その年、3月の宇治は雪が舞っていた。その雪は道端や花壇をうっすら白く染めていた。
臼井ひとしは卒業式に参列していた。教頭先生の「全員起立」の号令と共にその場に立つ。続けて「校歌斉唱」と告げられたしばらくののち後方から聞こえてくるのは、かつて自分達が奏で続けた馴染み深い校歌の伴奏。ただしその中には、自身が担当していたバスクラの音色は無かった。
(やっぱりバスクラが無いと低音の芯がぼやける気がするな)
僅かに苦笑し、しかし1年前の入学式からは比べ物にならない程の完成度となっている後輩たちが奏でる校歌は、卒業の寂しさも相俟って臼井の心を揺さぶるのだ。
卒業式とクラスでのホームルームを終え中庭に出る。吹奏楽部で同じパートだった仲間たちと挨拶を交わす約束をしている。クラリネットパートはどこに集まっているかと辺りを見回す。
中庭では、卒業式を終えた三年生とそれを見送る各部活の一・二年生でごった返していた。左手奥では、フルートパートだった三年生が晴れやかな表情で顧問の滝と何やら話をしている。
「先生、ありがとうございました。全国大会に行けたのは先生のお陰です」
「三原さん、あなたのフルートは、春の頃と比べて見違えるほど良くなりました。それはあなたが、向上心を持って、投げ出さず挫けずに、真摯に練習に励んだからです。この経験を、今後の人生の宝物にしていって下さい」
部活の指導が非常に厳しい滝も、この時は穏やかな表情を浮かべていた。
右手側では、トランペットだった三年生が現部長である同じパートの後輩を優しく抱きしめている。
「もう部長でしょ、しっかりしなくちゃ」
頭を撫でながら発せられるその声と表情は、慈愛に満ちている。バスクラは臼井を含めた三年生2人のみだったため、直属の後輩が居ない臼井には少し羨ましく思えた。
「まぁ、B♭クラの後輩は沢山居るから良いんだけど・・・」
小声で囁きながら正面を見る。
心臓がズキリと音を立てた。耳が少しずつ赤くなっていくのは寒さのせいではないのだろう。久しぶりにその顔を見ると、こんなにも胸が熱く感じるものなのか。かつては毎日のように顔を合わせていたというのに。
臼井の視線の先には、サックスパートが集まっている。三年生が後輩たちに何やら述べている。中心には、臼井たちの代で部長を務めた三年生が、晴れやかな、しかしほんの少し寂しそうな笑顔で佇んでいる。肩まで伸びた綺麗な栗毛の髪が二つ結びのおさげになっている。細身の身体、決して垢抜けているとは言えないが綺麗で整った顔立ち、穏和で優し気な容姿は、彼女の温厚で涙もろく、それでいてこの1年で芯が強くなった彼女の性格を反映しているようだった。
彼女の名は、小笠原晴香。臼井が所属していた北宇治高校吹奏楽部を、部長として10年ぶりにコンクールの全国大会へ率いた人物だ。
(やっぱり僕・・・)
「うーすーい!」
「おわぁ!」
突然後ろから肩を掴まれた。驚いて振り返ると、越川純子がニコニコしながらこちらを見ている。純子は臼井と同じバスクラを担当していた。
「こんな所で何してんの?あっちでヒロネたちも一・二年生も集まってるよ」
「あ、ごめんごめん。今行くよ」
純子が、先程まで臼井が視線を送っていた方に目をやると、何かを発見したように「なるほどぉ」と呟き、そして口角を片方だけ上げながら言う。
「何してるのかと思ったら・・・。愛しの晴香チャンに見とれてたって訳かぁ」
「ちょっ!何言い出すんだよ!」
「だって事実でしょ~?」
悪戯な口調で臼井に絡みつく。
「べ、別に見とれてた訳じゃないって!あと声が大きいってば!」
「はいはい。でも本番は来週だからね~。今までず~っと先延ばしにしてきたんだから、来週こそは頑張りなさいよ!」
来週は、吹奏楽部の三年生を全員集めて謝恩会が開かれる。もちろん、臼井も純子も、そして前部長の小笠原も出席する。
「分かってるよ。もう卒業しちゃうし、今度こそ腹をくくるさ」
「ホントやっとだよ。晴香も私もどれだけ待たされた事か」
「別に純子は待たせてないだろ」
純子は冗談めかした、しかし少し拗ねた口調で言った。
「いやいや、私もすっごい待たされたってば。あの日約束してから何か月経ったと思ってんの」
そう、あの日純子は臼井に約束をしたのだ。
『私が晴香との仲を取り持ってあげる。コクる決心がついたら私に連絡する事!分かったかい?臼井クン』
それから何ヶ月経ったか。コンクールが終わってないから、受験があるから、そんなタイミングで告白するのは晴香部長に迷惑をかけてしまう。そう言い訳してここまで先延ばしにしてきたのだ。
「確かにあれから何か月も経ったけどさぁ・・・」
「ま、来週は私も協力するからさ。頑張りたまえよ、臼井クン」
純子は変わらずニヤニヤしながら臼井の肩をポンと叩く。臼井の視線は重力に負けるかの如くゆっくり足元へと落とされる。
「純子ー!臼井ー!何してんのー!こっちこっちー!」
遠くの方で声がする。目をやると、大口弓菜が大きな声で2人に呼びかけながら手を振っていた。
「あ、そうだった。ごめーん!今行くー!ほら、さっさと行きなさい」
純子は臼井の背中をやや乱暴に押した。臼井は押された勢いを殺さぬまま、弓菜の方へ駆け寄って行った。
「全く、ホントどんだけ待たせるんだか・・・」
純子の浮かべた、ごく僅かに負の感情が混じった微笑みを見た者は誰一人いなかった。そうして純子は、臼井の後を追うようにして同じく弓菜の元へ向かった。
(あれは、純子と臼井君・・・?バスクラの2人は引退してからも仲良しなんだなぁ)
「晴香、どうしたの?」
岡本来夢に声を掛けられ、小笠原はふと我に返った。
「え?あ、いやいや何でもないよ」
小笠原は後輩たちの方に向き直った。
「みんな今まで本当にありがとう。大変な事もあると思うけど、滝先生を信じて頑張って。定演とか見に行くからね」
小笠原の声と表情もまた、慈愛に満ちたものだった。