキアで起こったクーデターの報告をしたばかりである。アルメキア王国軍総帥ゼメキスがクーデターを起こし、国王ヘンギストを殺害。ゼメキスは『エストレガレス帝国』の樹立を宣言したのだ。この報告を聞いたヴェイナードは、「まさか、ゼメキスがな……」とつぶやき、そのまま黙ってしまったのだ。
王が言葉を失うのも無理はない。ヴェイナードもグイングラインも、ゼメキスがいずれ反乱を起こすことは予想していた。しかし、それが成功する可能性はほぼゼロだと思っていたのである。反乱に成功し、ゼメキスが王になるなど、想定外の事態である。これに対し、ノルガルドはどう動くか……この決断は、ノルガルドの、そして、大陸全土の運命を左右することになるだろう。
ノルガルドは、フォルセナ大陸で最も広い国土を持つ国である。大陸の北部はほとんどがノルガルドのものであり、その面積は、フォルセナ全土の四分の一に当たる。
しかし、国土が広いからと言って、国が豊かであるという訳ではない。一年の半分以上を雪に覆われるほどの寒冷地であるこの国では、食料の生産力に乏しく、特に都市部を外れた貧しい地域では慢性的な飢えに苦しんでいた。故に、常に南の肥沃な大地を欲し、長いフォルセナの歴史の中で何度も南に侵攻し、そして、敗れてきたのである。
昨年のアルメキアとの戦争において国王・ドレミディッヅを討たれたノルガルドは、降伏を余儀なくされた。ドレミディッヅに代わって王になったのは、傍系のヴェイナードであった。
傍系とは、王の血筋からは外れた系統の者である。ノルガルドの王位は世襲制であるが、男子のみに限られ、女子は王位に就けない。前王は男子に恵まれなかった為、ヴェイナードが即位することとなったのである。
降伏したノルガルドは、アルメキアと講和条約を結ぶ運びとなった。この際ノルガルドに提示された条件は二つ。ノルガルドとアルメキアの国境付近にある要塞・ジュークス城を明け渡すことと、新国王の二親等までの親族を人質として差し出すこと、である。ジュークス城はノルガルド防衛の最重要拠点とも言える城で、ここを敵国に占領されると、南からの侵攻に極めて弱くなり、同時に、南への侵攻も極めて困難となる。また、国王の親族を人質とされ、ノルガルドはアルメキアに対する動きを封じられることになる。
この条件に対し、ノルガルド国内では、講和に反対する者も多かった。主に、前王ドレミディッヅの重臣だった者たちである。この講和は事実上ノルガルドがアルメキアの属国になることを意味している。降伏を撤回し、玉砕覚悟で特攻すべし、というのである。
しかし、ヴェイナードはこれら反対派の意見を押しきり、講和に応じた。
これにより、ジュークス城はアルメキアの手に渡り、ヴェイナードはたった一人の肉親である姉を差し出すこととなった。
ノルガルドの重臣、及び、国民は、新王のこの決断に落胆した。かつて戦場では『白狼』という二つ名で恐れられた将であったが、主君を討たれたことで怖気づき、敵に尻尾を振る駄犬に落ちぶれた――そう、噂された。
しかし、軍師であり、王の親友でもあるグイングラインは気付いていた。
ヴェイナードのこの決断は、一年、五年、そして、十年以上先のノルガルドを見据えた、大いなる決断である、と。
ゼメキスがクーデターに成功したとの報告を聞き、しばらく目を閉じていたヴェイナードだったが、やがて目を開け、まっすぐにグイングラインを見た。「グイン。ゼメキスが国を盗ったことは想定外だが、これは、ノルガルドにとって好機であることに変わりはない」
「同意見です、陛下」
「一年前、
「もちろん、心得ております」
アルメキアとの講和に応じ、ジュークス城と姉を差し出したヴェイナード。ノルガルドはアルメキアへの侵攻が困難になったが、それはアルメキアも同じだった。講和を結んだからには、それ以上ノルガルドを攻めることはできない。ヴェイナードはこの一年の間、優秀な人材を集め、兵を鍛え、武器と兵糧を集め、国力を高めていった。全ては、いずれ弱体化するであろうアルメキアに、再度、攻め込むために。
ヴェイナード達の当初の予想では、戦争を終えたアルメキアの重臣たちはゼメキスを処分しようとし、それに抵抗するゼメキスはクーデターを企むも失敗、ゼメキスおよび彼の兵は処刑されるはずであった。アルメキアが最強の軍を失うのを機に、一気に攻め込む予定であったのだ。
「予定とは違うが、今アルメキアが混乱状態であることには変わりない。実際、アルメキアの兵は王都に集中し、ジュークス城の守りが手薄になったとの報告も入っている。この機を逃す手は無いであろう。今こそ、立ち上がる時だ」
「その通りです、陛下」
グイングラインは右の拳を握って左の手のひらに包み、高く掲げて頭を下げた。ノルガルドに代々伝わる忠誠を示す仕草である。
「ですが、陛下」グイングラインは顔を上げた。「ひとつだけ、問題があります」
「なんだ?」
「アルメキア――エストレガレス帝国には、陛下の姉上・エスメレー様がおられます」
「――――」
ヴェイナードは、また、口を閉ざした。
講和によりアルメキアに人質として差し出されたヴェイナードの姉・エスメレーは、その後、ゼメキスの妻となった。ゼメキスのクーデターが成功し、王となった今、その国に攻め込めば、実の姉と刃を交えることも、あり得ない話ではない。
ヴェイナードは目を開けた。「大丈夫だ、グイン。姉上を差し出した時から、そのことは覚悟している。予は王だ。王が、戦に私情を挟むわけにはいかぬ。もし姉上がゼメキスに味方し、我が軍の前に立ちはだかるのであれば、予は、容赦しない」
「……ヴェイナード」
王の名を口にするグイングライン。今でこそ王と軍師の関係であるが、元々二人は幼馴染であり、親友として育った。故に、ヴェイナードが姉を想う気持ちは、グイングラインにも痛いほど判る。
だが、ヴェイナード本人がそう言うのであれば、親友としても、軍師としても、これ以上言うことは無い。
「……判りました、陛下」グイングラインは頭を下げた。「それでは、皆を集めます」
「頼む」
グイングラインは執務室を出て、ノルガルドの重臣や将軍に招集をかけた。
数刻後、フログエルの軍議室である円卓の間に、ノルガルドの重臣たちが顔を揃えた。多くは前王ドレミディッヅ時代から王家に仕える者たちだが、ヴェイナードが即位した後登用された騎士も少なくない。
円卓を囲む家臣たちをぐるりと見回したヴェイナード。皆、王の言葉を待っていた。
ヴェイナードは、静かな口調で話し始めた。
「――すでに皆の耳にも入っていると思うが、アルメキアで大きなクーデターが起こった。かつてアルメキア軍の総帥であったゼメキスがヘンギスト王を殺害し、王位に就いた。ゼメキスは自らを皇帝と称し、エストレガレス帝国の樹立を宣言した。これは、我が国が立ち上がる絶好の機会である」
王の言葉に、皆、無言で頷いた。
ヴェイナードは言葉を継ぐ。静かだった口調は、やがて力を帯びてくる。「一年前の講和以降、予のことを不甲斐無いと思った者もいるであろう。諸君らには歯がゆい思いをさせた。だがそれも、真の勝利を掴むためである。機は熟した。今こそ、我らノルガルドの力を、大陸中に示す時である!」
おお! と、王の言葉に真っ先に応じたのは、赤髪の若い騎士であった。「このパロミデス! たとえ火の中水の中。どこまでも陛下にお供し、必ずや、勝利を捧げて見せます!!」
パロミデスは、ヴェイナードが王に即位する前の将軍時代より彼の軍に属していた騎士だ。二メートル近い長身で、戦場では力任せに大斧を振るい、敵を撃破する戦法を得意としている。
パロミデスの言葉を、隣に座る同年代の騎士が笑う。「はは、陛下はお前と違い慎重なお方。むやみに火だの水だのに飛び込んだりしないのだよ」
「む? イヴァイン、お前!」パロミデスは隣の騎士を見て、ぎりぎりと歯を噛みしめた。
イヴァインと呼ばれた男もまた、即位前よりヴェイナードの軍に属していた騎士だ。武骨なパロミデスとは対照的に華麗な剣捌きが自慢で、後先考えず突撃するパロミデスを抑えることも多い。まったく異なる性格の二人だが、戦場においてはなぜか呼吸の合った連係を見せるため、ヴェイナードからは信頼され、敵国からは恐れられる存在である。
「パロミデス、イヴァイン。戦場においてはパロミデスのような愚直とも言える勇気も必要であるし、イヴァインのような冷静さも必要だ。故に、そなたたちが力を合わせれば、恐れるものは無い。期待しておるぞ」
ヴェイナードの言葉に、イヴァインとパロミデスは大きく声を上げ、頷いた。
「――フン。ようやく戦を始めるのか。随分と待たせてくれたのう。白狼王は、随分と目覚めが悪いと見える」
挑発的な言葉と共に立ち上がったのは、円卓の間に集まった者の中でも最も若い女だった。まだ少女と言ってもいい年頃で、幼さの残る目を精一杯つりあげ、ヴェイナードを睨む。
「これはブランガーネ姫。その物言いでは、白狼ごときには手を貸してくれず、今回の戦には参加せぬおつもりで?」
「誰がそんなことを言った! 良い機会じゃ。そなたらに、
「それは楽しみです、姫」
たいして楽しみでもなさそうな口調のヴェイナードを、ブランガーネと呼ばれた女は忌々しげに睨みつけた。
ブランガーネは前王ドレミディッヅの一人娘である。ノルガルドの王位は本来世襲制だが、女子は王位を継げぬ決まりがあり、直系のブランガーネではなく傍系のヴェイナードが即位した。そのことを不満に思っており、事あるごとにヴェイナードに立てついている。ドレミディッヅ時代からの重臣の中にはブランガーネの味方をする者も多く、ノルガルド内は、前王ドレミディッヅ派と現王ヴェイナード派に分かれ、激しく対立することもあり、グイングラインにとっても大きな悩みの種であった。
ヴェイナードはもう一度円卓を囲む家臣たちを見回した。「これよりノルガルドの戦いを開始する! グイン、イヴァイン、パロミデス! 三名は兵を率いてジューク城を攻め、すみやかにこれを奪還せよ!!」
「――は!!」
グイングライン達は右拳を握って左の手のひらで包み、頭を下げた。
「他の者は各自配置につき指示を待て! 向こうから攻めて来ることも考えられる! 護りを怠るでないぞ!!」
他の騎士たちもグイングラインと同じように頭を下げる。
「ノルガルドの力、フォルセナ中に示すのだ!!」
王の言葉と共に、騎士たちは、それぞれの戦地へ散っていった。
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聖王暦二一五年二月下。
エストレガレス帝国の樹立を宣言したゼメキスに対し、ノルガルドは講和を破棄し、宣戦布告。かつてノルガルド領だったジュークス城へと進軍し、翌月にはこれを制圧した。