母さんは呼びかけにも反応せず、すたすたと通路の奥へ進んでいってしまう。
「待って! 母さん!」
一向に振り返ってくれない母さんを、必死の思いで追いかける。
「母さん! 俺だよ……ユウだよ!」
だが後ろから肩を掴もうとしたとき、手がすり抜けてしまった。
幻……!?
ふと、我に返った瞬間だった。
そう言えば。母さんから気が一切感じられない。
じゃあ、これは……!?
戸惑うまま、目に浮かんだ涙を拭って母さんの横に回り込む。
こんなに近くに来ても、母さんは相変わらず俺に気付いた様子はない。
顔を覗き込むと、もう間違いなかった。
力強くて優しい目は、真っ直ぐに前を見据えている。
母さんだ。やっぱり母さんだ……!
胸が締め付けられそうになる。また涙が滲んできて、顔がよく見えない。
「ねえ、母さん……」
前に回り込んで、祈るように左手を伸ばす。
その場に押し留めようとしても、母さんは俺の身体をすり抜けてしまった。
ああ。やっぱりこれは幻なんだ……。
母さんは、やはりもういない。厳然たる事実を、再度突きつけられたようだった。
それでも――何の奇跡だろう。
またこうして姿を見られたことが、本当に嬉しくて。心を温かいものが満たしていく。
A.OZなる人物の仕業だろうか。他に思い当たる節はない。
見ず知らずの人物に、そうでなくても、これを起こした奇跡に。
俺は心から感謝したい思いだった。
『母さんだね』
『うん……』
「私」も胸が一杯で、言葉が出て来ない様子だ。
声をかけても反応がないことはよくわかったので、せめてもと横並びで歩く。
よく見ると、俺の知っている母さんよりも少し若いように思えた。もう大人には違いないだろうけど、ちょうど今の俺と似たような歳の感じがする。
母さんの幻は、通路の途中にある部屋のドアをすり抜けていった。
ドアに付いたプレートには、第一研究室と書かれている。
もちろんすぐに追いかけて、俺も部屋の中へ入った。
『よ。久しぶり』
母さんの幻が、そこで初めて声を発した。
懐かしい声。温かくて透き通るような声だ。
呼びかけられて振り返ったのは、白衣を着た黒髪の若い男だった。
彼は資料が並んだ研究デスクに座っていた。
若干面長の顔つきは穏やかで、優男のような印象を受ける。ぼさぼさの髪には寝癖が付いたままで、薄く無精ひげが生えていた。
母さんから聞いていただらしない特徴から、きっとルイス・バジェットなる人物だろうと判断する。
ならこれは、過去の光景が現れているのか……?
男は、ぱっと顔を明るくして立ち上がった。
『やあ! 久しぶりだな! ユナ!』
男は母さんに歩み寄って来る。
母さんは辺りの物が散らかった様子を見回して、小さく嘆息した。
『あんたも相変わらずねえ。ちゃんと物食ってる?』
『三食とも冷食完備だ。問題ない』
『だろうと思った。どれ。今日くらい私が少し腕を振るってやろうか?』
『いや。遠慮しときます』
即答だった。
はは。母さんの料理は恐ろしくまずいことで有名だからな。
なんだか、すべてが懐かしく思えてくる。
『ルイス。人の親切は素直に受け取っとくもんだぞ』
『いやあ、実はついさっき食べたばかりでさ! すまないね!』
『そうか? ならいいんだけど』
『それで。今日はどんな用件でこんなところまで?』
母さんの目つきが、すっと真剣なものに変わる。
『今日来たのは、あれからちょっと様子が気になってるついでだ。あの内乱以来、どうもきな臭い空気が漂ってるみたいね』
『ああ。この世界は問題が山積みさ。人々も活気がなくて……どうしようもない閉塞感で満ちている』
『そうねえ。何とかしてやりたいけど……こればっかりは魔法のような解決策ってないからね。それに、よそ者の私がでかい顔で口を挟むような問題でもないだろうしさ』
母さんが仕方なさそうに肩を竦めた。ルイスも頷く。
『この世界のことは、この世界の人間で解決しなくちゃね。どうしようもない危機から救ってくれただけでも感謝してるよ』
『礼なら今度レンクスに言ってやりなよ。あいつの力がなきゃどうしようもなかったし。まあ頼りにしてばっかりってのも癪だから、私も少しは力になったけど』
『二人の力のおかげさ。そう言えば、レンクスは来ていないんだな』
『あいつは流れ者だからな。またどこかでだらしない生活でも送ってんじゃないの?』
母さんが楽しそうに笑うのにつられて、ルイスも笑った。
二人とも、本当に仲が良さそうだ。こんな風な付き合いをしてたんだな。
『あんたも人のこと笑えないけどな。少しは身体に気を付けなよ』
『はは。肝に銘じておく』
そのとき、後ろからリルナの声がかかった。
「どうした? ユウ」
俺は無言で前を指差した。
すぐに俺の隣までやって来た彼女にもきちんと見えているのか、目を見張った。
「俺の母さんとね。君の製作者のルイスって人の幻。たぶん昔あったことが、そのまま再生されてるんだと思う」
「どういうわけだ」
「さあ。わからないけど」
俺とリルナは立ち尽くしたまま、二人のやり取りを見つめる。
「お前の母親、女のお前にそっくりだな。お前にも目が似ている」
「そりゃ親子だからね。俺たちが似たんだよ」
『にしても、こんな辺鄙な所にデンと立派なもの建てちゃって。来るの面倒だったじゃん』
『はは。悪いね。しばらくは研究に専念できる環境が欲しくて』
『まあ世間嫌いのあんたらしいっちゃあんたらしいけど。たまには外で日を浴びないと身体壊すわよ~』
『うっ。さっきから耳が痛いな』
『私にあんまり心配させるなっつうの――で、そこまでして。何を造っているのかしら』
母さんが目を細めて鋭く指摘すると、ルイスは頭の後ろに手を当ててまいったなと笑う。
彼は観念したように答えた。
『ナトゥラ。人の心を持つ家庭用ロボットだよ』
ナトゥラ。やっぱり彼が設計者なんだな。
彼は本来、家庭用ロボットとしての用途を企図していた。歴史文書の記述にも合う。
『ふーん。ロボットねえ』
彼は研究机に母さんを招き寄せて、そこに図面を広げてみせた。
俺たちも幻の二人に近寄って、その図面を横から眺めさせてもらった。
ナトゥラの設計図のようだ。
「わたしに似ている……」
リルナがぽつりとそう呟く。
確かに図面には、彼女によく似た女性の姿が描かれていた。プロトタイプといったところだろうか。
『少子化の問題が、これで少しでもマシになればと。そう思っているよ』
『随分ご立派なことを考えるものね。ロボットに何ができるのって思っちゃうけど』
『そうなんだよなー』
難色を示した母さんにルイスが同意を示して、困った笑いを浮かべた。
『一体どうやったらロボットに人の心が備わるのか。ただのプログラムが、果たしてどこから心を持ったと言えるのか。中々に難しい問題だよ』
そう言うと、彼は人前にも関わらず顎に手を当てて、深刻な顔で考え込み始めてしまった。
そんな彼を母さんは少しの間黙って眺めていたが、見かねたのだろう。
彼の肩にぽんと手を置いて、にこっと得意な微笑みを浮かべた。
母さんが人を慰めるときによくやる手だった。小さかった俺も、それで何度も慰められたことがある。
『難しく考えるのね。そんなの、案外単純なもんよ』
『そうかな』
『愛が持てるなら、それは心があるってことでいいんじゃない?』
『――へえ。意外とロマンチストなんだね。君って』
『あら。私がそうだと悪いって言うの?』
『いやいや。そんなことはないさ』
今度は愛が何なのかって考えると、キリがないような気もするけれど。
とにかくルイスは、それで悩みが吹っ切れたようだった。明るい顔で意気込む。
『よし。今度自立学習機能を付けてみよう。人の愛を学べるようにね』
『ま、無理しない程度に頑張りなよ』
『ああ。それと、君にはいつかちゃんとお礼がしたい。またぜひ来てくれよ』
『考えとくわ。私も最近忙しいからね』
そこで、二人の幻がしゅんと消え去ってしまった。
と思ったら、次の瞬間には、ルイス一人だけが同じ部屋の違う場所に現れた。
どうやら場面が切り替わったらしい。
彼は研究机からは離れて、広めのスペースの方で何かをしている。
そこには彼の他に、もう一つ立っている者があった。
その姿をはっきりと捉えたとき、俺ははっとなった。
「わたしだ……わたしがいるぞ……!」
リルナが、驚いた声を上げる。
そしてまたそこに、母さんが現れた――今度は、お腹を膨らませた姿で。