場所はここじゃない何処か、別の世界。
時刻は深夜、男は深い霧の出ている湖の畔に佇んでいた。
月明かりが男の顔を照らし、水が男の姿を映し出す。端正な顔立ちには似合わない、右顎から頸、右上半身にかけての大きな傷痕が残っているのが見てとれる。
「……ハルト……ヒラツカ……」
左手を傷痕に這わせながら、男は獰猛な笑みを浮かべる。
猛々しい猛獣のように、牙を剥き出しにして嗤う鬼のように。
「もうすぐだ……もうすぐ会えるぞォ……」
そんな笑みを浮かべたまま、男は踵を返す。
「思う存分殺し合おう……あの時のように」
その時、湖面に浮かび上がるモノがあった。月の明かりがそのモノを照らし出す。
そのモノは、否。その者は、本来この湖を護る精霊。美しき女性の姿でありながら、強く、優しい。そんな悠久の時をこの湖で過ごしてきた偉大なる精霊、ウンディーネの見るも無惨な姿だった。
美しい髪は乱れ、か細い腕は折り砕かれ、首はあらぬ方向に螺曲がっている。身体は至る所に穴が開き、その脚は湖の畔に生えている樹齢何百年の大木に打ち付けられ、周辺に原型を留めていない肉片と骨片として散らばっている。
本来ないはずの精霊の死というものを直感させる、凄惨な光景が広がっていた、のだが。
「待って……ど…こへ………行くの」
精霊の持つ凄まじい生命力を振り絞って、彼女は男に声をかける。
「行かせない………皆のところへは……あの人の……あの子の所へは…絶対に……!」
男は立ち止まり、ウンディーネの方を向くと
「安心しろ。俺はお前の考えてるようなことはしないさ。約束する」
嘲るように、男は嗤う。心底楽しそうに。
「だったら……!」
「ただし、お前がここで死ねば、の話だがな?」
表情ひとつ変えずに、男はウンディーネに対して事実を突きつける。
彼女が死を選べば、湖周辺の村々の人間の命は助かる。
だが、彼女が死を選ばなければ、湖周辺の村々の人間は皆殺しにする。
彼女の家族……夫と娘の命は勿論、その他大勢の人間、老若男女子供赤子関係無く漏れ無く殺す。
男はそう言っているのだ。
「私が……死ねば、皆の…命は助か……るのね?」
そう言った彼女に向かって、男は告げる。
「安心しろ、約束は守る質だ。私は絶対に、危害を加えない」
「(ごめんなさい……私、あなたとの約束……守れないみたい……)」
そうして、ウンディーネは安らかな顔で湖の底に消えていく。彼女は湖の底にて、水に還るのだ。
その決断は彼女にとって苦渋の決断に他ならない。まだ小さい子供の成長を見守りたかった。愛する夫と、もっとずっと、一緒にいたかった。
『お願い……一日でも一時間でも、1秒でも長く……私と一緒の時を過ごして……もう一人ぼっちは…………いや……なの……』
その約束は、彼女が夫と結ばれた時に交わしたものだった。悠久の時を過ごしてきた彼女が、幾度となく経験した愛する者との別れ。その別れが、彼女にとって辛くなかった筈はなかった。
その約束を、彼女は破った。愛する者を守るために。
「(あなた……あの子を、ハンナをお願いね……)」
湖からウンディーネが消える。それほこの湖が、水が死ぬということを意味していた。旧き時代からこの大地を潤し、生物の礎を築いてきた、その水のひとつが潰える。ウンディーネの行いは、歴史上でも類を見ない愚行であった。それでも彼女は人を生かすためにその身を犠牲にした。
「逝ったか……ク…クハハハハハハハハハハハハハハァッ!!」
男は心底楽しそうに嗤う。その笑い声に大気が震え、木々が唸り声を上げる。
それを聴きながら、男____月嶋尋は声高らかに、謳うようにして宣言する。
「おお、偉大なる湖の精霊、ウンディーネよ!貴女の死に敬意を表し、私は周辺の村々に手を出さない!!」
すると、湖の周辺の村々から、爆音と共に人の叫び声や悲鳴、泣き声がこだまする。村には火が放たれ、黒煙が上がり、辺り一帯には血と人の焼ける臭いが立ち込める。
「ウンディーネ……私は手は出しておらんよ………私は、な」
そう、月嶋尋は一切手を出していない。今虐殺をしているのは彼の部下達なのだ。
月嶋尋は約束を守った。その事実は変わることはない。彼は手を出してはいないのだから。
月嶋は湖を後にする。その歩きは軽やかで、まるでガールフレンドとのデートの待ち合わせ場所に向かう若者のようだった。
「ハルトヒラツカ……もうすぐだ……もうすぐ君と会える……楽しみだねぇ♪」
屈託ない笑顔で夜道を歩く月嶋。その顔に嘘はない。
「存分に殺し合おう……あの時のように。君が、私の身体に傷をつけた時のように。」
月嶋は牙を剥き出しにして嗤う。
「私が君を殺めた時のように……!」