シルに連れられてやってきたところは、何ということはないただの丘であった。
視界が悪いわけでもない。変な草が生えているわけでもない。青々としたのどかな光景がどこまでも広がっている。
俺は正直な雑感を隣のシルに告げた。
「何の変哲もない丘だよね。危ない生き物がいる気配もない。この前の洞窟や砂漠の方がよほど苦労しそうなもんだけど」
「そうなんだけどね。脱力感が半端じゃないの。向こうに行くにつれて、私でも歩いてるだけで辛くなってきて」
「君でもそうなるのか? 洞窟では飛び跳ねたりくらいはしてたじゃないか」
「ええ。ランドはもっと。まともに走ることすらできなくなってしまった」
歩きながら、シルはじっとりと汗ばんで、肩で息をしている。
そんなにこの場所にいるのが辛いのだろうか。
一方で平気にしている俺を見つめ上げて、彼女は不思議なものを見るような目で言った。
「やっぱりあなたは辛くないんだ」
「今のところは平気みたいだ」
「ふーん。不思議な人」
ぷいと顔を背けて、しばらく無言が続いた。
何か小難しい顔をしているところを見ると、考え事をしているようだった。
やがて、彼女は俯いたまま喋り出した。
「パワーレスエリアがあまりにきついせいで、仲間たちは次々と脱落していって。誰もいなくなってしまった。ジムも今は別の仲間と共にこれまで見つけた有用地の開拓の方に力を入れている」
あの人が好さそうなおじさんは、他のグループに付いて今は安定を取ったわけか。
寂しい気もするけれど、これも一つの選択だろう。
夢を追うことと、現実と折り合いを付けること。どちらも間違っているわけではない。
「ここまで意地でやって来たのは、私たち二人だけ。もちろんあなたの助けあってのことだから、そこは本当に感謝してる」
「どういたしまして。まあ依頼でやってることだから」
軽く言ったつもりだったが、シルは殊の外思い詰めた様子で尋ねてきた。
「……ねえ。あなたはなぜ私たちにここまで力を尽くしてくれるの? 報酬だって特別高く出してるわけでもないのに」
「それは」
「本来だったら、あなたが。あなたさえその気になれば、私たちなんてとっくに追い抜いていてもおかしくない。世界の果てだって、どこへだって行けるはず。その力なら」
彼女は振り向き、俺に力強く指を突き付けて。
でもそれは少しのことで。
指先は所在なく迷い、また微妙に俯いていた。
「正直ね。私はあなたが羨ましい。あなたは強いわ。本当に、悔しくなるくらい強い。私たちの力だけじゃ、ここまでは来られなかった」
強い、か。
あの日弱かった俺は、がむしゃらに強さを追い求めてここまで来た。
弱い自分を呪って、絶え間ない修練と幾多の死闘に身を置いて力を磨いてきた。
気が付けばいつの間にか、自分がそう言われる側になっていたということなのかな。
……皮肉だよな。
俺も同じ気持ちなんだ。まだ足りない。
フェバルというあまりに高い壁がいる。どう足掻いたって敵わない連中が。
奴らの気まぐれに世界の存亡を委ねないためには。ダメなんだ。今のままでは。
上には上がいて。そいつらを目標にしてずっとやってきたから、実感がなかった。
言われて気付いたよ。
この世界の人たちからすれば、俺やレオンがフェバルのようなものなのかもしれない。
とても敵わなくて、羨ましがられるような存在。
まあ俺も一応はフェバルなんだけど、そこは置いておいて。
「言ったことなかったっけ。俺が行きたいわけじゃないんだ。どんなところか気にはなっているけど」
黙って俺の話を聞く彼女に、続けた。
「俺はね。君たちの夢を応援したいんだよ」
「私たちの夢を? それはどこまで本気で言ってるの?」
「本気も本気さ。……俺にも夢があった」
「……どんな夢?」
じっと食い入るシル。
覗き以外でこんなに食いつきの良い彼女は初めてだった。
「普通に恋愛して、普通に結婚して、普通に子供作ってさ。両親も友達も祝福してくれて。子供も元気に育って、孫もできて。そして家族に看取られながら、普通に死んでいくんだ」
「…………」
「なんてことはない夢だろう。でも俺は、そういう暮らしがしたいと思っていたんだ。憧れていた」
睨むように話を聞いていたシルは、あっけにとられたような表情で目を瞬かせた。
思っていたものと、俺の答えが随分違ったのかもしれない。
彼女には俺がどういう風に見えていたのだろうか。
「もう叶うことはない夢だけどね。下らないと思うか?」
「いいえ!」
やけに通る声で返ってきた。
まるで自分に言い聞かせるかのように、強く。
「そんなことないと思う。素敵な夢だと思うわ。私も普通を望んでいた……」
「君が? 意外だね。だったら、フェルノートででも暮らせば――」
「はっ! いや違うの! あれ。えっ私、どうしてそんなことを……。ごめん今のは忘れて」
困惑した様子が妙だが。誰しも思わぬことをつい口走ることはある。
本人が冒険を楽しんでいるのは間違いないし、とりあえずそこは頷いてスルーすることにした。
「真っ直ぐに夢を追えることは、追う夢のあることは、とても素敵なことだと思うんだ。尊いことだと思う。世界の果てを目指すと意気込む君たちの顔。誰よりも真剣に、そして楽しそうに夢を追う君たちの顔。俺には、そっちの方が見ていて眩しいよ」
彼女は息を呑んだ。手は胸に小さく添えられている。
心なしか、瞳が潤んでいるような気がした。
「だから、俺じゃない。主役は君たちだ。君たちに夢の果てを掴んで欲しいんだ」
「あ、ああ……」
彼女はくらくらとよろめいて、頭を抱えた。
少しの間そうしていたが、ぶんぶんと首を横に振って、もういつもの彼女に戻っていた。
「そう。わかった。よーくわかったわ。あなた、マジになり過ぎって人によく言われたりしない?」
「はは。真面目だとか馬鹿だとかはたまに言われるかな。どう? 返答はご満足頂けた?」
「ええ。大満足よ。このお人好しめっ!」
なぜかきつめのチョップを食らったが、思い切り照れ隠しだった。
***
「おかしいな。とっくにランドとの合流地点の辺りのはずなんだけど」
シルは首を傾げていた。
これだけ視界も開けているのだから、彼の姿も見えていて当然のはずである。
よく目を凝らしてみると――。
「あっ、ランド!」
彼女が悲鳴にも似た声を上げた。
膝丈の近くまで伸びた草に隠れて、ランドがうつ伏せで倒れていたのだ!
驚いて、駆け寄る。
いち早くシルが彼の下へ辿り着いた。
「ランド! しっかりして! 何があったの!?」
彼女が彼を膝枕して呼びかけると、彼はうーんと小さくうなされ声を出した。
彼がうっすらと目を開ける。
よかった。とりあえずは無事のようだ。
「ん……ああ……シルか……」
「心配したでしょう。こんなところで何やってんの」
「なんか……急に眠くなって。寝てただけだ」
「もう。バカ。昼寝ならテント張ってやれ」
彼はペチンと頬を叩かれて、活を入れられていた。
傍から見ていると、完全に慣れた夫婦か何かだ。とてもお似合いだと思うんだけどな。
ぱちくりと何度も瞬きした彼は、弾かれたように起きた。
俺も笑って声をかける。
「よく寝られた?」
そこで初めて俺の存在に気付いたランドは、ばつの悪そうに笑顔を返した。
「ああ、ユウか。わりいな。寝坊助さんで」
「あんまりシルを心配させるんじゃないぞ」
「ほんとよ。いつもおバカでぼーっとしてるんだから」
「あははは。すまん」
それからランドも加わって、三人で先を目指し始めた。
二人が歩くのがきつそうなこと以外は、軽いハイキングのようなものだった。
一番余裕のある俺が彼らの歩幅に合わせ、念のため周囲に気を配りつつ、歩き続ける。
そのうちランドが、ぽつりと言った。
「さっきなんだけど。すげー変な夢見てた」
「どんな夢?」
シルが俺に尋ねた言葉と同じ言葉をランドに投げかける。今度は違う意味だ。
「知らないところだ。目の前に、知らない奴がいるんだよ。そいつさ。ものすげー退屈そうにしてんだ。つまんないところでさ。つまんないことばかりやってる。何かはわかんないけどよ」
「「へえ」」
「俺は声かけたんだよ。お前もこっちに来いよ、もっと楽しいこといっぱいあるぜ! ってな」
彼はにっと明るく笑った。
「そしたらそいつ、どうしたと思うよ」
「どうしたんだ」
「いやな。全然さっぱり聞いてくれなかったんだ。俺と目を合わせてもくれなかった」
今度は、彼はわかりやすく怒ったような顔をしている。
「ずっと退屈そうにしてんだぜ。なんだよ。つまんねえ奴だなって。ちっとも知らない奴なのに、妙にいらいらしてきちまってよ。掴みかかって目を合わせようとしたら」
「したら?」
「シルがいた」
「ああ。いいところで起きちゃったわけか」
「ちょっともったいなかったかもな。まあうちの女神さんに心配かけるよりかはいいか!」
「調子の良いこと言っても、あの失態はないからね」
「うっ。すまん」
「まあまあ。ランドも反省してるようだし。この環境にやられて力が入らなかったことも原因だろうし。ね」
「おっ。いいこと言うじゃないか。ユウさん!」
こいつはまた調子良く俺を持ち上げてくれるな。裏表のない性格は嫌いじゃないよ。
「はいはい。人食い生物がいなくて本当によかっ――」
――突然、妙な空気を感じた。
なんだ。このピリピリとした嫌な空気は。
前にも感じたことがある。不思議な緊張。
これは。まさか。
――上だ。何かある。
キッと見上げると――
頭上には、謎の黒い穴が空いていた。
どこへ通じているのかもわからない穴。
それも、この前の洞窟で生じていた針の穴のような大きさのものではない。
優にこの場の三人を飲み込んで余りあるほどだった。
嫌な胸騒ぎがした。
瞬きをする余裕もない。
穴はすぐにも周りの空気を吸い込み出した。まるでブラックホールじゃないか!
あれはやばい。逃げないと!
しかも致命的なことに、まだ二人は異変に気付いてすらいない!
「ランド! シル! ここから離れろ!」
声を張り上げると、突然のことに二人はびくっと身じろいだ。
その一瞬すらも今は惜しい!
「急げ! はやく!」
もう一度叫ぶと、俺は素早くバックステップを取り、穴から一旦距離を取って二人を注視した。
空間を裂く穴に気付き、二人も目を見開く。
ランドは情けない声を、シルは悲鳴を上げて。逃げようとした。
だが、そこで。
二人の膝ががくんと折れる。何が?
しまった。もしや動けなくなっているのか!? 二人とも!
穴はさらに拡がりを見せ、草を巻き上げて暗黒空間へと吸い込み始めた。
もはや数刻の猶予もない。
手荒いやり方だが! これで助けるしか!
俺は左手を突き出して、気力を高めた。
《気断掌》
……なに。発動しない!?
空気を弾き飛ばす手応えがない。
二人とも、元の位置のまま。倒れている。
いや。使えている! 確かに! 気は纏っている!
飛ばせるレベルにまで、達していないんだ!
――許容性が、下がっている!? さらにか!? なぜ。
混乱する思考。刻々と過ぎ行く時間。
穴はもう、二人の足元にまで迫っていた。
『ユウ!? どうしたの!?』
ユイの声。
遅い! 話す暇も!
「くっそおおおおお!」
《パストライヴ》!
二人をかばう位置にワープし、最後の猶予でもって二人を遠くへ放り投げる。
瞬間。
俺の身体は地面から浮き、離れて――視界を黒が塗り潰した。
「うわあああああああああああああああーーーーーーーーーーっ!」
「「ユウーーーーーーーっ!」」
二人が俺の名前を叫ぶ声が、どんどん遠ざかっていく。
為すすべもなく、俺は深い闇の中へと真っ逆さまに落ちていった――。