ご愁傷様です、霊夢さん   作:亜嵐隅石

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 野獣の咆哮を彷彿とさせるような、ビリビリと鼓膜を刺激する轟音が耳に障り、博麗霊夢は長い眠りからようやくと目を覚ました。その視界は一面が真っ白に染まっていた。

 霊夢は顔に掛かっていた謎の布切れを鬱陶しそうに剥ぎ取ると、子犬が威嚇するような唸り声を上げ、ふらりフラリと彷徨うようにぼんやりと周囲に目を配った。寝惚け眼のうっすらと白んだ視界に映るのは社務所の見慣れた和室である。

 次いで霊夢は壁に掛かっている時計に目をやった。時計の短針は天を指し示している。つまり、時刻は既に十二時を回っていた。

 

 ――ああ……もう昼過ぎなのね。

 いつの間に眠りこけてしまったのか、記憶が定かではないものの、波間をたゆたうように微睡む意識の中、霊夢の脳裏にそんな言葉が過った。そして、それから暫しの間をおいた後、霊夢はフッと湧いた焦燥感と共にハッと気付いた。

 ヤバい! 寝坊した!――と。

 

 霊夢は毎朝、神社の境内を掃き清めるのを日課としていた。また、それは神社を管理する巫女としての最低限の勤めでもあった。然るに現時刻はご覧の有り様。完全なる寝坊である。

 従って、普段ならば、昼時は縁側で日向ぼっこをしながら、暢気に茶をしばく時間に充てられていたのだが、ことがここに至ってはもう、そんな悠長なことを言っている場合ではなくなってしまった。

 このまま日課である巫女の仕事をサボる訳にはいかない。直ぐにでも起きて、境内の掃除に向かわなければならなかった。何故ならば、寝坊した挙げ句に巫女の仕事をサボったのが紫やら華扇にバレた場合、その後でどんな説教を受けるか分かったものではないからだ。

 

 霊夢の中にある僅かばかりの巫女としての責務が。脳裏に浮かぶ、頭に角を生やした紫と華扇の顔が急き立てるように霊夢の迅速な行動を促す。また、不思議と頭に角を生やした華扇の姿は何故だか妙にしっくりきた。

 

 霊夢は急ぎ布団から跳ね起きると、部屋の箪笥から馴染みの巫女服を取り出し、真っ白な寝巻きから直ぐさま、それに着替え始めた。頭の中は完全にパニック状態である。

 それ故、巫女服に着替えている最中、ふと――社務所の外が尋常ではないレベルで騒がしいことに気付いたが、いまの霊夢にはそんな些事に構っていられる余裕はなかった。むしろ――昼時ならば、暇な人間やら暇な妖怪やら暇な魔理沙やらで神社が騒々しいのは日常茶飯事だ、いまさら気にするようなことじゃない、いつものことだ――などと思い、尚のこと、外の騒音を気に留めることはしなかった。

 

 そうして巫女服に着替え終えると、次に霊夢はリボンを結ぶ為、部屋の隅にある姿見の前に立った。櫛で髪の毛を念入りに梳かし、両手で髪を後頭部へと掬い上げ、それから手慣れた動作でリボンを結んでいく。急を要している、というのも手伝ってか、それは実に鮮やかな手際であった。

 だが、正にその時である。霊夢はふと、鏡に映った自分の顔がいつもと少し違うことに気付いた。今日は妙に顔色が良いなと。唇など燃えるように血色が良いじゃないかと。今日の私はなんだか普段よりも三割増しで美人じゃないかと。

 

 ――いまはそれどころじゃない! それどころじゃないのよ、博麗霊夢!

 霊夢は必死にそう自分に言い聞かせる。だが、鏡に映った、いつもより綺麗に見える自身の顔の、その御しがたい求心力はあまりにも強大であり、ひとりの年頃の少女がそれに抗える術などある訳がなかった。

 結果、霊夢はキラキラとした眼で顔の角度を何度も変えながら、暫しの間、姿見の前でナルシズムの世界へ浸ることを余儀なくされた。

 

 ――馬鹿! 私の馬鹿! いまはそれどころじゃないって言ったのに!

 ようやくとナルシズムの世界から我に返った霊夢は、恐る恐るといった様子で時計を一瞥した後、慌てふためきながら部屋の障子を開け放ち、吹き抜ける強風のようになって社務所の外へと飛び出した。その顔はすっかりと青ざめており、拝殿の方へと必死にひた走る、霊夢のパニック度はここにきて更なる強まりを見せる。

 脳裏に浮かぶ、頭に角を生やした紫や華扇の顔もいまでは、般若と金剛力士の合の子みたいな凄まじいものへと変貌を遂げていた。華扇に至ってはどう見ても鬼そのものな姿だ。

 霊夢の中で焦る気持ちばかりが無限に込み上げてくる。

 

 この時、霊夢はすっかりと冷静さを欠いていた。気持ちは一刻も早く拝殿に向かう、ただそれだけで占められており、周囲の状況に目をやる余裕などはひと欠片も存在しない。故に霊夢は気付けなかった。本来ならば、直ぐに気付けた筈のことに気付くことが出来なかった。

 そう――昼時にも拘わらず、辺りが妙に暗いことを。天を仰げば、丸い月が顔を覗かせていることを。とどのつまり、いまは昼の十二時ではなく、実際は夜中の十二時であることを。

 もっとも、仮に霊夢がそのことに気付いたとしても、それは最早、些細な問題にしかならなかったかも知れない。何故ならば、そんな些末なことなど、一瞬で吹き飛ばされてしまうような、実に驚愕すべき光景がいま正に霊夢へ襲いかかろうとしていたからだ。

 

 拝殿の方へと必死にひた走る霊夢の足が、まるで金縛りにあったかのようにピタリと止まる。否。眼前に広がる想像を絶する光景を前にして足を止めざるを得なかった。

 

 神社の境内には数え切れないほど沢山の人妖達がいた。それらは境内を埋め尽くさんばかりに犇めき合い、また、どういう訳なのか、彼女達は一様に頬を濡らし声を枯らせて大号泣をしていた。その様相はまるで誰かの葬式でもしているかのようである。

 

 ――なんだこれ?

 霊夢は瞠目して心中でそう呟いた。だが、そう呟いてみたところで眼前の光景を理解するには及ばず、霊夢はただただ唖然として、まるで案山子のように呆然とその場に立ち尽くすことしか出来なかった。

 

 

 そんな霊夢の姿を最初に目撃したのは、拝殿前で佇んでいたアリスであった。

 

 

 アリスは最初、我が目を疑った。いやいやそんな馬鹿な、霊夢は死んだ筈だとかぶりを振った。酒に酔って幻覚を見ているのだと思った。まさか、死んだ筈の霊夢があんなところにいる訳がない、きっとあれは私の見間違いか何かなのだ。

 と、そう考えたアリスは涙の溜まった目をゴシゴシと擦り、酔いで火照った頬を両手で張り、深呼吸を何度も繰り返した後、恐る恐るといった様子で再度、霊夢とおぼしき人物がいた方へ改めて目を向けた。

 だがやはり、そこにいたのは死んだ筈の霊夢であった。見間違いでもなければ幻覚でもない。眼前に佇むのは正真正銘、紛れもない、死んだ筈の博麗霊夢の姿であった。

 

 途端、雷に打たれたかのような衝撃が全身に走り、酷く驚愕したアリスは泣き腫らした目をこれでもかと見開いて、思わず「うぎゃぁぁぁっ!!!」という都会派にあるまじき悲鳴を上げた。

 この突然の悲鳴に皆は驚き、何事かとアリスの視線の先を追う。すると、皆もアリスと同様に泣き腫らした目をこれでもかと見開き、「うおーーーっ! ゾンビが出たーーーっ!」という宮古芳香の叫びを皮切りにして、思わず「あややややぁぁぁっ!!」「むきゅぅぅぅっ!!」「ひゅいぃぃぃっ!!」「こあぁぁぁっ!!」「ぎゃぁぁぁてぇぇぇっ!!」「くろまくぅぅぅっ!!」「なむさぁぁぁんっ!!」と輪唱のように次々と悲鳴を上げた。そして、そんな皆の悲鳴に驚いた霊夢もそれにつられるようにして思わず悲鳴を上げた。

 霊夢がつられて悲鳴を上げると、それに驚いたアリスがまたも悲鳴を上げ、アリスの悲鳴に驚いた皆もまた悲鳴を上げた。更には皆の悲鳴に驚いた霊夢がまたしても悲鳴を上げ、霊夢の悲鳴に驚いたアリスがまたしても――

 

 まるで無限に続くかのような悲鳴合戦であった。だが、いかに埒外の人間や妖怪と言えども、体力は決して無尽蔵ではない。無限に悲鳴を上げ続けるなど無理な話であった。

 多大な体力を無駄に消耗した結果、息切れや目眩や頭痛などの症状を伴った疲労感に襲われ、皆は肩を大きく上下させて荒い呼吸を繰り返していた。霊夢もまた同様である。

 尚、驚きのエネルギーを食べ過ぎた小傘はこの時、妊婦のように腹を膨らませて白目を剥き、泡を吹いてその場に倒れてしまった。

 

 やたらと満足そうな顔をして倒れ付している小傘のことはさておき、その場にいた全員が疲労感に顔を歪めながらも、その胸の内では様々な疑念が急速に渦巻き始めていった。

 

 神社に集った人妖達はこう疑問に思った。

 霊夢は死んだ筈なのにこれはどうしたことか?

 あれは本当に霊夢なのか?

 もしや、マミゾウ辺りが悪戯で化けているのではないか?

 

 また、当の霊夢もこう疑問に思った。

 こんなに大勢の人妖達が大挙して神社に押し寄せて、これは一体、何事なのか?

 そもそも私の許可もなく、人様の神社でこいつらは何を勝手に騒いでいるのか?

 まさかこいつら、揃って何か異変を起こそうとしているのではないか?

 

 と、そんな疑念が各々の胸の内で噴出した。故に神社の境内には暫しの間、霊夢と人妖達の睨み合い、腹の底の探り合いといった、冷戦さながらな膠着状態が続いた。

 

 しかし、その膠着状態は長くは続かなかった。実にあっけなく終止符が打たれた。

 この場にいた全員が疑心暗鬼に囚われて押し黙る中、誰かが突如、境内中に響き渡るかのような大声を張り上げて「こいつは霊夢のオバケだ!」と叫んだのだ。

 

「ほーら見ろ! それ見たことか! 私の言った通りになったじゃないか! 霊夢の奴、私達があんまりメソメソするもんだから、それに怒り狂って、とうとう化けて出て来やがったんだよ! お前ら、私が死んだぐらいでピーピー泣くなってさ!」

 

 場は一瞬、凍ったように静まり返った。しかし、そこは良くも悪くもノリの良い連中ばかりである。ましてや、正常な思考力など疾うに失なった酔っ払い連中である。

 故に直ぐさま、境内のあちらこちらから「なるほど! そういうことだったのか!」といった驚きと喜びの入り雑じった納得の声が上がり、やがて、なんやかんやで神社に集った人妖達の興奮のボルテージは最高潮に達した。勝鬨の声のような霊夢コールが、月まで届けと言わんばかりに幻想郷の夜空に轟く。

 一方、霊夢の胸の内に浮かんだ疑念の色はより一層、その深みを増していった。

 

 誰かが発した天啓のような一言によって、すっかりと疑念が払拭された為か、皆は完全にもとの調子を取り戻していた。やがて、境内は再び多大なる盛り上がりに包まれ、次第にあちらこちらから。

「この際、オバケでもゾンビでもなんでも良いわ! だって、こうしてまた、元気な姿の霊夢に会えたんですもの!」

「あのう、霊夢さんは怒ると化けて出て来るんですよね? そういうシステムなんですよね? ということはつまり、これから先、もしも霊夢さんにまた会いたくなったら、その度に神社に悪戯か何かをして、霊夢さんを怒らせれば良いってことになりませんか?」

「ほう……なるほどな! 妖精にしてはなかなか聡いではないか、お主! それならばいっそのこと、これから毎日神社を焼き討ちにして、霊夢殿を盛大に怒らせていこうではないか! わははっ! 我にお任せをーっ!」

「そこまでよ! 発想が飛躍し過ぎて、ただの放火魔になってるわ! 大体、そんな面倒なことをしなくても、霊夢のことだから、賽銭箱にお金を投げ込むだけでホイホイ化けて出て来るわよ!」

 といった歓喜に彩られた声が聞こえ始めた。

 

 また、そうした歓喜の声が上がる水面下では。

「いままで敢えて黙っていたのだけど――霊夢が死んでも私は別に困らないのよねえ、実際。だってほら、霊夢の魂を冥界に引き留めて、そのまま彼女を白玉楼に定住させてしまえば、私はいつでも霊夢に会えるんですもの」

「――はあ? 何それ、意味分かんないんだけど! 飽食が過ぎて、脳まで脂肪まみれになってるんじゃないのー? ハッキリ言って、霊夢みたいにぐうたらで暢気な奴は、天界の暮らしの方が断然合ってるし! 絶対に! 衣玖もそう思うわよねー?」

「ははっ……冗談はその胸だけにしておいて下さいよ。霊夢さんのような、欲深い方が天界に行ける道理はありません。彼女の死後はきっと、現世での未練が祟って、怨霊になると決まっているのです。となれば、霊夢さんの管理は旧地獄――もとい地霊殿が一任することになるでしょうねえ」

 といった冥界と天界と旧地獄の不毛な争いが繰り広げられていた。

 

 対して、そんな皆のやり取りを当初は困惑としながらも呆然と眺めていた霊夢であったが――自分をまるで化け物扱いするかのような、故人扱いするかのような皆の態度と口振りに段々と腹が立ってきたのか――次第にその口はへの字に曲がり、顔はみるみる真っ赤に染まっていき、眉尻が鬼のように吊り上がっていった。

 

「アンタら、さっきから黙って聞いていれば――」

 

 怒気の籠った低い声でそう口にすると、霊夢は巫女服の袖に手を突っ込み、怒りに震える指先で袖の中をモゾモゾと探り始めた。この動作が見られたら、それは危険信号である。霊夢が相当に怒っていることの表れであり、すなわち、いまの状況はかなり危ういと言えた。

 故に常ならば、霊夢がこのような仕種を見せた時点で、それに対峙した者は嫌な予感に怖じ気が走り、瞬時に警戒体制を取るか、脱兎の如く駆け出して遁走するかの二択を迫られるところである。

 だが、猫も杓子もすっかりと他事に気を取られていた為か、霊夢のそんな静かな怒りを察知出来た者はこの場に誰ひとりとしていなかった。四次元ポジトロン爆弾に匹敵するほどの脅威が、着実に我が身へと迫りつつあることに気付いた者は誰ひとりとしていなかったのだ。

 

 そうこうする内、霊夢は袖の中に目的の物を発見して口角をニヤリと吊り上げた。お馴染み――夢想封印のスペルカードである。これからこのスペルカードを用いて、眼前のふざけた連中を駆逐しようという算段であった。

 霊夢は怒りに燃える瞳で真っ直ぐに標的達を捉えると、早速と袖口からスペルカードを取り出して頭上に掲げ、スペルカード宣言をする為、その口をゆっくりと開いた。

 しかし――いま正に霊夢が夢想封印を放たんとする、その矢先に突如として、そこへ待ったをかける者が現れた。

 

「霊夢ざん……っ!」

 

 東風谷早苗である。その背後には早苗を心配そうに見守る二柱の姿もあった。

 

 数多の人妖が群れをなす、その先に早苗の姿はあり、それを視界の中に認めた瞬間――霊夢は手にしていたスペルカードをハラリと地面へ落として、口を開けたまま絶句した。皆も先程までの騒ぎが嘘のように押し黙り、見てはいけないモノを見てしまったかのような、ギョッとした視線を早苗に送っている。

 早苗の躰は全身から鈍色に染まった嫌なオーラを発しており、風に吹かれた柳のように左右へユラユラと不気味に揺れていた。緑色の髪はメデューサのように酷く乱れ、顔は死人のように青白くて見るも無惨なまでにやつれ、涙と鼻水によってグシャグシャに崩れていた。また、その目は赤く充血していて、メッセ顔を彷彿とさせるように据わっていた。

 

 あれはもう早苗さんじゃねえっス! あれはサナエさんっス!――河城にとりが些か錯乱気味の様子で心の中でそう叫んだ。だが、そう叫ばざるを得ないほどの――正に奇跡のような危険人物がそこにはいた。小兎姫さん、こいつです。

 

 途端、耳鳴りのするような静寂と圧倒的な緊迫感が一気に場を包む。最早、そこに言葉を発する者は誰ひとりとしていなかった。そんな中、早苗は不意に操り糸が切れたようにガックリと肩を落とすと、オロオロとする二柱に見守られながらも一歩、また一歩とその足を前へと進めていった。

 泥沼を進むような早苗の足取りは一直線に霊夢を目指していた。それ故、その直線上に屯していた人妖達にはたちまち戦慄が走り、「触らぬ神に祟りなし!」とでも言わんばかりの様相で慌てふためき、まるでモーゼの奇跡のような様相を呈して、そそくさと早苗に道を譲り渡す羽目になった。

 また、そんな光景をただ凝然と眺めていることしか出来なかった霊夢はこの時――生まれて初めて恐怖というモノを覚えていた。一流の妖怪退治屋として、歴代でも最強にして最高の誉れが高い博麗の巫女と後世に語り継がれる、あの博麗霊夢が額から多量の脂汗を流して、膝をガクガクと言わせて恐怖していた。本能は『逃げろにゲろニゲロ逃ゲロにゲロニゲロ――!』と喧しく騒ぎ立てる。然るにじっくりといたぶるようににじり寄って来る恐怖の根源に対して、霊夢の足はいまや完全に怯えて竦み上がっていた。

 

 やがて、早苗の足が霊夢の前でピタリと止まり、霊夢は短い悲鳴を上げて背を仰け反らせた。深く耳を澄ませば、辺りからは恐怖と不安をゴクリと嚥下する音がいくつも聞こえる。

 

「あの……その……さ、早苗さん?」

「ううっ……霊夢ざん……霊夢ざぁぁぁん!!」

 

 目の前でピクリとも動く気配のない早苗に底知れぬ闇を感じ、激しい動悸に襲われた霊夢であったが、それでも恐る恐るといった様子で早苗に呼び掛けた。すると、途端に早苗はじわりジワリと涙を溢れさせ、飛び付くような勢いで霊夢に抱き付いてきた。それは背骨が折れるのではないかと思うほどの力強い抱擁であった。

 霊夢は唐突な早苗の行動と自身の骨が軋む音によって恐怖が極まり、思わず、断末魔のような悲鳴を上げた。かたや、他の皆は右往左往して酷い狼狽を見せながらも、ただただ、この状況を静観することしか出来なかった。そもそも、誰しもがいまの早苗には極力関わりたくなかった。

 

「ちょっ痛い! 早苗、痛いから離して! 離しなさいってば! 背骨が折れちゃう! 私の背骨が折れちゃうからぁぁぁっ!」

「霊夢ざん……ううっ……どうじて死んじゃったんでずか……ひっく……霊夢ざんは殺じても死なないような人だと思っでたのに……おえっ」

「ひっ……! 殺す!? いま殺すって言った!? ちょっと早苗――いえ東風谷さん! 取り敢えず落ち着きましょう! 話せば分かる! 話せば分かるわ!!」

 

 我が身の危険を瞬時に感じ取った霊夢は、早苗の拘束から逃れるべく必死になってもがいた。身を左右に大きく激しく捻ってみたり、早苗の肩を掴んで強引に引き剥がそうとしてみたり、早苗の無防備な腋へとくすぐりを仕掛けてみたり、秘蔵の高級羊羮を交渉材料にして早苗の懐柔を試みようとしてみたりした。

 ここまで必死な姿の霊夢は未だかつて誰も見たことがない。だが、それでも早苗の拘束が外れることは決してなかった。

 

 身体能力的に両者は互角――いやむしろ、体術に秀でている霊夢にやや分があると言っても良く、とどのつまり、単純な力比べにおいて霊夢が早苗より劣ることなどはまず有り得なかった。

 ただ――今宵の早苗は一味違っていた。霊夢に対する熱い思いでその力は通常の二倍、酒の力で脳の箍が外れたことによって更に二倍、そして、早苗を見守る二柱の神通力が加わって更に三倍と――そのような奇跡的な理論によって、早苗の力はいまや恐ろしいまでに膨れ上がっていた。故にこの引力と斥力がせめぎ合う力比べ勝負、順当にいけば、早苗の方へと軍配が上がるだろう。

 とは言え、このまま早苗の成すがままにされる気など霊夢には更々なかった。圧倒的な力量差を感じても尚、霊夢の瞳には抵抗の意思が灯っていた。その瞳は正に異変解決へと赴く時のそれと同じ。異変を解決する為に最も必要なものは決して諦めない心なのだ。諦めたらそこで試合終了である。

 そう。無様な敗北を積み重ねながらも、それでも尚、艱難辛苦を乗り越えて果敢に奮闘し続けた結果――二時間前に出直してきな!――と無下に吐き捨てられても絶望してはいけない、膝を折って泣いてはいけないのだ。エンディングまで泣くんじゃない。

 

 しかし、霊夢の必死な抵抗も空しく、事態はなんの変化もないまま、無為な時ばかりを刻んでいった。いや。変化は霊夢の知らぬところで確かにあった。

 先刻まで静観を決め込んでいた筈の人妖達が、いまではすっかりと観戦モードへと切り替わっている。博麗霊夢と東風谷早苗、このふたりによる力比べ勝負、果たして勝利を手にするのはどちらか?――狡猾な地上兎の因幡てゐが胴元を務め、ふと気付けば、神社の境内は賭博場へと変貌を遂げていた。

 

 この勝負、早苗の拘束を外せば霊夢の勝利。

 霊夢の心か背骨が折れた時点で早苗の勝利である。

 

 霊夢がんばれ!

 早苗がんばれ!

 がんばれ! がんばれ!

 皆はふたりに熱い声援を送りながら、『霊夢』『早苗』と書かれた紙片を固く握り締めていた。また、それとは別の意味で熱狂して、「いたいけな少女同士が密接に絡み合って戯れておる!」などと興奮気味に口走りながら、ふたりをカメラで激写する鴉天狗の姿も中にはあった。

 

 ところがそれから間もなくのことである。熱いパトスが迸ったシャッター音が激しく鳴り響く中、皆が酒をグイグイと煽りながら、ふたりの勝負の行く末を見守っていた、正にその時――突如として事態にある変化が訪れた。

 不意に早苗の肩がビクリと跳ね上がったのだ。

 

「れ……霊夢ざん……」

「ひぃぃぃっ! ごめんなさいごめんなさいごめんなさい! 私が何かしたのなら謝るから! それにもう絶対に意地悪なこともしないから! 下戸の早苗を面白がって、無理に酒を飲ませようとしないから! だからもう許して下さい! お願いしますぅぅぅっ!」

「霊夢ざんっ……! ううっ……わだじ……なんだかまた、ぎぼぢわるぐなっできまじた……うっぷ……吐きぞう……おええっ!」

「………………はい?」

 

 場を一瞬、凍ったように静まり返った。だが、次の瞬間には阿鼻叫喚の叫びがこだました。

 ふたりを取り囲んでいた人妖達は蜘蛛の子を散らすように方々へと逃げ惑った。

 血の気が引いて青ざめた顔をした霊夢は、早苗に拘束されたまま、声にならない悲鳴を上げて嫌々と激しくかぶりを振った。

 早苗は何度も嘔吐きながらその度に肩をびくりビクリと跳ね上がらせた。

 

 その光景は正しく壮絶であり、思わず、目を覆いたくなるほど凄惨なものであった。

 故にここは暫しの間、幻想郷でも随一のスリル満点な観光スポット、太陽の畑にて、悪戯好きな三妖精と風見幽香さんが仲良く鬼ごっこに興じる微笑ましい映像をお楽しみ頂きたい。

 

 

 

 ――暫くお待ち下さい。

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