昼過ぎ。イスカリオがエストレガレス帝国から奪取した城カーナボンの一室で、女魔術師のヴィクトリアは、鏡の前に座り、入念に前髪を整えていた。が、今日の前髪はなかなか手ごわい。右から左へと自然に流れる感じに仕上げたいのだが、どうしても浮いてくるのだ。朝からずっと、このしつこい前髪と格闘している。メイクもネイルも衣装もアクセサリーも完璧なのに、この前髪だけが邪魔をする。これでは、殿方の前に出ることができない。
ドアがノックされた。返事をすると、新米騎士のユーラが入って来た。
「ヴィクトリアさん。帝国が攻めてきましたが、どうしましょうか?」のんきな声で言う。
「……あなた、以前アルスターさんから、『もっと緊張感を持って報告してください』とか言われてなかったかしら?」
「はい。言われました。あたし、いま緊張感なかったですか?」
「ええ。隣のおばちゃんが回覧板を持ってきたかのような言い方でしたわよ?」
「スミマセン。今度から気を付けます。で、どうしますか?」
全く気を付ける気など無いような口調で答えるユーラ。まあ、別にいいですけどね、と、ヴィクトリアは心の中でため息をついた。もっとも、ヴィクトリアもずっと前髪を整えていて、緊張感など持っていないのだが。
「今日はどうにも前髪が決まらないのよ。これでは出撃なんてできませんから、別の方に言いなさい」
「はい。あたしもそう思ったんですが、今この城にいる騎士は、あたしとヴィクトリアさんだけです」
「はい? ドリスト陛下や、アルスターさんは、どうされたの?」
「陛下は、カエルセントで行われる『第五百四十九回全国美味いもの大食い選手権』に出場されるので、帰還されました。イリアさんやバイデマギスさんやダーフィーさんも参加するので、陛下にお供されています。アルスターさんやミゲルさんたちはソールズベリーの防衛に向かわれました。ティースは、相変わらず修行の旅に出てます」
やれやれ、この国の男共は、国の防衛を放っておいて何を遊んでいるのかしら、と、呆れるヴィクトリア。無論、その間も前髪との格闘は続いている。
「ヴィクトリアさんがお忙しいのであれば、あたしが対応しますけど?」
さらっと言うユーラ。この娘は、相手が帝国だということを理解しているのだろうか? 仕方ない。前髪は決まらないが、さすがにこの娘一人に任せるのは気が引ける。ルーンの加護はあるものの、ユーラはほとんどドリスト専属のメイドと言ってよい立場なのだ。戦力としては、ほぼ期待できない。
「仕方ありませんわね。前髪がイマイチ決まりませんが、出撃しましょう」ヴィクトリアは前髪との格闘を諦め、愛用のとんがり帽子をかぶった。「それで、こんなにも美しいわたくしと戦える幸せな方は、どなた?」
ユーラはメモを取り出した。「えーっと。報告によると、魔術師のギッシュさんです」
「そう。ギッシュさんですか。ギッシュさん……ギッシュさん? ……ギッシュ様ですか!?」
「はい。そうなってます」
ヴィクトリアはユーラの両肩を掴んだ。「間違いなくギッシュ様ですのね? あの、旧アルメキアの宮廷魔術師にして、現エストレガレス帝国軍総帥のギッシュ様なのですね!? ガッシュさんではなくギッシュ様なのですね!? ガッシュとギッシュ、たった一文字違うだけで、大変な違いですよ!?」
「誰ですか? ガッシュさんって?」
「いえ……」
ヴィクトリアはユーラの肩から手を放すと、帽子をとって再び前髪を
ヴィクトリアは、コホンと咳ばらいをした。「……戦いたいのは山々ですが、身だしなみが整わないまま殿方の前に出るのは乙女の恥。今日のところは、心の広いわたくしが勝ちを譲って差し上げましょう。ユーラさん。相手側に、『せっかくのデートのお誘いですが、今日はどうしても外せない用事がありますので失礼します。また次の機会を楽しみにしてますわ』とお伝えください」
「『――また次の機会を楽しみにしてますわ』……っと」ユーラはバカ正直にヴィクトリアの言葉をメモした後、「了解でーす」と子供のように手を挙げ、部屋を出て行った。