昨年の春に念願の探偵となった吉野良彦は、その日も事件ではなく犬を追っていた。
吉野が探偵事務所を開いて以来、ペットの捜索依頼の割合は実に八割を超えていた。
最早、探偵と言うよりも便利屋と言った有様である。
吉野探偵事務所、ではなく吉野S&R(サーチアンドレスキュー)と名を変え、犬や猫専門にしたら成功するのではあるまいか、と馴染みの喫茶店で助言されてしまうのも無理からぬことであった。
しかし本人の望む望まざるにかかわらず、そう言った中で日に日に成長していく手際は、この時常人を優に超えた能力を発揮していた。
依頼人から愛犬の写真と特徴を教えてもらい捜査を開始すれば、最初に電話した保健所でそういった犬はいないと言われ、それならばとビラを作って配るとすぐさま目撃情報が上がり、それを追っていくとどんどん出没範囲が狭まった。そしてとんとん拍子に件の犬の姿を発見するに至ってしまった。
空はまだ太陽も沈み切っていない夕刻である。
「才能なのかもしれんね。もっと他のを与えてくれればなあ」
吉野は嬉しくもない才能を与えてくれた神に悪態をつきながら、自販機の陰で息をひそめ視線の先にいる中型犬の様子を窺っていた。ふらふらと目的無く歩いているようである。
確実に捕まえられる好機を狙っていたのだが、春の終わりのじりじりとした日差しにとうとうしびれを切らしてその背後にそろそろと近寄ると、一気に捕らえようと腕を伸ばした。
途端、竹を斜めに切ったような鋭い形の耳がぴくっ、と反応しあと一歩と言うところで避けられた。
空ぶった吉野は盛大に転び、コンクリート道路で片膝を擦りむき涙目となってしまっている。
「お、おお……」
苛立ちをバネに立ち上がって砂で汚れたズボンを払い、凛々しい顔つきの犬を見据えた。
そこからはもう一対一の真剣勝負であった。追いついたかと思えば逃げられ、逃げられたかと思えば近場で余裕の表情を晒されている。吉野はおちょくられているように思えてならなかった。
賢いこの犬を、あからさまに怪しい捕獲器に入れるのは至難の業であるのは想像に難くない。
吉野は横目で自販機近くに置いていたそれを見ると、使うプランを泣く泣く諦めることにした。
折角買ったと言うのに、それそのものが活躍したのは片手で数えられるほどだった。しかもその活躍も吉野本人が使ったわけではなく、依頼人に貸したときのことだ。
「はあ……」
吉野は肩を落とした。
犬はそれを見計らったように、「わん!」と空気を裂く大きな声で吠えてきた。
「うわっ」
それまで全く吠えない犬であったから、吉野の動揺は一段と大きい。
飼い主のご婦人もことあるごとに、利口な子で全然吠えないんですよと口にしていたのが拍車をかけた。
一瞬だけ尻込みしてしまった吉野は自らの失態を悟ったが、それよりも犬が走り始める方が早かった。
「あ、おい!」
思わず声を上げたところで犬が止まるはずもない。だが吉野はしかと見た。
犬が声に反応するように一度だけ振り向き、吠えるのでもなく口を大きく開けたのを。
紛れもなくそれは欠伸であった。
「ちきしょう!」
軽やかに逃げ去っていく犬を吉野は慌てて追いかけた。
すれ違う通行人は何事かと驚いた表情であった。しかしそれに気を取られるほどの余裕はない。
追いかけっこの様相を呈してきたものの、犬対人間ではさすがに分が悪かった。
開いていく差は徐々に大きくなっている。
いつとはなしに、吉野の先で走る犬は米粒のように小さくなってしまっていた。
「……はあ、はあ……」
吉野は腕で額の汗を拭うと、着ていたトレンチコートを乱暴に脱いだ。探偵と言えばスーツにトレンチコート、と言う浅はかな思考の末の格好だったが、今の状況では邪魔なだけだ。
何度か名残惜しそうにちらちらと視線を交差させたものの、それは道の片隅に放っておき、吉野はギアを上げた。軽やかとは言えないが、着実な走りで追う。呼吸は浅くなり、心臓はどくどくとうるさい。
それでも走り続けるのはなぜか。
依頼であると言うのももちろんだが、探偵が犬に馬鹿にされたままで終われるか、と言うちっぽけなプライドの存在も大きい。証拠に真っ赤な顔にわずかばかり怒気をはらんでいる。
そうした苦労の末、犬の後ろ姿を視界に収めた吉野は知らず知らずのうちに笑みを形作っていた。
しかし次の瞬間にはまた眉を顰めた。
「よ、余裕ってことか……!」
犬は吉野に気づき振り向いたものの、逃げる素振りも見せずに泰然自若としていたのである。
さらに燃料を注がれた吉野は、もう止まる術を持たない欠陥車両の如し。
何があろうと追いかけまわしてやると心に決めたようだ。
だがここでも犬は一枚上手だった。
あと一歩で手が届くところまで行くと素早く逃げ、その後はまた止まり様子を窺う。
そしてそれはその後も長く続き、吉野は誘い込まれるように市街地から離され、はっと気が付いたとき、周囲には木々が増えていたのだった。
「わん!」
追いついて見せろ、とでも言うように一吠えすると、犬は鬱蒼と生い茂る森の中へ姿を消した。
「やられたね、こりゃあ……」
吉野は躊躇した。
陽は次第に暮れ始めている。森に入ってうろうろしているうちに真っ暗になれば、無事に帰って来られるかも分からない。そもそもこんな森がある場所まで来たのは初めてだった。
土地勘のない場所に行き当たりばったりで突っ込んでいくのは無謀ではないか、と吉野の足は抑えつけられた。だがここまでやって来た彼に後退の二文字はなかった。
気合を入れ、森の中へ力強い一歩で踏み入る。
「怖い、怖い」
数分進めばもう薄暗い世界となった。切れ目なく枝と枝が重なり合い、陽の光を遮っている。
幽霊でも出そうだ、とぼんやり考えながらさらに進んでいると、何やら声が聞こえてきた。
「きゃあああ!」
それは甲高い悲鳴だった。吉野は咄嗟に周囲をぐるりと見まわしたが、声の主の姿は見えない。
その後も断続的に悲鳴は続いている。吉野はそれを頼りとして慎重に歩を進めた。
しばらくして、木々の切れ目が出来ている場所が目に入った。
吉野の知らぬ間に太陽はすっかり沈み、取って代わった月の光がそこにいる一人と一匹を照らしていた。
「お、おい、やめろ! 離れろ!」
悲鳴の主である少女は土埃や泥ですっかり汚れてしまっているが、一斤染の高価そうな着物を着ている。
服装からはどこかの高名な家の出とも思えたが、何もせずただ静かに佇んでいる犬を前に、一人で勝手に慌てているその姿は非常に滑稽だ。
それを目撃した吉野はというと、当惑する他なかった。
なぜ犬を追って来たら見るからに訳ありな女の子と一緒にいるのか。
触らぬ神に祟りなし、と言うが、犬を捕獲せねば意味がない。虎穴に入らずんば虎子を得ずだ。
乗り越えるべき難所に来たのだと自分に活を入れ、吉野は少女と犬の間に割って入った。
真っ先に反応したのは少女だ。
「だ、誰だ!?」
怯えた瞳を向けられた吉野は少なからず凹んだ様子でため息を吐いたが、何食わぬ顔で一度は言いたいと思っていた決め台詞を口にした。
「吉野良彦、言わずと知れた探偵です」
決まった――。
吉野は今が人生の中で一番格好いい瞬間だと確信した。
だが少女は気にした素振りもなく叫んだ。
「た、探偵? 何でもいいからその犬をどこかにやってくれ!」
一言何かを言いたい気もしたが、吉野は本来の仕事を忘れているわけではない。未だそこでお座りをしている犬を見た。先ほどまでの挑発的な瞳はなく、さりとて優しいわけでもない、端的に言ってしてやったりと言った風な口角を上げた表情であった。
「……ああ、なるほど」
そこでやっと吉野は合点がいった。逃げ切るのではなくつかず離れずの距離を保っていたのは馬鹿にしてからかっていたわけではなく、この少女を見つけてほしかったということなのだろう。
まるでお姫様を守る騎士のようだ。飼い主に愛されている理由が分かったような気がした。
「格好いいねえ、君は」
吉野がよっこらしょ、と屈んでその頭をなでると、尻尾を振って気持ちよさそうに瞳を閉じた。
「何やってるんだ!?」
静かに見守るしかなかった少女は堪えきれずにそう怒鳴った。
「え? 何って……コミュニケーション?」
「貴様馬鹿だな!?」
「馬鹿っていう方が馬鹿なんだよ」
「こ、子供かっ!」
「君の方が子供だね、精神的にも肉体的にも」
「はあ!? レディに対して失礼だぞ!」
「じゃあお互い様ってことで」
「なんでそうなる!」
少女の身長は百五十前後。顔は整っているものの、美しいではなく可愛らしいと言う言葉が似合う。上でも高校一年生がいいところと言った印象。言葉遣いもどこか子供っぽさが抜けきっておらず、さらに苛立ちを隠しもしない純粋さを持っている。
膝位まである長い黒髪は着物同様汚れてしまってはいるが、元々は丁寧に手入れされているようで、月の光を反射して天使の輪と呼ばれる輝きが見て取れる。
そうしたしっかりとケアされている様子から、虐待や育児放棄されているようには思えない。
故にここに居る理由は現状、ちょっとした喧嘩による咄嗟の家出、あるいは迷子が妥当だろうか。
吉野は言い合いのようなお喋りに興じながら立ち上がり、気取られない程度に少女の特徴を一つ一つ観察し脳内でまとめ上げていた。
厄ネタであっても、事前にある程度心構えができていれば対応できるものである。
土壇場に弱い吉野は窮地に追い込まれないよう、そう言ったことに余念がなかった。
「まあまあ、落ち着いて」
「貴様が馬鹿にしてくるからだろう!?」
「わん!」
「ひぃ!」
鶴の一声ならぬ犬の一吠えにより少女は吉野の後ろに隠れざるを得ず、文句を言うことも出来なかった。そうして遠慮がちに犬の様子を窺う姿は吉野の目に微笑ましく映った。
吉野は自覚なく笑みを浮かべていた。
「な、何を笑ってる……」
「え、笑ってないよ」
「嘘だ、絶対笑っ――」
「まま、それは置いておこう」
まだ突っかかって来る言葉を途中で切って、吉野は少女と向かい合った。
「俺の名前は言ったけど、君の名前を教えてくれる気はない?」
「なぜ言わなくてはならんのだ?」
怪訝な瞳を受ける吉野はさりとて気にした様子もなく続けた。
「何でってねえ……こんなとこで女の子が一人って、何かありましたって言ってるようなものだろう? だからとりあえず名前をね」
「ふん、貴様警察の者だな?」
「だから言わずと知れた探偵、吉野良彦だって」
名探偵と言わないのがポイントだね、と付け加える吉野を無視し、少女は幾分か迷う態度を見せたが、徐に口を開いた。
「来栖……来栖光瑠だ」
「じゃあ、来栖ちゃん?」
「……苗字はあまり好きじゃない」
「そっか、じゃあ光瑠ちゃんで」
「……くすぐったいな、そうやって呼ばれると」
知らなかった、と小さく呟いて、来栖は微かに赤みを帯びた頬を軽く掻いた。
「よし、これでお互いは知り合いになったわけだ」
吉野はこほんとわざとらしく咳払いをした。
「それで相談なんだけど、ここから街に戻るにはどう行ったらいいと思う?」
吉野はわざとらしく頭を掻く。
「……は?」
来栖は十分間を空けてから、口を大きく開けて放心していた。
「うん、もっともな反応だ」
吉野は惚けた表情であははと笑った。
「貴様はどうやってここまで来たのだ!? 来たのだから帰れるだろうが!」
「犬を捕まえるのに無我夢中だよ。そしたら悲鳴が聞こえたから、それを追ってここまで。そしたら元の道を忘れちゃいました」
いやーごめんごめん、と吉野は謝意の欠片もない言葉で誤魔化すも、それが火に油を注ぐ形となった。
「何て使えん男だ! じゃあ今夜はここで過ごせと言うのか!?」
「わんわん!」
「ひいぃ!」
一方的にヒートアップしていく来栖を犬が吠え立てる。
来栖は吉野の後ろにいても安心できなかったらしく、そこを離れて近くの木の幹を盾とした。
そこで吉野は犬の変化を感じ取った。
背中を向けこちらを見ずに闇に吠えていたのである。そして少し進むと止まって振り向いた。
案内してやろう、と幻聴が聞こえてきそうだ。
吉野は付いていくことに決め、一歩踏み出した。
「わ、私を置いていくのか……?」
吉野の後ろから震えた声が届く。振り向くと、不安そうに揺れる瞳とぶつかった。
吉野はため息をついて首を振った。
「そんなわけないだろう? 彼が……いや彼女かもしれないけど、連れて行ってくれるみたいだから、お世話になろうかなってね」
「ぐっ……信用できるのか……?」
このままではここで一人になってしまうと言う心細さと、犬に対する恐怖が天秤にかけられ、それらはちょうど釣り合っているらしかった。それが感じ取れたのか、吉野は一段と優しげな声音で話しかけた。
「大丈夫だよ、お利口さんだし。それに何でそこまで怖がってるか分からないけどね、この子と会ってから一度でも噛まれそうになったかい?」
「そ、それは、そうだが……」
まだ押しが足りないようで、来栖は一向に木を離れようとしない。
せっかちな吉野は我慢ならずにずんずんと近づくと、来栖の脇に手を入れて持ち上げ肩に担いだ。
来栖は突然の事態に短く悲鳴を上げた。
「何をする!」
「まあまあ、まあまあ」
全く取り合わない吉野に言葉だけで反抗する来栖。ずるい大人と翻弄される子供の構図だった。
バンバンと背中を力いっぱいに叩き無言の抵抗をするも、吉野は一顧だにしない。
そしてようやく、犬を先頭とした森からの脱出隊が結成されたのであった。
しかし案内犬がいるとは言っても、闇夜の森は依然強敵である。
足元は全く見えず、少しだけ飛び出している小枝が当たることもしばしばだ。吉野の頬が僅かに切れて血が出た。そこになって吉野は歩かせればよかったと気が付いた。
しかしその時には既に来栖は寝息を立てていた。
「子供は寝る時間だしねえ……」
起こさないようにペースを落としたが、弛緩しきった体は想像していたよりも重かった。
吉野は一度立ち止まり、来栖に傷がつかないように注意深く降ろすと、腕を引っ張っておんぶした。
「あ、随分楽だわ」
そして鍛えていてよかったなあ、とのん気に呟いた。
「わん」
一人感心している吉野に一吠え。
早く来いと言っているのだろう。
「はいはい」
吉野は小走りで着いていく。
それからまたしばし進む。
耳に届くのは木々のざわめきと、来栖の寝息、そして時たま上げられるうなされた声だった。
余程怖いことがあったのだろう。吉野の肩はいつの間にか少し湿っていた。
こういう時はどうしたらいいのか。
吉野は何を思ったか鼻歌を歌い始めた。
「ふーんふんふんふーん」
特別な音律もない、ただ気の向くままに奏でられるものだった。けれど歌っているとなぜか楽しくなって来たらしい吉野は当初の目的を忘れ、森の中であるのをいいことに大音量で奏で始めた。
「ふんふんふんふん、ふーふーふーん!」
「うるさい……!」
「ぐぉっ!」
吉野の首が突然絞められた。雑音で起こされた来栖によるものであった。
吉野は来栖の腕をタップしながら慌てて降ろした。
「お、起きたんだ?」
「貴様のうるさい鼻息でな!」
「鼻歌って言ってほしいね」
また二人はわいわい言い合いをはじめ、その様子を遠巻きに犬が呆れたように見ていた。
数分経って、森を出るのが先決だと結論を出した二人はまた歩き出す。
するとようやく見覚えのある道が見えてきた。
吉野はペースを上げた。その後ろを来栖がとことこと着いてくる。そしてやっとの思いで脱出した。
緑のドームがなくなった空は、いつもより綺麗に見えた。
深く息を吸うと、清々しい空気が肺を満たす。
犬はその近くで座っていた。
気分を入れ替えた吉野は振り返って来栖を見た。
「それじゃあ帰ろう。光瑠ちゃんの家はどこかな?」
「…………」
来栖は黙して語らない。俯いてしまって表情は窺えなかった。
吉野は推測だった家出説が濃厚になってきたかな、と考えた。
「き、貴様の家に泊めてはもらえないだろうか……」
そう提案する来栖の手は微かに震えていた。
それを目敏く見つけた吉野はここで断った場合を想定した。するとどう転んでも良い方向に行く気がしなかった。お人よしでもないが悪人とも言えない吉野は、悩んだ末に了承した。
「汚いけどいいかい?」
「この森ほどではなかろう?」
「どうかな」
「ゴミ屋敷だとでも……?」
「想像にお任せするよ」
適当に言葉を交わしながら吉野は、今日はソファで寝ることになるなあとぼんやり考えていた。
丸い月が二人と一匹を包むように照らしていた。
――かくして、探偵は事件と出会う。