臼井君が晴香部長に恋心を抱く話   作:shin1

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1期10話のBパート前半の部分らへんです。


臼井君が晴香部長に恋心を抱く話5

 朝の騒動が表面上終息し、午後には音楽室で滝の指導の下、課題曲の合奏練習が行われていた。

 

「ホルン、音の入りが全く合ってません。集中して下さい」

 朝の騒動によって、部内の空気は完全におかしくなった。

「今の所、バスクラとバリトン一人ずつお願いします。臼井君から」

 部内が全体的に集中力を欠いているようだった。昨日以前と比べて明らかに音が合っていない。各楽器から発せられる音が交じり合わず、油膜のように音楽室の表面に浮かび上がる。

「越川さん、音の処理が雑になってますよ」

 人間関係のゴタゴタに巻き込まれるのはとても大変だ。変に首を突っ込んでしまっては練習もままならなくなる。臼井は、今の部の空気に焦りを感じつつ、しかし何も出来ずに居る。こういう状況の時は、黙々と自分の練習をするしかない。自分が人間関係の縺れをどうにか出来るわけでもないのだから。

「越川さん、いつも言っていますが、バスクラは低音の要となる楽器です。つまりバンド全体の要という事です。そんな不安定な音ではバンド全体が安定した音になりません。メロディのクラやペットがちゃんと上に乗れるようなしっかりした音を出してもらわないと困ります」

 ペットという言葉が滝の口から発せられた瞬間、純子の左人差し指がピクリと動いた。

「『バスクラは2本あるから』とか『チューバやコンバスがあるから』などと思ってはいけません。ホール練習までに必ず立て直して下さい」

 純子は返事をしない。

「ちょっと純子・・・?」

 小声で臼井が問いかける。純子はただ真っ直ぐ滝を見つめている。無表情の彼女の顔からは感情が読み取れない。

「・・・越川さん、返事はどうしました」

 滝もまた純子から目線を外さずに、静かに硬い空気を孕んだ言葉を投げかける。

「・・・はい」

 ようやく純子が返事を返す。滝は小さくため息を付き、すぐに正面を向き直った。

「ではトリオから全員で下さい」

「「はい」」

 この日の合奏は、滝が苛立っているのが伝わってきた。自分の音が思うように前に飛ばない事に気付きながら、臼井は最後まで修正できずに終わってしまった。

 

 

 

 

 

 合奏が終わり、臼井は滝に曲の事で質問をしようと職員室へ向かった。

「失礼します」

 ドアを開けると、デスクの前で紙パックのカフェオレを啜っている滝の姿が目に入った。いつもなら、合奏後には同じく曲について質問しようと滝の前に列が出来上がっていたのだが、この日は臼井のみ。心に苦い何かが頭上から降り注いでくるのを感じた。

「先生、課題曲なんですけどいいですか?」

「あ、少し待って下さい。今スコアを出しますので」

 

・・・

 

「では、その部分はバスクラとバリトンで良く合わせておいて下さい」

「分かりました。ありがとうございました」

「合奏でも言いましたが、バスクラはバンド全体にとって最も芯になる楽器です。音程や指回しに関しても、まずは安定させる事を意識して下さい」

「はい」

「それと・・・」

 滝は少し溜めを付けてから続きの言葉を発した。

「臼井君には、越川さんを上手く引っ張ってあげて欲しいのです。今日は少々厳しい事を言いましたが、越川さんのポテンシャルを考えれば、もっといい演奏が出来るはずです。そのためには、バスクラの2人がお互い協力し高め合う事が重要です。バスクラの演奏レベルが更に上がれば、全国大会も夢ではありません」

「え、は、はい!頑張ります!」

「いい返事ですね」

 滝はようやく優しい笑みを浮かべながら紙パックに残っていたカフェオレを啜り切った。

 

 

 

 

 

 小笠原は、明日の練習計画を確認するために職員室に向かっていた。女子トイレの前を通り過ぎると、中から滝がオーディションの際に贔屓したのではないかという噂が囁かれているのが耳に入った。明日パーリー会議で釘をささなければ。沙菜がああ言ってくれたんだから、何とかみんなのフォローをしなければ。2階に降りて左に曲がる。職員室はまだ少し先にある。

「沙菜先輩は、香織先輩にソロ吹いて欲しいと思わないんですか!」

 廊下の奥から叫び声が聞こえた。朝に音楽室で麗奈に向かって放たれた叫び声と同質のものであった。柱の陰から覗くと、廊下の端で向こう向きの優子と此方向きの沙菜が対峙していた。沙菜は困惑した表情を浮かべながら優子をなだめようとしている。

「沙菜先輩だって、去年香織先輩がどんな扱い受けたか知ってますよね!」

「で、でも、麗奈ちゃんが無理矢理ソロを奪い取った訳じゃないし、香織だってこんな形でソロ譲って欲しいなんて思わないと思うの・・・」

「沙菜先輩だって、今年が最後のコンクールなんですよ!!あんな風に言われて悔しくないんですか!?」

「優子ちゃんの気持ちも分かるよ。でも、コンクール前にゴタゴタするのは良くないんじゃないかなって・・・」

「もういいです!失礼します!」

 優子は踵を返し、肩をいからせながらこちらに歩いてくる。慌てて柱の更に奥へと身を潜める。優子が横を過ぎ去っていく。こちらには全く気付いていないようで、そのまま階段を上がっていった。先程まで2人が居た廊下の端を恐る恐る覗くと、沙菜は今にも泣きだすのではないかというほど、悲壮感に満ち溢れた表情を浮かべその場で立ち尽くしていた。トランペットパートの内部分裂は深刻なようだった。

 

 

 

 

 

 あの騒動から、部内では滝への疑念は大きく膨れ上がった。滝が麗奈と以前から知り合いだったという事自体は事実であったため、噂にはどんどん尾ひれが付いていった。『オーディションそのものが麗奈をソロにする為に行われた』『麗奈の父が有名なトランペット奏者だったので先生は断り切れなかった』。当然、滝に直接聞くものは無く、しかし噂が大きくなり滝の耳にも入るようになったが、滝は無言を貫いた。それが返って滝に疑念を持つ部員の不信感を増幅させた。『先生はこの問題に蓋をしている』。噂を信じる者、信じない者。加えて、香織に同情する者、麗奈を擁護する者。この二つの立場の違いによって部内の亀裂が複雑に広がっていった。小笠原がパートリーダー会議で収めるように促しても効果は無く、とうとう合奏もままならない状態になり、3日続けてパート練習のみ。特にクラリネットパートは完全に集中力が切れてしまった。パート内全体が滝への不信感でいっぱいになっている。

 

 

 

 そんな中臼井は、純子に声を掛け小笠原を呼んで木管低音で練習していた。滝に合わせておくように言われていた箇所を練習する為ではあるが、集中力の切れてしまったパート内から連れ出す目的もあった。なんとか純子を引っ張り上げなくては。

 

 

 この日も昨日に引き続きバスクラとバリサクの3人、木管低音でパート練習をしようと1-6の教室に集まっていた。椅子と譜面台を3つずつ教室の後ろに寄せ、練習の準備を整える。口数は少ない。昨日3人で合わせた時には、音が全く飛んでいなかった。もっと響かせる事を意識しなければ。

「あのさ・・・、晴香と臼井はどう思う?」

「え?」

 純子の唐突な問いかけに、臼井は上ずった声を上げてしまった。

「ソロの件、2人はどう思う?」

「えっと・・・」

 臼井と小笠原は突然の事態に固まってしまった。

「晴香には悪いけど、私は納得いかない」

「純子・・・?」

 小笠原は純子の顔を恐る恐る覗き込む。教室内に密度の高い沈黙が充満する。

「初めに言っとくけど、私は先生が贔屓したとは思ってない。あの人が音楽に対してそんな事するとは思えない。個人的な上手さなら、香織より高坂さんの方が上手いのは私でも分かる」

 でも、と、それまで10m先にある机の脚に向けられていた視線が教室の黒板へ向きを変えた。

「私は、高坂さんの演奏は北高の演奏に合ってると思えない。合奏してても、周りの音全然聞いてない。合わせようとしてない。周りの音を聞き合って合わせるっていう事なら香織の方が絶対上」

 実は、同じような事を臼井も感じる事があった。複数で音楽を演奏する場合に欠かせない『周りの音を聞き合って調和させる』という事を、麗奈の音色からは感じ取ることが出来なかった。ただ、麗奈の技量が香織のそれよりも上である事は臼井にも良く分かった。

「ソロなんだからいいじゃんとか、そういう事じゃない。私、廊下で聞いちゃったの。あの子『ロクに吹けもしないくせに』って言ってたの。あの子きっと香織と優子ちゃんの事見下してる。というか私たちみんな見下してると思う。だから周りの音に合わせようとしないんだと思う。それがバスクラとして悔しい。吹奏楽って一人だけじゃ音楽が成り立たないのに、自分だけ特別だと思ってる気がする。被害妄想かもしれないけど、それが許せない。そんな人、下支えしたいと思わない。それに、そんな人を個人の技量が上だからってソロに指名した滝先生にも不満がある。そんなんで府大会突破しても嬉しくない」

 純子は一気に捲し立てた。臼井と小笠原はただ黙って聞いている。臼井の右手に握られているバスクラリネット。体温が掌から、洋白銀メッキが施されたキイと、深い黒を纏ったグラナディラ製の管体にじわりと伝わっている。

「個人練行ってくる」

 純子はそう言って、3人で一度も合わせないまま、楽器と譜面台を持って教室を静かに出て行ってしまった。教室には、普通の椅子が1脚と、2つ重ねて高くセッティングされた椅子が2脚。譜面台が2本。重苦しい空気。そして、部長と一男子部員。グラウンドから放たれる野球部員のかけ声がこだまし、教室内の空気を鈍重に揺り動かしていた。

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