エストレガレス帝国の騎士メルトレファスの目の前で、剣聖エスクラドスと白狼ヴェイナードは静かに向かい合っていた。お互い睨み合ったままで、言葉を発することはなく、動こうともしない。しかし、その内側で闘志が燃えているのは明らかだった。二人の姿を見ているだけで、肌を針で刺すような痛みを全身に感じる。恐らくこれは、二人が発している『闘気』とでも呼ぶべきものなのであろう。まだまだ新米騎士に過ぎないメルトレファスですらこれほどの闘気を感じる。これからどんな戦いが始まるのか想像もつかなかった。
エストレガレス帝国の奇襲によるレオニア侵攻は、ハドリアン・グルームの二つの城を立てつづけに落とし、わずか二ヶ月で聖都ターラの王城に迫っていた。戦況は帝国側が圧倒的有利であったが、突如、北からノルガルド軍が駆けつけレオニア軍に加勢したため、戦いの行方は判らなくなった。
エストレガレス軍の前線で戦っていたメルトレファスは、偶然にもノルガルド王ヴェイナードと対峙。大きな手柄を立てるチャンスと戦いを挑んだものの、その実力差は圧倒的で、相手に傷一つ負わせることなく敗れた。そして、とどめを刺される寸前に、エスクラドスによって救われたのである。エスクラドスは旧アルメキアで剣術指南役を務めていた騎士で、大陸最強の剣士として名高い男だ。今回のレオニア侵攻ではエストレガレス軍の主攻を務め、常に最前線で戦っていた。
「――剣聖とまで謳われた貴公が、ゼメキスの反乱に手を貸したことには驚かされました」ヴェイナードが沈黙を破った。「ゼメキスの反乱にそれほどの大義があったのか、あるいは、剣聖が道を誤ったのか……『人を斬る魅力に憑りつかれた』などというくだらぬ噂を耳にすることもあります」
人を斬る魅力に憑りつかれた――その言葉に、メルトレファスは息を飲んだ。その噂は、メルトレファスもよく耳にする。反乱の夜、エスクラドスは王ヘンギストの居城に攻め込み、城を警護する多くの近衛兵を斬り捨てた。城内は血の海と化し、そこにたたずむエスクラドスの姿は、さながら幽鬼のようであった、と、エストレガレスの兵は口をそろえて言った。アルメキア時代のエスクラドスは、道義を重んじ、国の内外を問わず多くの騎士から信望を集めた人物であった。敵国の王であるヴェイナードでさえもエスクラドスに対しては敬意を表した言葉で話していることからも、それが伺える。それほどの人格者であったエスクラドスが、人を斬る魅力に憑りつかれたなど、くだらない噂に過ぎない――そう思う反面、メルトレファスも、今回のレオニア侵攻で多くのレオニア兵がエスクラドスに斬られるのを目の当たりにし、噂を完全に否定できないでいる。
「人を斬る魅力か……それも、悪くは無い」エスクラドスは静かに口を開いた。「所詮、剣は人を斬るための道具。ならば、剣の強さとは人を斬った数で決まる――それも道のひとつには違いなかろう」
ヴェイナードは顎を上げ、小さく笑った。「剣聖も堕ちたものよ。貴公ほどの方が、そのような戯言に惑わされるとは」
「わしは道のひとつであると言っただけだ。だが、そなたが望むのであれば、敵を斬り殺すための剣を見せてやろう」
エスクラドスはわずかに腰を落とし、腰に携えた剣に手をかけた。
「フン。そなたには失望した。今日限り、剣聖を名乗るのはやめてもらおう」ヴェイナードの言葉からエスクラドスに対する敬意が消えた。剣を抜き放つ。「では、予もそなたに見せてやろう。目指すもののために戦う剣の輝きを!」
ヴェイナードは一気に間合いを詰めた。頭上に振り上げた剣を、エスクラドスに向かって振り下ろす。対するエスクラドスは、剣に手をかけたまま半歩身を引いてかわした。剣先がエスクラドスの鼻先をかすめそうなほどのわずかな動きであった。ヴェイナードはさらに剣を振るう。右から左、左下から右上、上から下、と、剣はまるで生き物であるかのような巧みな動きで襲い掛かる。メルトレファスはその動きを目で負うのがやっとだが、エスクラドスは全ての攻撃を最小の動きでかわし続ける。その間、剣は鞘に収められたままだ。
「どうした? 剣聖ともあろう者が、手も足も出ぬか?」
挑発的な言葉と共にさらに剣を振るうヴェイナード。エスクラドスは無言でかわし続ける。剣を抜く気配すらない。だがもちろん、それは手も足も出ないからではない。あれは、攻撃の機会をうかがっているのだ。
何度目の攻撃か、ヴェイナードの剣を右に回り込んでかわした瞬間、エスクラドスの放つ闘気が一気に強まった。
――斬る!
メルトレファスは直感的に悟った。
しかし、エスクラドスの手はわずかに動いただけだった。剣は鞘から抜かれていない。少なくとも、メルトレファスにはそう見えた。
だが、次の瞬間、ヴェイナードが地に片膝をついた。
ぽたり、と地面に血がこぼれ落ちる。ヴェイナードの左わき腹が赤く染まっていた。エスクラドスの剣によるものとしか思えなかった。ヴェイナードは白銀の鎧を身に着けており、当然腹部も守られているが、その上から斬り裂いたのだ。しかし、いつ攻撃したのだろう? あの闘気が高まった瞬間としか思えなかった。信じられないことに、エスクラドスはあの一瞬で鞘から剣を抜き、ヴェイナードの腹を斬り、そしてまた鞘に収めたのだ。
それは『居合』と呼ばれる剣技だった。
エスクラドスの使う剣術は、東方の小さな島国から伝わった独特なもので、この大陸の騎士が使う剣術とは全く異なるものだ。居合は、剣を鞘に収めた状態から相手を斬ることに特化した剣術である。剣を収め相手を油断させた状態で斬ったり、あるいは、突然襲ってきた敵を迎撃したりと、奇襲や暗殺、護身のための剣術だ。まさに『敵を斬る』ための剣と言える。ただし、居合は明らかに実戦向きではない。剣を収めた状態で戦いに臨むなど、相手に大きな優位性を与えるだけだ。
だが、それでもエスクラドスはヴェイナードを圧倒した。
メルトレファスは、自分の身体が震えていることに気が付いた。なぜ震えているのだろう? エスクラドスの剣技に恐怖しているのか? それとも、圧倒的な強さの前に興奮しているのか? おそらくどちらも違う。この身体の震えは、自分の無力さに気付いた悔しさから来るものだ。メルトレファスが手も足も出なかったヴェイナードが、今度はエスクラドス相手に手も足も出なかった。メルトレファスは、デスナイト・カドールや皇帝ゼメキスのような強さを求めている。エスクラドスの強さもこの二人に匹敵するだろう。自分が追い求める強さとはどれほど高い位置にあるのだろう? 果たして自分はその高みに到達できるのだろうか? 今のままでは不可能な気がした。自分には、決定的な何かが足りない。
エスクラドスがヴェイナードの側に立った。膝をついたヴェイナードを見下ろす格好だが、その目は相手を蔑むようなものではなかった。
「白狼よ。そなたの剣筋は悪くない」エスクラドスは、まるで稽古の相手に教えを説くように話す。「目指すもののために戦う剣の輝き、確かに見せてもらった。だが、足りぬな」
「なに?」苦痛に歪んだ目でエスクラドスを見上げるヴェイナード。
「わしとて目指すものはある。今回は、わしの目指すものの方が上だっただけのことだ」
「ほほう。剣聖と謳われるまでに剣を極めたあなたに、まだ目指すものがあると?」
「…………」
「これほどの剣の輝きを見せるものとは何か、ぜひ伺いたいものですな」
ヴェイナードの言葉には、また敬意が戻っていた。
エスクラドスは目を伏せた。「……わしとしたことが、少々口が過ぎたようだ。そなたに見せるのは敵を斬り殺すための剣であったな。覚悟するが良い」
鞘から剣を抜き放つエスクラドス。その刀身は一般的な剣よりも細く、わずかに湾曲しており、刃は片側にしか付いていない。東方の剣術に用いられる剣・カタナである。
エスクラドスは両手でカタナを構えた。
だが次の瞬間、頭上から強烈な吹雪が吹き付け、エスクラドスの身体を包んだ。
メルトレファスが空を見る。銀の鱗に身を包んだ巨大な竜が空を飛び、口から吹雪の息を吐き出していた。上位ドラゴンの一種・シルバードラゴンだ。それも、二体。
「――全軍集結!! 何としても陛下をお守りしろ!!」
ノルガルドの将の声が響き渡った。その声に応じ、周辺のノルガルド兵が一斉に駆けつけてくる。
「……邪魔だ」
二体のシルバードラゴンの吹雪の息を浴びたものの、それでもエスクラドスは倒れない。襲いかかるノルガルド兵を斬り捨てていく。だが、ノルガルド兵の数は一向に減らない。主君を守ろうと、次々と集まってくる。メルトレファスも加勢するが、これではキリが無い。
号令をかけた敵将が、ヴェイナードに肩を貸した。そのまま背を向ける。
「逃げるか、白狼」左から襲ってきたノルガルド兵を斬り捨て、エスクラドスがヴェイナードを睨む。
ヴェイナードが振り返った。「少々貴公を侮っておりました。此度はその剣に敬意を表し、退くことにいたします」
「臆したか、腰抜けめ」
「そう思われても仕方ありませぬ。ですが、私には目指すものがあり、その道はまだまだ遠いのです。こんなところで歩みを止めるわけにはいきませぬ。次にお会いした時は、白狼の恐ろしさ、存分にお見せしましょう」
再び背を向けるヴェイナード。もうエスクラドスが何を言おうと振り向かなかった。
その後も次々とノルガルド兵が襲ってくる。全て斬り伏せたとき、ヴェイナードの姿は消えていた。
エスクラドスは小さく舌打ちをすると、剣を収めた。「……興が冷めた。帰るぞ」
「帰る……? 撤退するということですか?」メルトレファスは、去ろうとするエスクラドスの前に立った。「白狼を逃したとはいえ、ターラ制圧は目の前です。いまここで退くわけにはいきません」
「レオニアとノルガルドが手を組んだ以上、これまでのようにはいかぬ。後方はイスカリオに攻められているとも聞く。これ以上の深入りは危険だ」エスクラドスは淡々とした口調で言った。
確かに、レオニアとノルガルドが相手となると、今までのような素早い進軍は見込めないだろう。また、後方の拠点アスティンがイスカリオに攻められているという話はメルトレファスも聞いている。アスティンを守っているのはデスナイト・カドールだ。滅多なことでは落ちないだろうが、万が一アスティンを落とされた場合、メルトレファスらレオニア侵攻軍は敵地で孤立することになる。エスクラドスの言う通り、これ以上の進軍は危険かもしれない。
「――全軍撤退!!」
エスクラドスの号令で、帝国は一斉に兵を退きはじめた。