ザザアアーーン。ザザアアーーン。
余韻を残して浜辺を打つさざ波の音は遠く、うみねこが高く鳴いていた。夏の日差しは熱く、しかして生命力に溢れんばかり。
空は海よりも青く澄み渡り、海は空よりも蒼く透き通っている。
風がくすぐるように頬を撫で、海の気配を運んでくる。懐かしき磯の香りが心地好い。
丘の一等見晴らしのいい場所で立ち止まり、
「提督、着きましたよ」
そう白い帽子をかぶった彼に声をかける。提督は頷いて、「ありがとう」と言った。
この辺りの海を見渡す丘。そんなに高くはないけれど、眺めは気持ちのいいものだ。提督が突然海を見たいと言った時は、どうしたのかと思った。でも、ここに来られてよかった。
周りにはみかんの木が植わっており、白い花をぽつぽつと咲かせていた。
みかんの花咲く丘――――。提督は、ただ海を眺めていた。
「風が気持ちいいですね、提督」
「ああ」
彼の後ろにいるので、その表情は窺えない。ただ、その声にはどこか、懐旧とか、物悲しさとか、そんなものが混じっていた気がする。
私も提督と同じように、遠く遠く、海を望む。
暖かな陽の光を受けて、きらきらと照る海面。水たまりに幾千もの宝石を落としたように輝いている。眩しくて――とても眩しくて、少し目を細めた。
「あなたと私たちが守った海ですよ」
「……ああ」
提督は頷いて、そう返した。
……少し、声色が沈んだ気がする。それでも、私は提督と二人でここに来られたことが嬉しかった。
「あっ……見てください、提督」
遥か海の彼方を指さす。水平線の近くに、遠く霞む影が見えた。大きな貨物船だ。黒い煙を吐きながら、青の原をゆっくりと泳いでいる。
それを見た途端、私の心と呼べる機関に色んな感情が溢れ出して、胸が暖かくなった。あれこそが、私たちが確かに存在した証明であり、勝ち得た物だった。
「見えますか? 提督。 ……どこに行くんでしょうね」
そう言って、隣に立ってふと提督の顔を覗きこむ。
提督は、茫然としたように、その瞳に青を映していた。
「……怖かったんだ。 海を見るのが」
提督はぽつりと言った。その言の葉は、からっぽだった提督の時間すべてを語っているようだった。
「みんな……みんな、沈んだ。 解体されて、鋼になった」
提督は震えた声で、絞り出すように言葉を紡ぐ。私はそんな提督の叫びを、ただ聞いていることしかできなかった。
「……海って、こんなに青かったかな。 もう目が霞んで、船もよく見えない」
今にも溢れそうな光の筋をせき止めるように、提督は目を伏せる。私もまた涙を堪えながら、提督の肩に手を置いた。
「ええ。 みんな、みんな……。 あの子も――――、海の底です。 ずっと前から」
一つ一つ、思いを紡ぐ。深海棲艦との戦い。遥か遠き日々。硝煙の匂いも油の匂いも、今はとんとしない。
みんながいた頃。瑞鶴も、加賀さんも、赤城さんも……。今は古き記憶を、懐かしく思った。
「もう、私だけになってしまいましたね」
そう。残ったのは、もう私だけ。海は静かになって、艤装を外して。
もう私が鉄の舟を背負うことはない。幾つもの飛行機を飛ばすこともないし、あの海を奔ることもない。
私に残された最後の任務は、提督をずっとお守りすること。艦娘として生まれてきた私の、最後の存在意義。戦いが終わっても、私がいられる理由。
みんな沈んでしまった。あるいは解体されて、国へ還った。それが定め。私も、そうなる運命だった。
けれど今、私はこうして提督の傍にいる。
私は、ただそれだけでよかった。
「……すまない」
震える肩を抱え、提督は言った。彼はもう一度、海を見遣る。頬を伝う光の雫。それがとても美しく見えて、私は提督の顔を見つめた。
汽笛が大きく、遠く鳴り響き、うみねこと歌った。海の音。耳を澄ます。
波に揺られていた貨物船が近くの島の影に入り、見えなくなった。辺りに聞こえるのはまた、うみねことさざ波のデュエットのみとなった。
「それでも、私はここにいます。 あなたの傍に、ずっと」
涙を堪えるのが苦しい。弱りきった提督の姿は物悲しく見えるが、それでも私にとっては愛しい人だ。
少し前まで海を怖がっていた彼の姿は子供のようでいて、それでいて老いた動物のようだった。
……そうして私は、どうして提督が海を見たいと言ったのか、分かってしまった。彼が海を恐れていた理由。彼が海を望みに来た理由。こんなに頭が回らないなんて、私ももう老朽艦らしい。
だから、今あなたに言えることを言う。着飾らなくていい。提督へ。
「怖かったんですね。 自分を許せなくて。 ずっと、独りで抱え込んで」
私は傍にいることしかできなかった。提督は、それだけでいいと言っていた。
傷ついた提督の心を癒せるものをずっと探して、疲れ果ててしまった。提督も、贖いの果てを求め、いつも黒い海に心を潜めていた。
答えは、こんなにも近くにあったのに。
私も提督も、気づけなかった。
静かな海。きっと届くだろうと信じて、手の届くところまで歯を食いしばって這って来たのに、結局手を伸ばすことをやめてしまった場所。すぐそこにあったのに、それを見るのが怖くて、ずっと怯えていた。
けれど、ようやく提督は手を伸ばしてくれたのだ。
だったら、私はその手に、自分の手を重ねるだけ。
「ねぇ、提督。 海を聴いてください。 こんなにも、静かです」
聞こえるのは、うみねこの歌とさざ波のメロディ。
飛行機のプロペラの音はしないし、大きな砲撃の音もしない。艦艇が波を裂いて奔る音は聞こえないし、鋼が軋む音も、機銃が唸る音も聞こえない。
静か。静かな海だ。
「――――俺は……取り戻せたのか。 この海を」
提督は、震える声で言った。それは、許しを乞うように、懇願するようにも聞こえた。
だから私は、すべてを許すように、優しく言った。
「……はい。 提督と、みんなの力です」
そうして、少し小さくなった提督の体を抱き締める。それは母が子をあやすような仕草にも見えたかもしれない。
提督は細い雨のように涙を流して、海を望んだ。
「そこにいたのか。 みんな」
満足そうに微笑み、提督は目を閉ざした。
私も止まらない涙を堪え、私たちが守った証を仰ぎ見た。
どこまでも続く海と空。
水平線はゆるかな環を描き、うみねこが高く鳴いていた。
「帰りましょうか、提督」
潤む視界を細くして微笑んで、車椅子を押して行った。
なだらかな丘の坂道をゆっくりと下り、橙色の色彩が混じり始めた空を見上げる。
そして最後に振り返り、もう一度、私たちの海原を目に焼き付けた。
ずっとずっと、どこまでも青い海。
願わくは、私たちが取り戻したこの静けさが――ずっと、続きますように。
この広い海のように、どこまでも。どこまでも……。
【終幕】