提督のはなし   作:青龍鱗瞬牙

2 / 2


 

 

 

 ザザアアーーン。ザザアアーーン。

 余韻を残して浜辺を打つさざ波の音は遠く、うみねこが高く鳴いていた。夏の日差しは熱く、しかして生命力に溢れんばかり。

 空は海よりも青く澄み渡り、海は空よりも蒼く透き通っている。

 風がくすぐるように頬を撫で、海の気配を運んでくる。懐かしき磯の香りが心地好い。

 丘の一等見晴らしのいい場所で立ち止まり、

 

「提督、着きましたよ」

 

 そう白い帽子をかぶった彼に声をかける。提督は頷いて、「ありがとう」と言った。

 

 この辺りの海を見渡す丘。そんなに高くはないけれど、眺めは気持ちのいいものだ。提督が突然海を見たいと言った時は、どうしたのかと思った。でも、ここに来られてよかった。

 周りにはみかんの木が植わっており、白い花をぽつぽつと咲かせていた。

 みかんの花咲く丘――――。提督は、ただ海を眺めていた。

 

「風が気持ちいいですね、提督」

「ああ」

 

 彼の後ろにいるので、その表情は窺えない。ただ、その声にはどこか、懐旧とか、物悲しさとか、そんなものが混じっていた気がする。

 私も提督と同じように、遠く遠く、海を望む。

 暖かな陽の光を受けて、きらきらと照る海面。水たまりに幾千もの宝石を落としたように輝いている。眩しくて――とても眩しくて、少し目を細めた。

 

「あなたと私たちが守った海ですよ」

「……ああ」

 

 提督は頷いて、そう返した。

 ……少し、声色が沈んだ気がする。それでも、私は提督と二人でここに来られたことが嬉しかった。

 

「あっ……見てください、提督」

 

 遥か海の彼方を指さす。水平線の近くに、遠く霞む影が見えた。大きな貨物船だ。黒い煙を吐きながら、青の原をゆっくりと泳いでいる。

 それを見た途端、私の心と呼べる機関に色んな感情が溢れ出して、胸が暖かくなった。あれこそが、私たちが確かに存在した証明であり、勝ち得た物だった。

 

「見えますか? 提督。 ……どこに行くんでしょうね」

 

 そう言って、隣に立ってふと提督の顔を覗きこむ。

 提督は、茫然としたように、その瞳に青を映していた。

 

「……怖かったんだ。 海を見るのが」

 

 提督はぽつりと言った。その言の葉は、からっぽだった提督の時間すべてを語っているようだった。

 

「みんな……みんな、沈んだ。 解体されて、鋼になった」

 

 提督は震えた声で、絞り出すように言葉を紡ぐ。私はそんな提督の叫びを、ただ聞いていることしかできなかった。

 

「……海って、こんなに青かったかな。 もう目が霞んで、船もよく見えない」

 

 今にも溢れそうな光の筋をせき止めるように、提督は目を伏せる。私もまた涙を堪えながら、提督の肩に手を置いた。

 

「ええ。 みんな、みんな……。 あの子も――――、海の底です。 ずっと前から」

 

 一つ一つ、思いを紡ぐ。深海棲艦との戦い。遥か遠き日々。硝煙の匂いも油の匂いも、今はとんとしない。

 みんながいた頃。瑞鶴も、加賀さんも、赤城さんも……。今は古き記憶を、懐かしく思った。

 

「もう、私だけになってしまいましたね」

 

 そう。残ったのは、もう私だけ。海は静かになって、艤装を外して。

 もう私が鉄の舟を背負うことはない。幾つもの飛行機を飛ばすこともないし、あの海を奔ることもない。

 私に残された最後の任務は、提督をずっとお守りすること。艦娘として生まれてきた私の、最後の存在意義。戦いが終わっても、私がいられる理由。

 みんな沈んでしまった。あるいは解体されて、国へ還った。それが定め。私も、そうなる運命だった。

 けれど今、私はこうして提督の傍にいる。

 私は、ただそれだけでよかった。

 

「……すまない」

 

 震える肩を抱え、提督は言った。彼はもう一度、海を見遣る。頬を伝う光の雫。それがとても美しく見えて、私は提督の顔を見つめた。

 汽笛が大きく、遠く鳴り響き、うみねこと歌った。海の音。耳を澄ます。

 波に揺られていた貨物船が近くの島の影に入り、見えなくなった。辺りに聞こえるのはまた、うみねことさざ波のデュエットのみとなった。

 

「それでも、私はここにいます。 あなたの傍に、ずっと」

 

 涙を堪えるのが苦しい。弱りきった提督の姿は物悲しく見えるが、それでも私にとっては愛しい人だ。

 少し前まで海を怖がっていた彼の姿は子供のようでいて、それでいて老いた動物のようだった。

 ……そうして私は、どうして提督が海を見たいと言ったのか、分かってしまった。彼が海を恐れていた理由。彼が海を望みに来た理由。こんなに頭が回らないなんて、私ももう老朽艦らしい。

 だから、今あなたに言えることを言う。着飾らなくていい。提督へ。

 

「怖かったんですね。 自分を許せなくて。 ずっと、独りで抱え込んで」

 

 私は傍にいることしかできなかった。提督は、それだけでいいと言っていた。

 傷ついた提督の心を癒せるものをずっと探して、疲れ果ててしまった。提督も、贖いの果てを求め、いつも黒い海に心を潜めていた。

 答えは、こんなにも近くにあったのに。

 私も提督も、気づけなかった。

 静かな海。きっと届くだろうと信じて、手の届くところまで歯を食いしばって這って来たのに、結局手を伸ばすことをやめてしまった場所。すぐそこにあったのに、それを見るのが怖くて、ずっと怯えていた。

 けれど、ようやく提督は手を伸ばしてくれたのだ。

 だったら、私はその手に、自分の手を重ねるだけ。

 

「ねぇ、提督。 海を聴いてください。 こんなにも、静かです」

 

 聞こえるのは、うみねこの歌とさざ波のメロディ。

 飛行機のプロペラの音はしないし、大きな砲撃の音もしない。艦艇が波を裂いて奔る音は聞こえないし、鋼が軋む音も、機銃が唸る音も聞こえない。

 静か。静かな海だ。

 

「――――俺は……取り戻せたのか。 この海を」

 

 提督は、震える声で言った。それは、許しを乞うように、懇願するようにも聞こえた。

 だから私は、すべてを許すように、優しく言った。

 

「……はい。 提督と、みんなの力です」

 

 そうして、少し小さくなった提督の体を抱き締める。それは母が子をあやすような仕草にも見えたかもしれない。

 提督は細い雨のように涙を流して、海を望んだ。

 

「そこにいたのか。 みんな」

 

 満足そうに微笑み、提督は目を閉ざした。

 私も止まらない涙を堪え、私たちが守った証を仰ぎ見た。

 どこまでも続く海と空。

 水平線はゆるかな環を描き、うみねこが高く鳴いていた。

 

「帰りましょうか、提督」

 

 潤む視界を細くして微笑んで、車椅子を押して行った。

 なだらかな丘の坂道をゆっくりと下り、橙色の色彩が混じり始めた空を見上げる。

 そして最後に振り返り、もう一度、私たちの海原を目に焼き付けた。

 

 ずっとずっと、どこまでも青い海。

 願わくは、私たちが取り戻したこの静けさが――ずっと、続きますように。

 この広い海のように、どこまでも。どこまでも……。

 

 

 

 

【終幕】

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。