恋姫ノ月   作:成宮

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真・恋姫†夢想-革命- 蒼天の覇王 - まだやってません
故に新キャラはでません


第1話

 朝日が昇り人々がいそいそと動き出す時間。勝手知ったる董卓の屋敷を、賈駆・・・詠は迷うことなく歩いていた。

 

「もー、月ったらどこにいるのよっ」

 

 詠は約束の時間にも現れなかった月を心配し、急ぎ屋敷に屋敷を訪れた。だがしかし、いの一番向かった月の部屋はもぬけの殻であった。侍女たちからは、月が屋敷から出ていないことは既に確認済み、あと居そうなところといえば中庭か、それともあの場所か。

 

「中庭を見に行って、いなければ行くしかないわね・・・」

 

 できることなら中庭で発見できることが望ましい。だがそんな願いは届くことなく、月は中庭では発見できなかった。詠は一度大きく息を吸い、覚悟を決めてあの場所へと向かう。そう、そこには詠にとって忌々しい奴がいる。

 部屋の前でもう一度深呼吸、いざ参ろうと覚悟を決め、詠が扉に手を掛けた。

 

 薄暗く、何やらものでごった返した部屋の中。その一点に見つけた二つの影。それは幸せそうに寝息を立てる親友の姿と、見たくなかった男の姿であった。

 

「ちょっと月!なんでこんなところで寝てるのよ!」

 

「へぅ・・・?おはよう、詠ちゃん」

 

 かけられた声に反応して月は身体を起こす。未だ意識がはっきりしていないせいか、寝ぼけ眼ままこちらを見上げるという非常に可愛らしい姿を晒しているが、この状態は結構問題だ。なにせそれは男の部屋の、布団の上での動作なのだから。

 

「こ・こ・は!この男の部屋なのよ!?何考えてるのよ、月!」

 

「で、でもここは弟くんの部屋だよ?」

 

「それでもよっ!というか義理なんでしょ?ならむしろダメじゃない!いつこいつに襲われるかわからないのよ!」

 

「へぅ~・・・」

 

 月の中では男と弟は同一の存在としては成り立たないらしい。

 不満げに見つめる月に、心を鬼にして詠は立ち塞がる。いい加減このおかしな状況には止めをかけないと、いつ間違いが起きるかわからない。月はこんなに可愛いのだ、弟と呼ばれるこの男、一刀がいつその可愛さに襲いかかるか詠は気が気ではなかった。

 

「もう、詠ちゃんは心配しすぎだよ。弟くんがそんなことするわけないじゃない」

 

「月にその気がなくったって、こいつがっ!」

 

 詠が怒鳴り声とともに勢いよく指さす先にいた一刀は、これだけ詠が叫んでいるにも関わらず、未だ月に背を向け夢の中。

 

「つぇい!」

 

 思わず飛び出した蹴り。その威力は陳宮きっくには到底及ばず、霞が見たらきっと鼻で笑うようなもの。だがしかし我関せず、というかこちらに気づきもせずグーグー寝ている態度が詠の癪に障ったのだ。致し方ない、そう致し方ない。

 

「お、弟くん?!」

 

 月が驚き、一瞬、ものすごい冷酷な表情で詠を睨みつける。弟のこととなるとこれほどの表情を浮かべる親友に戦慄し、詠は思わず視線を逸らした。

 

 対して強くもない詠の蹴りを受け、もぞもぞと足元で動く気配、ようやく件の男の目が覚めたようで。

 

「・・・二人共、喧嘩はよそでやってくれ・・・」

 

 非常に眠たげな声。先程から騒いでいる二人にようやく気づいたと言うのが見て取れる。

 この男は、月と一緒の布団で寝たという幸福を全く自覚できていないのだ。そう思うとこの男が非常に憎たらしく見える。

 

「ちょっと、なんであんたは『自分無関係です』みたいな顔してるのよ。男なんてどいつもこいつも獣なんだから!こいつだって、そこいらの下品で野蛮な男と同じでなにをするか・・・」

 

「詠ちゃん」

 

 普段お淑やかかつ温厚で、ほとんど怒ることがない月の発する一言。思わず身震いする。普段武官ともやりとりをする詠ですら冷や汗をかく程なのだから、月は鍛えればとんでもない逸材かもしれない。

 無論ありとあらゆる手を使ってそんなことはさせるつもりはないが、弟病が進行というか末期までまっしぐらな月は何を起こすかわからない恐ろしさがあった。

 

「これ以上弟くんのこと悪く言うなら、例え詠ちゃんでも・・・怒るよ」

 

「ゆ、月ぇ~・・・」

 

 弟を守るときに見せる、頑固な月がそこにいた。そう月は義弟である一刀を溺愛しているのだ。

 昼時になれば『弟くん、ご飯食べたかなぁ』と心配し、一日三度は弟自慢話を無意識に披露し、時にはこうして布団に潜り込むこともある。本人は気にしていないが、年頃の姉弟としての行動としては、はっきりいって異常だ。

 一方、一刀も月に溺愛されているにも関わらず、とある一線は決して踏み越えようとはしない。時には部屋を空けたり、素っ気ない態度をしたりして一定の距離を置こうとしている。

 ただしそれは月に限った事ではない。詠しかり、恋しかり。傍目一番仲の良さそうな音々音にすら、だ。能力的に見ても、もっと上を目指せるだけのものを持っているだろうに、決して踏み込もうとしないのだ。

 詠の目から見てもそのあり方は歪であった。

 

 おっと、話題がそれた。

 

「月姉。いい加減出てって欲しいんだけど」

 

「へぅ。弟くんは、私と一緒に寝るのは嫌?」

 

「お互いにいい歳なんだから、さ」

 

「べ、別に歳なんて関係ないよぅ」

 

 素っ気なくすれば素っ気なくするほど、月は逆に一刀のことを気にかけ、元来の優しい性格が行き過ぎた結果、この姉弟は少々行き過ぎた関係になってしまっているのだ、たぶん、一方的に。

 

 詠からしてみれすぐにでも二人を引き離したいのだが、頑なに月自身がそれを拒絶する。

 

「はぁ」

 

 ついには詠を無視して言い争いにまで発展する。仲がいいのか悪いのか、二人の関係は詠の頭脳を持ってしても容易く解決できない問題であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「月殿も意外と口うるさいのですなぁ。そんなんじゃいつまでたっても一刀が独り立ちできませぬぞ」

 

「・・・音々音に言われちゃおしまいだな」

 

 定食屋の一角にて、一刀と陳宮の二人は世間話をしつつ箸を進めていた。目の前には湯気を立てる焼売や焼飯などいくつかの皿が並び、思い思いに箸を伸ばす。幼い外見の陳宮のこともあってカップルというよりも兄妹のように見える二人であった。

 

「しかし、男の寝床に潜り込む月殿など、普段の姿からは到底想像つきませぬなぁ。詠殿の男嫌いも大概ですが、月殿の男性に対する苦手意識も相当なもの。なるほど、詠殿が過敏になるのも致し方なし、かもしれないのですぞ」

 

「いい加減面倒なんだが。音々音、どうにかならないかな?」

 

「月殿の添い寝を面倒というとは、そのうち刺されますぞ」

 

 音々音としては呆れて物も言えない一言だ。その面倒事がしたくてもできない人間がどれほどいると思っているのか。

 

「しょーじき、ねねにはどうでもいいことですが、ほかならぬ一刀の頼みとあらば、このねねが助太刀致しますぞ。・・・今度の遠征で同伴、ではどうですか?」

 

「んなもん絶対嫌だわ。つーか許可でない。せめてここの支払いにしてくれ」

 

「仕方ないのですな」

 

 音々音はニンマリと笑うと、定員を呼び止め追加注文をする。最初からここの支払いが妥協点であることを分かっていたのだろう。

 余りにも遠慮のない音々音に、一刀は思わず苦笑いを浮かべた。

 

「そういえば最近戦の方はどうなんだ?呂布、張遼、華雄の三将軍が出払ってるらしいが」

 

「負けなしなのです。恋殿がいるのですから、当然ですぞ!」

 

 一刀の周囲は比較的穏やかではあるが、現在黄巾の乱の真っ只中であった。

 連日、董卓達の下には勝利の報告が舞い込んでくる。董卓軍には一騎当千の武将が数多くおり、その中でも呂布、張遼、華雄の三将軍は別格だ。戦力的に見ても賊程度に負ける要素などない。

 ただ、そうと解っていても心配なものは心配なのだ。

 戦いに絶対はなく、一瞬の油断で終わってしまう世界。音々音は自信満々にいうが、時折地平線を心配そうに眺めている時がある。

 そして月はもっと顕著だ。ここ数週間一刀の部屋への侵入率は格段に上がりつつある。

 つい先日に二晩続けて侵入され、一日目は防げたものの、二日目は気づいたときには布団は月の匂いで満たされていた。

 

『へう。弟くんが傍にいると、安心する、から』

 

 一刀が何故侵入するのか尋ねたところ、月から返ってきた答えだ。そう言われてしまっては一刀は追い返すことができなかった。

 ただし、それをいつまでも受け入れる気はさらさらないのだが。

 

「まぁ、音々音はおいていかれた訳だけどな」

 

「ち、違うのです!ねねは他にやることがいっぱいあって、それにそもそもあんな賊程度、ねねが出張る必要がなかっただけなのです!」

 

 呂布専属軍師を自称するこの小さい少女、音々音はたいそう不満顔であった。裏方仕事が重要かつ必要なことであると解ってはいても、大好きな人と引き離され、帰りを待つことしかできない自分とこの現状にだ。

 この董卓軍には文官や軍師の数が圧倒的に足りていない。軍略、政略面で優秀な詠がいるからこそなんとかなっていたが、今回のように大規模な派兵になった際には明らかに手が足りない。相手が賊だからこそ何とかなっているが、同規模の正規軍との戦いになった場合、破綻する可能性が高いと言わざる負えない、というのが音々音の考えだ。

 人材不足、どこの組織でも頭を悩ませる問題である。勢力が拡大すればするほど人の確保、人材収集は必要なことだった。

 

「いい加減、一刀も臨時などではなく、正式に月殿に仕えるべきですぞ!それだけの能力がありながら勿体無い」

 

「月姉の許可がでないし、音々音は俺を買いかぶり過ぎ。そもそも、ちょっと頑張れば誰でもあれくらいできるだろうよ」

 

「・・・どこの世界にあれだけ"できる"一般人がいるのです」

 

 一刀という男から仕事に対しての熱意を感じることはない。ただただ作業のように淡々とこなすのだ。

 だが音々音は鮮明に覚えている。自分の補佐役としてついた一刀は、今まで部下としてついた誰よりも使い勝手がよかった。基本的な物書きと算術は使える、将兵にも物怖じせず、体力も人並み以上にあり、そして何より一から全て説明せずとも、おおよそ音々音の意図を理解していた。

 それがどれだけ凄いことか、一刀は理解していない。そもそも平民の識字率は非常に低く、単純な算術ができるものすらそう多くないであるこの時代。時間があるときに詠から師事しているといっても、僅か数ヶ月で音々音の補佐ができるようになった、自称平民の出であると言う一刀がおかしいのだ。もし詠が一刀のような人間を量産できるのであれば、1年間の業務が停滞したとしても量産計画を実行すべきであると言えるだろう。

 つまり本人に自覚はないが、非凡と言わざる負えない。ただ一刀の周囲に居る人間が異常であるため、自ずと己を過小評価しているのだと音々音は思っている。

 そもそも一刀が月の義理の弟になる以前の経歴は本人の自己申告である平民ということ以外、謎に包まれている。ぶっちゃけ非常に怪しい。

 

「うーん。旨いんだけど味が濃い」

 

「・・・まぁ、旨いのは同意です」

 

 当の本人は特に気負いのようなものはなく、本当に大したことでないと思っているのだろう。故に音々音もこのことを深く考えることをやめた。無駄なことを難しく考えるのは精神衛生上、まったくもってよろしくない。

 さらにつけ加えれば、音々音は一刀のことを気に入っていた。なら過去のことなんてどうでもいい。脛に傷のある者など、今の時代幾らでもいのだ。

 そもそも今は食事の時間である。恋との時間も好きだが、一刀と肩肘張らずに過ごす時間も音々音にとっては大切だった。

 

「こっちの炒め物は一刀の好みかも知れないですぞ。ねねにはちょーっと物足りないですが」

 

「ん、どれどれ」

 

 一刀は兵士たちのように豪快に食べるのではなく、一口一口吟味するように、そしてころころと表情を変えつつ食事を取るのだ。恋のように何でも美味しそうに食べるのとは異なるものの、見ていてとても面白い。

 だからつい頼みすぎてしまう。

 

「これ、どうすんだ」

 

「・・・明らかに頼みすぎましたな」

 

 新作という口車に乗せられついつい頼んでしまい、いつの間にやら机は皿だらけ。音々音と一刀はなんとか残さないように、悪戦苦闘するのであった。

 

 

 

 

 

 

 

「食べ過ぎた、気持ち悪い・・・」

 

「まあまあ、たまにはいいではないですか」

 

「財布の中がすっからかんだ」

 

「男の癖に、いつまでもグチグチうるさいですぞ」

 

 一刀は食事代を支払い軽くなった財布を気にしつつ、音々音と共に事務室へと帰還した。既に何人もの文官が仕事に戻っており、バタバタと慌ただしい。

 

「そこの人、すぐに兵糧に関する資料を持ってくるのです。あとお前は最前線より伝令が戻ってきていないか確認をしてこいなのです」

 

 音々音は仕事モードに入り、てきぱきと部下へと指示を出していく。見た目小学生くらいである音々音が、30代くらいのおっさんやお姉さんに命令する姿は今でも見慣れない。

 ただしこの世界に限っては珍しい光景ではない。そもそもトップとナンバー2である月と詠が控え目に言っても10代半ばにしか見えないような容姿をしているのがこの国だ。

 

「ほらほら、一刀もぼぉーっとしてないでさっさと働くのです。仕事は山積みなのですぞ!」

 

「はいはい」

 

「はいは一回、ですぞ!」

 

 音々音の激励に答えるかのように皆が次々と仕事に取り掛かる。文字通り山のように積み重なった竹簡が増減を繰り返し、まるで終わりが見えてこない処理地獄。

 音々音が人手が足りないと言っていた理由がよくわかる。簡単な計算をするだけである些細な案件すら持ち込まれているのだ、人手が足りなくなるのも頷ける。逆に言えばそんな簡単な計算ができる下っ端がいないほど教育ができていないのだ。

 

 

 

 

 

 周囲が薄暗くなり、そろそろ事務作業を行うのも限界・・・そんな時間に不意に彼女が襲来した。

 

「へぅ。弟くん、みーっけ」

 

「・・・月姉」

 

 背後からの月からの抱きつき。一刀は特に慌てた様子を見せないが、突然の最も偉い人の登場に他の文官はにわかに驚き、歓声、憎しみの声を上げる。

 その可憐な容姿、性格、立ち振る舞いから男女問わず、董卓・・・月の人気は高い。そしてそんな彼女が普段見せないような蕩ける様な笑みを浮かべる相手に対して、何も思わないということがあるだろうか。

 

「月姉、今仕事中」

 

「へぅ、知ってるよ」

 

「なら邪魔しないでくれよ」

 

「うう、弟くんのいじわるぅ・・・」

 

 一刀のつれない態度に、月は渋々といった様子で名残惜しそうに離れた。その顔にはありありと不満が見て取れる。一刀はため息をつくと、手早く資料を片付けて立ち上がる。

 

「音々音、悪い。今日は上がらせてもらう」

 

「あー、はいはい。一刀がここにいては皆の作業効率が下がるんで、とっとと出ていけばいいのですぞ。月殿も、このような行為は慎むように。でなければ次は詠殿に言いつけますからな」

 

「うん。次からは気をつけるね。ごめんね、ねねちゃん」

 

 全く悪びれた様子もなく月はそう言うと、一刀の手を引いて事務室を後にした。

 残された音々音は阿鼻叫喚するアホな文官たちをなだめつつ、ある人物のことを頭に浮かべる。

 

―――恋殿ぉ。ねねは、ねねは恋殿に早く会いたいですぞ。

 

 公私混同は避けねばならない。そう思いつつ、好きな人と触れ合える月のことが羨ましくてたまらない音々音であった。

 

 

 

 

 

 

 

 一刀と月、二人並んで屋敷への道を歩く。普段はなにかしら乗り物を使用する月だが、一刀と帰るときは決まって徒歩だ。といっても徒歩でも30分もかからない程度の近場なので、特に問題はない。

 

「日が沈むね」

 

「ああ、だいぶ日も短くなってきたな」

 

 今月が身につけているのは普段の衣装ではなく、文官などが着るような質素で庶民的な服装だ。目立つのも嫌でかつ一刀との帰り道を邪魔されたくない月は、変装のためにそういった服を着ている。

 だがいくら服装を変えても隠しきれない気品や美しさというものがあり、本人は気づいていないが逆に浮いた結果となっていた。

 

「弟くんがこっちに顔出すようになってからもう半年も経つんだね」

 

 そう半年。

 穀潰し状態となっていた一刀がなにか仕事が欲しいと詰め寄り、紹介されたのが音々音の下での臨時職員であった。

 当初、それを聞いた月は喜々として自らの秘書のようなものに一刀を置こうとして、詠による必死の説得により今のポジションに落ち着いた。

 月の秘書と言えば重要機密にも触れることとなり、最悪暗殺もあり得るような危険な世界に一刀を巻き込まないようにするという建前。本音を言えば、一刀がいると弟溺愛モードとなってしまう月の傍に置いておけるはずがない。

 当然、戦闘をするような危険が伴う部署も却下。よく知らぬ他人に一刀を任せるのも心配だ。ならば信頼のおける音々音に預けてみてはどうか、詠はそう切り出した。

 

「月姉、歩きづらい」

 

「そうかな?勘違いじゃないかな」

 

 しれっと答えた月は一刀の右腕を抱き締め身体を密着させていた。月姉は非常にご機嫌の様子だ。

 いや、むしろご機嫌過ぎて少し不気味だ。今は戦時中であり、いつも以上にオドオドしていた月を見ていた一刀は今更になって嫌な予感がしてきた。

 

「ねね、弟くん。何処かでご飯食べていこいうよ」

 

「夕飯、もう家で準備されてるんじゃ?」

 

「へぅ、たまには、いいんじゃないかな?」

 

 そして急に言い出した寄り道。月姉ほどの重要人物が市井に混ざじって食事を取るなんて褒められた行為ではない。領内とはいえ完全な安全を保障できないのだから。

 

「ほら、たまには弟くんがご馳走してくれてもいいんじゃないかなーって」

 

 そういって月姉が指さしたのは、最近文官の間で噂になっていた食事処。曰く恋人と一緒に行きたい、非常に雰囲気がいいところだとか。

 月姉の顔を見るとニコニコと笑顔を貼り付けたまま微笑み返される。その笑顔を見て、なる程、月姉の言いたいことを察することができた。

 

「月姉、誰から聞いた?」

 

「へう、なんのことかな?」

 

 詠先生曰く、昔の月姉は引っ込み思案でなかなか自分の意見をはっきりと言えない内気な箱入り娘であったらしい。

 だが目の前の月姉は、ポーカーフェイスを駆使し、都合の悪いことはすっとぼけるしたたかさを兼ね備えている、とても厄介な女性ではないだろうか。

 

「音々音と昼一緒に食べたこと。そしてご馳走したこと、聞いたんだよな?」

 

「うん、護衛の徐栄さんが教えてくたんだよ」

 

 残った片手を上げて観念した意思表示をすると、月姉は満足げに白状した。

 

 例え領内の街であろうとも重鎮が出歩く際には護衛がつく決まりとなっている。誘拐、暗殺など大して珍しい事件ではない。それほどこの世界の治安はよろしくないのだ。

 特に月姉や詠先生、音々音は見た目通り、戦いには向かない非力な少女だ。護衛部隊でも指折りの人材である徐栄がつくのは妥当な話だ。

 そして徐栄は護衛の関係上、月とも仲がいい。

 

「ああ。音々音の護衛か」

 

「?徐栄さんは弟くんの護衛だよ?」

 

「いやいやいや、俺には必要ないだろ」

 

「私の弟くんに護衛がつくのは当然だから」

 

 さも当たり前のようにそう告げた月。

 

「・・・何が当然か解らない」

 

 一刀は月の義理の弟であるという点に加え、月自身がその弟を溺愛しているという話は公然の秘密であり、人質としての価値は高い。そういった立場的な理由と、とある一刀の秘密が護衛がつく理由なのだが。

 

 自身の価値を正確に理解していない一刀はただただ頭を痛めるだけであった。

 

 

 結局、月に引き摺られるようにして食事処に入った一刀は、出された食事を堪能した。

 そして最後のデザートを食べさせられるという羞恥プレイをさせられ、さすがの一刀も限界を迎えようとしていたその時。

 

「なにやってんのよ、この馬鹿姉弟!」

 

 緊急の案件を携えた詠が呆れた様子で現れたことで、月の弟溺愛モードは唐突に終わったのだった。

 まるで誘拐されるかのごとく詠に連れ去られる月を笑顔で見送った一刀は、一人夜の街を散歩する。正確には護衛である徐栄が傍にいるのだが、こちらに接触する様子はなく、適度に距離をあけてくれている。こういった気遣いができるのも、優秀と言われる所以なのだろう。

 

「お疲れ、月姉」

 

 一刀の独り言は誰にも聞こえることなく、夜の空に消えていく。月や詠は立場上、緊急の案件があれば時間等関係なく対応しなければならない。彼女たちの判断一つで数十万人の人生が左右されるのだ。

 想像することしかできないが、それはものすごいプレッシャーなのだと思う。しかしそれは月が、詠が自ら望んで進んだ道だ。決して代わることなどできやしいない。

 だから一刀はエールを送る。

 

「月姉。頑張れ」

 

 何処かで、くすくすと笑い声が聞こえるような気がした。

 




仕事の異動が辛い
その現実逃避
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