1 瓶の中から産まれる話
ーー私が、私をようやく認識したのは真っ暗で冷たいところに蹲っている時だった。
状況を確認しようと動こうとするが何かが詰まっているようでなかなか簡単に動けそうにはない。何か、本来あるべき場所に居ないような無理矢理はめ込まれたかのような気持ち悪さに、僅かな身動きで脱出を図ろうとする。
やっと頭上に僅かな開放感を感じ、上へ上へと身体を押し出し、
ーそうして私は今生で初めての呼吸に泣いた。
悲しくも無いのに本能のままに泣く私の身体をとても暖かな腕が包み込んだ。母親の腕と認識するのは遅くはなかった。頬を擽る太い指は父親で間違いないのだろう。
「元気に生まれてきてくれてありがとう。私の愛しい子達…。」
「子供というのは、暖かいな。」
そこで、私は一緒に泣く者がいたことに気付いた。同じように腕に包まれている者を見れば、黒曜石のような瞳とパチリと目が合い、2人とも同時に泣くのをやめた。
途端、何かの吠え声が響く。
明らかに室内であると言うのに、すぐ近くにいるかのような肉食獣の叫びと共に、部屋の外で慌ただしく動く人の気配がした。
扉が勢いよく開くと何人もの人間が父親に迫っていった。
「王様、なりません!このような不吉な兆候と共に生まれてきた子は一族を滅ぼしてしまいます!今すぐにどこかにお捨てになるべきです。」
「控えよ。私の子供だ。それに何故この子達が一族を滅ぼすと決まっている。我らにとっての凶兆ではなく敵にとっての凶兆かもしれぬと言うのに。」
「王様!」
王妃の体に障るから、と家臣と思わしき者を全て追い払ってから父親はようやく座るまで長い時がかかった。
「ドゥフシャーサナ。」
「な、んだ?」
とんとんと軽く左肩を叩かれ振り向くとーーいや、振り向こうとしたが直感的に右に振り向いた。
案の定、左肩に置かれた手の人差し指は立っており、そのまま振り向いていたら頬に刺さっていだろう。見抜かれたことにドゥルヨーダナはムッとしていた。
「つまらない奴だな。他の弟達は皆、引っかかるというのに。」
「貴方が何をしてくるか察することくらい難しくない。」
「それは俺が単純だと言いたいのか?……おい、笑うな。」
ドゥルヨーダナが今日も部屋に持ってきた本は、私が出した要望通りで、それは明らかに運ぶのに苦労する量だった。私のために苦労してここまで来てくれたその事実に、やはり毎度のことながら嬉しさが滲んでしまうのはどうしようもないことなのだ。
じっと見つめ続けると黒曜石の瞳が揺れた。その曇のない瞳の映す私の顔と、ドゥルヨーダナの顔はよく鏡写しだと母親は言っていた。
「ドゥルヨーダナ。そろそろ私は外を見たい。」
手元にあった読みかけの本に栞を挟んで立ち上がって私は窓から外を眺めた。そこから眺める街の風景はいつも賑わっていて、今日もその例外ではない。
私を置いて外はいつも賑やかと相場が決まっている。私はただ、歌を歌ったり楽器を弾いたりして音だけでも外に逃がすことしか出来ない。
「駄目だ。あんな場所居ても辛くなるだけだ。お前には行かせない。」
「貴方に耐えられるなら私に耐えられない道理がない。」
「何でそんなに自信だけはあるんだ……。」
勉強も武術もこの部屋の中でならやれることはやった。もうここでこれ以上学ぶことはない。それはもう、ドゥルヨーダナも分かっているだろうに。
「…それでも駄目だ。」
「そう、か。」
私の片割れはどうにも頑固らしい。
近々、王家主催の競技会が開かれると決まったようでどうやら部屋の外が騒がしい。毎日耳を傾けてきたおかげで大分遠くの話し声まで拾えるようになった私の耳は、浮き足立った民達の興奮を感じ取った。
「パーンダヴァ五兄弟か。」
「何?!」
民衆の期待高まる中、頻繁に出てくる言葉を呟くと部屋で茶を飲んでいたドゥルヨーダナが手から器ごと茶を落とし驚愕の声を漏らした。
「あいつらに何かされたのか!ここの警備は厳重にさせていたはずなのだが、あの忌々しい兄弟の事だ。何かあってもおかしくない。何かある前に俺に」
「ドゥルヨーダナ。」
相も変わらず過保護な片割れの落とした器を拾って机に置く。近くにあった清潔な布で軽く拭いてから、茶をまた注いだ。
「私はまだ貴方と弟達と母上と父上くらいにしか会ったことがない。最近よく聞く名前だと、そう思って声に出ただけだ。」
「……そうか。そうならいいが。あいつらと違って俺達は人間なの……だ、から……ーー」
茶に入れた睡眠薬がドゥルヨーダナの眠りを誘い意識を奪う。ゆっくりと硬い床に倒れ込む前に支え、寝床まで運んで毛布を掛けた。
きっととても怒るに違いない。睡眠薬を盛った事ではなく、自らを外の世界の危険に晒す事に。でもこのまま籠の中で大切に飼われ続けるよりは幾万倍もましだ。
私は顔の下半分を覆うように布を着け、窓から飛び降りた。
ああ、なんて。
なんて外はこんなにも明るいのだろう。大地を踏みしめる感覚が愛おしい。日を浴びる感覚が愛おしい。そこかしこに飛び交う怒声が人の生気を感じさせる。王宮の鬱屈とした雰囲気とは正反対だ。
綺麗ではない。だがそこがいい。
人間味のある人の営みが、こんな間近で見れることが、片割れを騙した罪悪感を少しの間忘れさせてくれた。
「痛っ。」
向こうから走ってきた少年に軽くぶつかられた。ああこういう事もあるのかとまた嬉しくなった。昔読んだ本にそんな手口で盗みを行うことがあるとあった。大したお金は持っていないし、あの少年の罪を責めるつもりもない。振り向くことも追うこともせず、私は前へ進んだ。何がこの先あるのだろうか、と。
「失礼。そこのお嬢さん。」
振り向くと背の高いガッシリとした肩幅の赤い短く切りそろえられた髪の男が立っていた。男の差し出した手のひらには先ほど少年に盗まれた筈の財布……を含む複数の貴重品と思わしきものが乗っていた。無論、それらは見覚えなどある筈がない。
「さっきお嬢さんから物を盗んだガキから取り返してきたんだが、この中にあるか?」
「ああ、有る。ありがとう。」
あの少年は早々に罪を償うことになったのだな、と思いつつ自分の物を受け取ると男は誇らしげに笑った。別に少年がどうなったかまではあまり気にならない。自分でやったことには全て其れ相応のお返しが来るのだから。それが良いことにしろ悪いことにしろ。
ふと、気付く。男の手のひらは、決して綺麗ではなかったがそれは水仕事によるものでなく、武術をやっている者の手に見えた。ドゥルヨーダナと同じようなタコのつき方に、みすぼらしく見せているがその着ている服の素材が上質なものだと一目でわかる。
「……貴方は」
「?何だ?」
乱暴な言葉に似合わず所作に気品に似たものを感じる男に誰なのか、口に出そうとして、やめた。下手な蛇を突いて迷惑を被るのは確実に私だ。変わりに他の疑問をぶつける。
「その残りの盗品の持ち主の居場所は分かるのか?」
「……しまった。」
「見当もつかないのか?なのに持ってきたのか?」
「…すまねぇな。全く分からん。」
全く知らないのに持ってきてしまったらしい。先程まで誇らしげにしていたのに急にオロオロと慌てだした男を見捨てる…わけにも、行かないだろうな。
「これも何かの縁だろうし手伝おう。幸いにもこの時期に人が集まっている場所は一つに決まっているし、そこで持ち主を探せばいいのではないだろうか。」
するとピタリと動きを止め、首を軋ませながらこちらを向く男が今度は感動からか涙を流し始めた。
「あ゛り゛か゛と゛う゛」
「大丈夫…か?」
なかなか迫力のある顔で子供みたいに泣くのだからこっちが困る。落ち着いてから行くか。
「何とか見つかったな!あと一人!」
人の集まる競技場付近でひたすら人に聞いていくこと数刻。この男の言う通り、元の持ち主の4人にそれぞれの物を返す段まで行き、残すところあと一人になった。これだけ人が集まってる中だからこそ、逆にとんと見つからないかもしれないと思って途中で切り上げることも頭に入れて探し始めたのだが、予想に反しトントン拍子で男が見つけた。なぜか私が聞いても多くの人が知らないというのに男が聞いた人は何かしら情報を持っているのだ。
これは私はいらなかったのでは?と普通に思った。
「なんか、申し訳無い。」
「ン?気にすんな。俺の運が良かったってだけだろ?それにお嬢さんが楽しそうだったから、俺もなんか楽しかったし。」
日が傾きかけた広場でまるで口説くかのような言葉を口にする名前も知らない男は、本当に心底そう思っているようだった。
「あと一人見つける前に、少し休憩するか?」
「お、いいなそれ。さっき見つけた酒場でーー」
「ーーーーーーーーAh」
歌い出しは静かに。でも期待を秘めて。まだこの町が一日の準備をしている朝のように。一歩一歩、部屋と違って広いこの外を踏みしめながら、息を吸え。息を吐け。声を、乗せろ。
背中に背負っていた楽器を取り出して、そのまま思った弦だけめいいっぱい爪弾いた。とても上品なものじゃないけど、この町の人間を表すのにはこれが一番だ。ぶつかってきた少年。大通りで呼び込みをする中年の女性。昼から泥酔する若者。偶然見かけた青年に一目惚れをする娘。
色んな要素が弾けて集まって、形を成して。
そして楽器を手放した。後はいつもみたいに声を飛ばして好きなように踊る。
この男を表すのにはこの身一つあれば足りる。というか他はいらない。真っ直ぐで不器用で。あってからそれほど時間は経ってないが、私が知り得るこの男はこうなのだ。
歌い終わった時には人だかりができてしまっていた。歌が消えたせいで静かになってしまった広場に、私の声だけが、また響いた。
「弟達と休憩する時はいつも歌ってやるのだが、何か不味かったのだろうか。こんなに人が集まるとは思わなんだ。」
一拍置いてこちらを圧倒する歓声が湧いた。いきなりこの人達はどうしたのだろうと目を白黒させる。何故こんなに叫ぶのだ。困った顔で赤毛の男に助けを求める視線を向けると、腕を掴まれぐるぐると振り回された。歯車のように回転させられて視界もぐるぐる回る。
「お、あああああ!」
「お前、すげぇよ!なんて言ったらいいか分かんねぇけどよ、こう、胸の辺りがあったかくなる、いい歌だった!」
「じゃあ、今すぐやめろ!」
「やだね!俺の気の済むまで、だ!」
周りの人間も良かった!とかありがとう!とか声をかけてくれているようだが、誰も助けてくれない。私がここで吐いたら悲惨なことになるというのに。
…誰か助けてくれないだろうか。
「そろそろやめてやれ。」
「わ。」
「お?」
私の足を片手で掴んで物理的に止める猛者が現れた。
周りの人だかりに解散するように手を振りながら、白髪の大理石みたいな白い肌に、蒼い目の妙に頭に残る青年は、赤髪の男にその真っ直ぐすぎる眼差しを向ける。
「あの、止まったなら下ろして欲しいのだが。」
「やだ。」
「聞き分けのない子供みたいだな。」
「……兄上みたいな事を言うなお前は。」
渋々、手を離してくれた。
手を、離してくれた。もちろん青年に足を持たれたままなので、顔面が地面と熱烈な抱擁を交わすことになる。
「がっ……」
馬鹿なのだろうか。ああ馬鹿だ。普通こんな扱い有り得ない。顔に傷ができるのは別に気にしないが、打ちどころが悪かったら人間簡単に死んでしまうのに。
「すまんすまん。」
「……何か、不味かっただろうか。」
上半身から地面に倒れ込む私に、全然すまなさそうに謝る男と、申し訳なさそうに足をまだ持つ青年。
「2人とも…」
「いい加減にしろおおおお!」
頭の上に手をついて軸にし、青年の手から足を抜いて勢いよく振り抜き回すと見事に2人に蹴りが決まった。
男は真っ直ぐ過ぎるだけで、ドゥフシャーサナはただ人との距離感を知らないだけ。つまり、2人ともお子様。恋愛ではない。いいね?
産まれてすぐに意識があったのには理由があります。