『過去最高の犯罪発生率』。
新聞やら雑誌やらではそんな言葉が躍っている。
僕が住んでいる町は、着実に犯罪都市への道を辿っているようだ。
とは言え、普通に暮らしている分にはそんな実感はわかない。
現に今は高校で雑誌を広げて読んでいるわけだが、生徒たちは呑気なもので、昨日のテレビの感想や授業の課題の確認など、普通の生活を送っている。
「またそんなもん読んでるのか」
不意に頭上から掛けられた声に顔を上げると、そこにいたのはもうかれこれ十年の付き合いになる幼馴染、三城奈留だった。男勝りと評判の彼女は、ショートカットに高圧的な物言い、そして何よりも平坦な胸がその言葉にぴったりだった。
「そんなものとは何だ。こう言った情報収集がいずれだな……」
「はいはい、役に立つときが必ず来る、ってやつな? その言葉は聞き飽きたよ」
やれやれ、とでも言いたげに肩をすくめる三城は、昼休みが幸いして空席となっていた僕の前の席に腰を下ろした。途端、ぐいっと背伸びをして大きな欠伸を披露する。女性らしからぬ豪快さだ。
女傑とは彼女のような人間を指すのかもしれない。
「寝不足か?」
「まあね。そろそろ期末が近いだろ」
「普段やってないからそうなる。僕を見習え、僕を。この頭脳明晰にして明朗快活、福沢諭吉の名言を無に帰すような完璧な存在だぞ」
無論、あまりにも有名な、天は人の上に人を造らず、と言うあれのことだ。
「アレ別に福沢諭吉の言葉じゃなくて、何かの引用だぞ」
「マジで?」
「あと、内容的にも平等を謳っているわけじゃなくて、勉強しなくちゃ貧しい人間になるぞ、っていう話だし。タイトルからして『学問のすゝめ』っていうくらいだからな」
「マジで?」
「うん」
僕はもう一度口の中で「マジで?」と繰り返す羽目になった。
「完璧が聞いて呆れるな、おい」
「ぜ、全部知ってるってわけじゃないんだよ。こういう真人間的アピールも、人間関係を良好なものとするためには必要不可欠なわけで、つまりは……」
「お前ってさ、自慢するときと不利なとき、口数多くなって早口になるよな」
その言葉の刃は、僕の健全な精神に多大なるダメージを及ぼした。お互い知った仲でもここまでの致命傷を被ることになろうとは、不意に誰かに言われた時など恐ろしすぎて想像もしたくない。
一人苦悶の悲鳴を上げていると、三城は席を立ち自分の席に戻っていった。去り際に嘲りを含んだ小さな笑みを口元に浮かべるおまけつきだ。何をしに来たのかは分からんが、一つ分かるのは、奴は僕を嗤うのが好きということだ。なんて嫌な奴だろう。それに比べてそんなのの友人をやっている僕は何ていい奴だろう。聖人君子もかくやと言わんばかりの善人ぶりじゃないか。
悦に浸ったまま雑誌に視線を戻す。
すると、ふと嫌な言葉が目に入って、眉間に皺を寄せることになってしまった。
「連続殺人事件か……」
僕はため息を吐いてそれを畳んだ。
嫌な時代だ、本当に。
放課後にはバイトが待っている。それも普通じゃ経験できないようなレアなのだ。
今持っているモップとは、特に関係はない。でもこれも一応仕事なので、僕は懇切丁寧に床を磨く。
「吉野さん、今日も仕事ないんですか?」
ソファに座ってテーブルに何かの書類を並べているその後ろ姿に声をかけた。
「まあねえ。いや、ほんと、何でこんなに来ないのか不思議なくらいだね」
呑気な声でそう言うのは、僕の雇い主である吉野良彦さんだ。
僕たちがいるここは吉野探偵事務所。
ぼろぼろの五階建てビル二階の一室を借りて営業している。所員は僕と吉野さんだけ。こぢんまりとした探偵事務所だ。依頼は一か月に二、三件あれば良い方で、僕の給料が何処から出ているのか不思議でならない。思っている以上に依頼料と言うのは高額なのだろうか。
阿漕な商売なのかもしれない。
「あ、いや待った。一件あったよ。先日偶然会った知り合いに頼まれたのが」
「へえ。何ですか? 犬探しとか、落とし物とかですか」
「違う違う。えーとね……これこれ。メモだけもらったんだよね」
吉野さんがぴらぴらと振っているそれには、びっしりと文字が書き込まれているのが見て取れた。 メモ、と言うほど簡単なものではない印象だ。
「それ結構重要な依頼なのでは……」
「え? いやそんなことはないでしょ。だって俺のところに持ってくるんだよ?」
「言ってて悲しくなりませんか」
「まま、深くは考えないことにしよう」
それっきり吉野さんは黙ってメモに目を通し始めた。
一通り磨き終えた僕は手持無沙汰になってしまったので、吉野さんの向かいの来客用ソファに腰を下ろした。中古を安く買って来たらしいが、このソファ、質が悪い。必ず尻が痛くなる。
僕は度々座る位置を変えて抵抗した。
「んー」
吉野さんが唸った。難しいものなのだろうか。
知り合いからの依頼、と言うのは少しばかり期待してしまう。普段がペット探しばかりだからなおさら。ここで働き始めてから探偵らしい仕事なんて一度もなかったのだ。冷静沈着を信条とする僕であっても、そう思うのは仕方がないことだ。
一分くらい経っただろうか。待ちきれなくなった僕は声をかけた。
「で、どんな依頼で?」
すると吉野さんは苦々しい顔を僕に見せた。
「……失踪人の捜索だね」
「おお! 凄い探偵っぽいじゃないですか!」
思わずソファから立ち上がってテーブルを乗り越えそうになった。
一つ咳払いをして静かに元に戻る。ちょっと顔が赤くなっているのはご愛嬌だ。
「……そうなんだけどねえ」
「何でそんな嫌がるんです? 探偵になるくらいなんですから、こういう依頼を待ってたんじゃ?」
「数年前まではね。今じゃ俺にはペット探しがお似合いだなって……何て言うの? 分相応? ってのかな。自分の力量以上の仕事をこなそうとすると、大抵碌なことにはならないよ。人生の先輩からのアドバイスだ」
吉野さんは力なく苦笑しながらそう言った。
「でも、彼からの依頼じゃあ断れないなあ」
「誰なんですか?」
「志島誠司くん。馴染みの喫茶店で働いていた子だよ」
探偵のアルバイトは、吉野さんが件の志島さんに連絡を取ると言うことで、今日は終了を迎えた。
早めに終わったとはいえ、もう日は落ちて外は暗い。ここらは繁華街から離れており、街灯も少なく一寸先は闇と言った風だ。雑誌の情報を鵜呑みにするわけではないが、少なからず怖さと言うのはある。すぐ先にある陰からナイフを持った男でも出てきそうだ。
「……ん?」
今、暗闇で何かが動いたように見えたのだが、それは果たして僕の恐怖心が見せた幻覚だろうか。それとも現実だろうか。犬猫のような大きさでなく、はっきりと人間だと分かる影だった。
「……」
息を殺して恐る恐る近づく。何が現れてもいいようにファイティングポーズだ。喧嘩なんてしたことはないから傍から見れば無様に違いない。
「――わっ!」
「うぉう!?」
突然の声に僕はネコ科動物の如き柔軟さでもって一歩後ろに跳んだ。我がことながらその様は華麗であった。繊細な心を持つ妙齢の女性が見たら、たちまち惚れてしまうこと請け合いと言えよう。そしてめくるめく青春世界へ飛び込むのだ。
「おい、どんだけビビってんだよ」
「はっ!」
明後日の方向に思考が飛んでいたようだ。聞き覚えのある声で意識が戻った。
声から当たりは付いているが、いきなり現れた人物をまじまじ見据え、僕は殊更大きくため息を吐いた。言うまでもなくこの阿呆に対する当てつけだ。
「三城、お前はあれか、暗殺者だったのか。僕を殺そうと日夜狙ってたのか」
「はあ?」
「……まあいいや」
つい口をついた言葉にちょっとばかり驚いた。まるで吉野さんのようじゃないか。
「あー、何でこんなとこにいるんだ?」
「買い物の帰りだ。そしたらちょうどお前がいたんで驚かせてやろうってな」
この暗闇の中僕を見つけるとは、人並み以上の優秀な視力を無駄遣いしてやがった。
「何て奴だ……と言うかスーパーなら高校の近くにあるだろう」
「あそこより安いんだよ。出来る限り出費は抑えてんの」
まるで主婦のようなことを言う。
僕は適当に相槌を打って歩き出した。自然と三城も隣に並んでいる。
「そう言うお前こそこんな時間まで何やってたんだよ」
「ふふふ、聞いて驚け。なんと探偵の助手だ!」
「へえー」
「ええっ」と言うリアクションを期待していた僕としては、期待外れとしか言えない。
何なんだこいつは。さすがに反応が悪すぎやしないか。無気力症候群か何か?
「それだけか、それだけなのか」
「他に何いやあ良いんだよ」
「何でもあるだろう? どうやってそんな仕事見つけたとか、探偵って何やってんだとか……」
「どうでもいいわ」
泣きたくなってきた。あまりにもひどすぎるでしょう?
「もういいわ、お前には期待せんわ」
「はいはい。私が悪かったよ。そういじけるなって」
「いじけてないわこんちきしょうめ!」
僕の慟哭が暗闇に響いた。