エニーデによるゼメキス暗殺未遂事件から一節が過ぎた。あの事件で左手を負傷したメルトレファスは今日までずっと休養しており、戦場に立つことはおろか城の防衛や修行の旅に出ることも無かった。
メルトレファスが休養している間、戦況に大きな動きがあった。このオークニーと南のエオルジアが西アルメキアからの侵攻を受け、さらに、北東にあるリドニー要塞がノルガルドからの侵攻を受けたのだ。幸いオークニーとリドニーは防衛に成功したものの、エオルジアは陥落し西アルメキアの領土となった。西アルメキアはこれらの作戦と同時にノルガルド領アリライムにも侵攻し、制圧に成功している。
西アルメキアが勢力を伸ばし、ノルガルドも帝国へ本格的に侵攻してきた。南のイスカリオとの戦闘も続いているし、ソールズベリーはカーレオンに奪われたままだ。帝国にとっては大きな正念場である。にもかかわらず、メルトレファスは戦う気にはなれなかった。怪我は決して重度なものではなく、十日と経たずほぼ完治している。そもそも左は彼の利き手ではないため、その気になれば右手だけでも十分戦場に立てたのだが、とてもそんな気にはなれなかった。この一節の間は訓練さえせず、ほとんどの時間を自室で過ごしている。以前のメルトレファスでは考えられないことだった。彼は、力こそ正義・強い者が正しい、を信条にしてきた。強くなるため、いくさでは誰よりも前線で戦ったつもりだし、いくさのない日も訓練は欠かしたことがない。全てはカドールやゼメキスのような強さを得るためだったが、それが果たして正しかったのか、今はもう判らなくなっている。
――ゼメキス陛下を暗殺しようとしたエニーデは敗れた。力こそ正義・強い者が正しい。陛下は強いから生き残り、エニーデは弱いから死んだ。ただそれだけのことだ。
部屋に閉じこもっている間、何度も自分に言い聞かせてきたことだ。メルトレファスの信条に基づくならば、あの事件は生き残ったゼメキスが正しく、死んだエニーデが間違っていることになる。実際その通りなのかもしれない。ゼメキスやカドールの話によれば、エニーデの父親はノルガルドの間者であったという。間者を追放するのは当然のことであり、そのことを知らず誤解からゼメキスを討とうとしたエニーデは明らかに間違っている。だが、エニーデには死以外の道は無かったのだろうか? 力のない者が力のある者に刃を向ければ死は免れない。エニーデはゼメキスに向かって弓を引いた時点で死は避けられない運命だったのだ。ならば、あの日――早朝の訓練場でエニーデの父親について聞いた日――復讐を止めることができていれば死ぬことはなかったのだろうか? 復讐を止められなかった自分は無力だったということなのだろうか? ならば自分も、この先に待っているのはエニーデと同じ死のみなのか? 判らない。今のメルトレファスには、何が正しくて何が間違っているのか、もはや判らなくなっていた。
ただひとつ、言えることは。
「……エニーデに、会いたい」
メルトレファスは胸の奥から湧き上がる言葉を口にした。エニーデに会えば答えを教えてくれる気がした。いま自分が何をするべきか導いてくれるような気がした。いや、例え何もしてくれなくとも、ただそばにいてくれるだけで心が安らぐだろう。
だが、死んだ人間は決して生き返らない。エニーデとの再会は叶わない。メルトレファスを救ってくれる人はいない。
突如。
「――エニーデに会いたいか?」
自分一人だった部屋に、別の者の声が響いた。
「誰だ!?」
部屋を見回すメルトレファス。誰もいない。気のせいか? そう思ったが、そのわりにはあまりにもはっきりと聞こえた。しわがれた暗い声が、今も耳の奥に張り付くように残っている。外から聞こえたのでもない。見えない何者かがこの部屋にいて声を出した。そう思えた。
――見えない何者か。
いや。
いた。
それは部屋の隅。十分な光が届かずわずかな闇と化していた空間に、その者はいた。
メルトレファスがその存在に気付いた瞬間、その者ははっきりと姿を現した。老人のような姿をしていた。漆黒の法衣に身を包み、古代のルーン文字と思われる紋様が刻まれた杖を持っている。わずかに首を傾け、闇よりも暗い目をメルトレファスに向けた。
メルトレファスは側に置いてあった剣を取り、鞘から抜いて構えた。「誰だ!? どこから入った!?」
剣を向けられても男は微塵も動じず、地の底から聞こえてくるような声で続ける。「私はどこにでもいる。我が名はブロノイル、求め続ける者。私がエニーデに会わせてやろう」
エニーデに会わせる――その言葉で、メルトレファスの剣先が下がった。
男は薄い笑みを浮かべ、暗い目でメルトレファスを見つめている。その目を見ていると、心が吸い込まれるような錯覚を覚える。
だが、すぐに首を振り、剣を構え直すメルトレファス。「エニーデに会う? あいつは死んだ。死んだ者に、二度と会うことはできない」
男の言葉を否定したはずだったが、なぜか男は嬉しそうに笑った。「そうだ。人は死ぬ。死は万人に訪れ、あらゆる絆を断つ。そして、人は大切な者を失った悲しみも癒せぬまま、己の死によってこの世界から消えていくのだ」
男の暗い目が、メルトレファスを見つめている。男の言葉が、メルトレファスから敵意を奪っていく。
――そうだ。この男の言う通りだ。
そう思った。
男は、さらに言葉を継ぐ。
「人は死ぬ。どんなに強い者でも、いつかは必ず、死が訪れる。そして、人は死ねばそれで終わりだ。そこにどのような絆があろうとも、関係ない。例え両親であっても、兄妹であっても、子供であっても、恩人であっても、愛する者であっても。死は、全てを消し去ってしまう」
そうだ……その通りだ。
男の言葉が、メルトレファスの心を侵食する。男の言葉の続きを引き取るように、思いが胸の内に溢れてきた。
俺も同じく同じく死ぬ。この世界から消える。
だが、それでも世界は続いていく。
誰かが死に、誰かが悲しむ。その誰かも死に、また別の誰かが悲しむ。
いまも世界のどこかで誰かが死に、別の誰かが悲しんでいる。明日も誰かが死に、誰かが悲しむだろう。
そうして、世界は続いていく。
悲しみが、続いていく。
死の連鎖は止まらない。
悲しみの連鎖は止まらない。
この世界は地獄だ。
悲しみが永遠に続く、それを地獄と呼ばず、なんと呼ぶのだろう?
こんな地獄を、俺は今まで生きて来たのだ。
こんな地獄を、俺は生きていかねばならないのだ。
メルトレファスは、知らず、剣を落とし、床に伏していた。
「――だが私なら、その悲しみの地獄から、お前を救い出してやれる」
男の言葉に。
「俺を……救う……?」
メルトレファスは、顔を上げた。
男の目が、言葉が、メルトレファスの心を飲み込もうとしている。
「そうだ。私と共に来るがよい。私がお前をもう一度エニーデに会わせてやろう」
もう一度、エニーデに会える――甘美な言葉だった。だが、どうやって会うというのだろう? エニーデは死んだのだ。死は永遠の別れを意味する。二度と会うことは叶わない。
メルトレファスは何も言っていない。ただ心の中で思っただけだ。なのに。
「簡単なことだ。死が永遠の別れならば、死を超越した存在になればよい」
男が答えた。まるで、メルトレファスの心を読んだかのように。
死を……超越……? 確かに、それならばまたエニーデに会えるだろう。しかし、そんなことが可能なのだろうか?
「もちろんだ」
男が、またメルトレファスの心の声に答えた。男はメルトレファスの心の中に入り込んでいる。そして、それが不快ではない。
「さあ来い、メルトレファス。エニーデに会いたいのだろう?」
男の目は、メルトレファスの心を完全に飲み込み。
「……そうだ……俺は……エニーデに……会いたい……」
うわ言のようにつぶやいた。
「……エニーデに会えるのならば……どこへでも……行く……」
男は満足げに笑った。「そうだ。それでいい。では、行くぞ」
「……はい……」
男が漆黒のマントをひるがえすと。
そこには、男の姿も、そしてメルトレファスの姿も、無かった。
「――陛下、メルトレファスめが、姿をくらませたようです」
オークニーの居室で、ゼメキスはカドールから短く報告を受けた。
メルトレファス――先日のエニーデによる襲撃事件の際、そばにいた男だ。あの時の様子を思い出す。ゼメキスに弓を向けたエニーデに対し、あの男は攻撃をためらい、ただ説得で事を収めようとした。エニーデもあの男を攻撃することをためらっており、命を奪うことはなかった。二人が浅からぬ仲であったことは明白だ。あの男がエニーデの死を嘆き、何かしらの行動を起こしたとしても不思議ではない。
無論。
今のゼメキスには、新米騎士一人に構っている暇など無い。
「逃亡は死罪に値します。刺客を放ちますか?」カドールが問う。
「捨て置け。臆病者に用はない」ゼメキスは静かに言った。
「――御意」
カドールは右の拳を左胸に当てると、部屋を去った。