フログエル城の政務室にて、白狼王ヴェイナードは各地より集まってくる報告書に目を通していた。毎日行っている政務であるが、先日のレオニア併合以降、寄せられる報告書の数は倍以上になった。それに比例し、行わなければならないことも増えている。併合後のレオニア国内の様子や他国の動きの把握、レオニアに属していた騎士たちの処遇、女王リオネッセとの婚礼の儀式の準備もしなければならない。どれも重要な仕事だが、現在のノルガルドにとって最も重要なのは食糧の確保だった。
寒冷地であるノルガルドは食糧生産力に乏しく、国中で慢性的な飢えに苦しんでいる。特に今年は、昨年夏の時ならぬ寒波による農作物の不作が大きく影響し、地方の貧しい地域は深刻な飢餓状態になっていた。今回のレオニアの併合により国の食糧事情は大きく改善される見込みだが、それでも、栄養充足値は十分ではなかった。
栄養充足値とは、人が生きていくのに最低限必要な栄養を得ている状態を一〇〇とし、各国や地域でどれだけ栄養の過不足があるかを数値化したものである。この数値が一〇〇を上回れば十分な食事が得られており、逆に一〇〇を下回れば飢えているということだ。併合後、レオニアの食糧事情を考慮し最新の栄養充足値を計算したが、いまだ国全体で九十に満たない状況である。併合前が六十前後であったことを考えると大きな改善ではあるが、まだまだ十分とは言えない。レオニアは豊かな土地ではあるが、宗教国家であるがゆえに『贅沢は悪である』との考えが国中に根付いており、余分な食糧は生産しない傾向にあるのだ。今後各地の食糧生産量を見直すことでかなり改善される見込みだが、当然、結果が出るには時間がかかる。すぐそこにまで迫っている冬を乗り切るためには、更に領土を広げる必要があるだろう。
一通り報告書に目を通したヴェイナードは、机上にフォルセナ大陸の地図を広げた。レオニア併合により、既に大陸の三分の一がノルガルドの領土となっている。国土が広がったことで様々な方向から他国へ侵攻できるが、逆に侵略される危険も増している。これより先は、より慎重に兵を動かさなければならない。
ヴェイナードはまず大陸東部を見た。現在は旧レオニア領のハドリアンまでがノルガルドの領地である。その南西には現在エストレガレス帝国領となったアスティンがあるが、現時点でこれ以上進軍するのは得策とは言えなかった。アスティンは北にカーナボン、西にソールズベリー、南にザナスとブロセリアンデ、そして東のハドリアンと、五つの拠点と隣接している。仮にアスティンへ侵攻し制圧できたとしても、その後の防衛は熾烈を極めるだろう。無理に侵攻し無駄に兵を消費するよりも、現在のハドリアンに留まって防衛に徹する方が賢明だ。ハドリアンは南北を険しい崖に挟まれた天然の要塞で、極めて守りに強いのだ。
続いてヴェイナードは大陸の西部に目を向けた。西部は現在西アルメキアとエストレガレス帝国が戦闘を繰り広げている。二国の戦況は帝国が極めて有利だ。開戦早々帝国のデスナイト・カドールが西アルメキアの重要拠点であるキャメルフォードを落としたため、西アルメキアは喉元に刃を突きつけられたような状態なのだ。これはノルガルドにとっても侵略の好機だ。キャメルフォードを落とされた西アルメキアは、北の砦ゴルレが完全に孤立してしまっている。援軍や物資の補給ができないため、ゴルレを落とすのは容易だろう。
しかし、現時点でゴルレを落とすのは避けた方が良いというのが、軍師グイングライン及びモルホルトの見解だ。ゴルレは西アルメキア内で最も北部にある都市だ。この地域に限って言えば、食糧生産力はノルガルドとあまり変わらない。食糧確保を第一優先とするならば、いまゴルレを制圧する利は少ないであろう。開戦後、ノルガルドと西アルメキアはまだ刃を交えておらず、両国とも敵対の意思は見せていない。無論、同盟を結んでいるわけではないので油断は禁物であるが、現在の状況で西アルメキアから攻めて来るとは考えにくい。ならばこちらからかあえて刺激することは避け、中央部の戦闘に専念すべきだ、というのが二人の軍師の意見だった。
最後にヴェイナードは中央部に目を向ける。開戦以降ノルガルドと帝国は激しく火花を散らしているが、戦況はノルガルド側に有利だと言って良いだろう。特に、旧アルメキアから亡命してきたモルホルトの活躍により、早期にオークニーを占領できたのが極めて大きい。また、南部で魔導国家カーレオンがソールズベリーを落としたことも、少なからずノルガルドに影響を与えている。ソールズベリーもオークニーも帝国にとっては極めて重要な拠点であり、この二城を失ったことで、帝国は敵国との隣接拠点が多くなった。そのため、各地へ兵力を分散させざるを得ないのだ。帝国軍は、かつて大陸最強を誇ったゼメキス軍を中心としており、現在でも極めて強大な武力を有しているが、その高い武力を分散せざるを得ない現状は、ノルガルドにとって極めて好機だ。この機を逃さず一気に帝国へ侵攻すべきであろう。
その足掛かりとなるのは、やはりノルガルド領ジュークスの南にあるリドニー要塞だ。
リドニー要塞は、フォルセナ大陸で最も流域面積の広いアルヴァラード川の中州に建つ天然の要塞である。極めて守りに強く、長年ノルガルドの南部侵攻を食い止めてきた砦だ。ノルガルド軍は、軍師グイングラインの指揮の元、開戦前からこの砦を落とすための準備を進めて来た。様々な事情が絡み何度も侵攻作戦を延期してきたが、今こそ攻め時であろう。今なら最少の被害で落とせるはずだ。
しかし、憂いが無いわけではない。
いかに帝国軍の兵力が分散しているとはいえ、個々の武力が極めて高いため、決して侮ることはできない。現在リドニーを守っている騎士は不明だが、重要拠点であるがゆえに並の騎士に任せるとは思えない。おそらく『帝国四鬼将』と呼ばれる強者四人のうちの誰か、もしくは皇帝ゼメキス自身が守備に就いているだろう。誰が守備に就いていようが落とすことは不可能ではない。グイングラインが行った事前の模擬戦によると、勝率は九割を超えるとのことだ。この数値だけ見れば極めてノルガルドに有利に思えるが、だからと言って決して楽観はできない。事前に何度模擬戦を行おうとも、実戦では必ず想定外のことが起こる。リドニーのような難攻不落の拠点での攻防ではなおさらだ。また、九割というのはあくまでもリドニーを制圧できるかどうかであり、その際に生じる被害までは考慮されていない。いかにリドニーを制圧しようと味方に被害が多ければ完全な勝利とは言えない。ノルガルドにとってリドニーは中央部侵攻の足掛かりに過ぎず、リドニーを落とした後もさらに侵攻していかねばならない。リドニーより南は地形が複雑化し、戦線を拡大させるにはより多くの兵が必要になる。ここで無駄に兵力を失うわけにはいかない。無論、被害を恐れて勝機を逃すわけにもいかない。その見極めは、極めて重要になるだろう。
ドアがノックされた。入るように促すと、軍師グイングラインが入室し、右の拳を左掌で包み、胸の前で掲げた。
「陛下、ルインテールが謁見を求めております」
その名を聞いて、ヴェイナードは小さく笑った。「ほう? 若僧には仕えられぬと軍を去った男が、今さら何の用だ?」
「恐らく此度のレオニア併合の話を耳にし、参ったのでしょう。いかがされますか?」
「面白い。会ってみよう」
ヴェイナードは地図をたたむと、謁見の間へ向かった。
ルインテールは前王ドレミディッヅ時代の重臣の一人である。いくさ好きのドレミディッヅの右腕として戦場で剛腕を振るったが、ドレミディッヅの死後ヴェイナードが王に即位すると、「二君に仕える意思なし」と、城を去って行った。以来、一年半以上姿を見せていなかった。
ヴェイナードは謁見の間に入り、高座の椅子に着いた。
「ご無沙汰しております、陛下。此度のレオニア併合、並びに、リオネッセ様とのご婚礼、心よりお祝い申し上げます」
ルインテールは右拳を左掌で包んで顔の前で掲げた。膝をついて屈んだ状態でも並の成人男子ほどもある大男だ。そんなルインテールが低座で縮こまって祝辞を述べる姿は、妙に滑稽であった。
ヴェイナードは小さく笑った。「フ……そなたほどの者が、わざわざそのような祝辞を言うために来たのではあるまい? 大方、此度の領土拡大の話を耳にし、居ても立ってもいられなかったのであろう?」
それが図星だったのだろう。ルインテールはうろたえたような表情になったが、やがてこうべを垂れた。「……陛下の仰る通りにございます。先日のオークニー制圧、そして此度のレオニア併合。これほどの領土拡大は、前王ドレミディッヅ様をはじめ、長いノルガルドの歴史の中でも初めてのことでございます。これもすべて、陛下の御手腕のたまもの。誠に感服いたしました。つきましては、どうかもう一度、このルインテールに、陛下と共に戦う機会をお与えください」
「フン、若僧に使われるのは我慢ならん、と、勝手に城を去ったのに、勝利を目にして今さらまた仲間にせよとは、ずいぶんと都合のいい話だな」
ヴェイナードの突き放すような言葉に、ルインテールはさらに身をすくめる。「これは手厳しいお言葉……しかし、返す言葉もございませぬ。不肖ルインテール、これまでとんだ思い違いをしておりました。陛下の手腕と才覚は、私などには計り知れぬものがございました」
そう言った後、ルインテールは床に頭を叩きつけんばかりの勢いでひれ伏した。「陛下! これまでの御無礼の数々、どうかお許しを! そして願わくば、我が身をノルガルド軍の片隅にでも置いて頂ければと存じます!!」
ヴェイナードは顎に手を当て、じっくりとルインテールを見た。間もなく冬を迎えるこの季節、ノルガルドの民は厚手の服を身に着けるようになる。ルインテールも毛皮で作られた衣服に身を包んでいるが、胸部や二の腕の部分が大きく盛り上がっており、厚手の服を着ていてもその下にある引き締まった肉体が容易に想像できた。城を去った後も身体の鍛練だけは怠らなかったのだろう。
ヴェイナードは静かに口を開いた。「ルインテールよ。そなたは予に反発して城を去り、一年半も休んでいたのだ。今さら軍の片隅で戦うなど、許すと思うか?」
「陛下、なにとぞお許しを!」
「そなたには以前と同じく、ノルガルド軍の中核をなして戦ってもらう」
「……は?」
言われた言葉の意味が判らなかったのか、顔を上げたルインテールは、目を白黒させる。
ヴェイナードは言葉を継ぐ。「戦況は拡大し、人手はいくらあっても足りぬ。さらに、これより先はエストレガレスと正面からぶつかることになる。そなたのような勇猛な騎士が不可欠だ」
ヴェイナードの言葉に、ルインテールは感極まったのか、瞳を潤ませている。「……もったいなきお言葉でございます、陛下」
「片隅で戦うなど決して許さぬ。これまで休んでいた分を取り戻すまで、最前線で戦ってもらうぞ」
「ははっ! 望むところにございます! この不肖の身、いかようにもお使いくださいませ!!」
ルインテールは、もう一度手のひらで包んだ拳を高く掲げた。
謁見は終わり、ヴェイナードは席を立つ。
しかし、部屋を出ようとしたところで足を止めた。ルインテールを振り返る。
「ルインテールよ。前王ドレミディッヅは、良き武将であったな」
「は……?」謁見は終わったものと思っていたルインテール。不意の話に、困惑した表情を向ける。
ヴェイナードは構わず続ける。「個の武術はもちろんであるが、用兵術にも長けていた。戦略眼に優れていたとは言えぬが、それを覆すほど武の力に長けていたのだ。あれほどの武将は、二度と現れぬやもしれぬ」
「はい。仰る通りにございます」
「だが、武将としては優れていたが、王としては明らかに失格であった――予はそう思っている。そなたやロードブルら前王の重臣は、気を悪くするやもしれぬがな」
「いえ、陛下の仰る通りにございます。私もドレミディッヅ様を最高の武将と尊敬しておりましたが、王には明らかに不適格なお方でございました。恐らくロードブルらも、心の中でそう思っていたことでしょう」
「予は前王のようにはなれぬ。戦場の最前線で戦うことは厭わぬが、王の立場を忘れ、いくさだけに集中するわけにはいかぬのだ。予は、このいくさが終わるまで民を導き、そして、いくさが終わった後も民を統べなければならぬからな」
「はい。心得てございます」
「だが、これからいくさが激化すれば、前王のような勇猛な武将の存在は不可欠だ。ルインテールよ、最高の武将ドレミディッヅのすぐそばで戦い続けたそなたもまた最高の武将であると疑わぬ。ドレミディッヅを支えたその力、期待しておるぞ!!」
「ははぁ!! このルインテール、必ずや陛下に勝利を奉げましょう!!」
ルインテールは再び深く頭を下げた。