「よくわからない、か」
「楽しいと感じることもたくさんありますよ。今だって」
ワープイベントが終わる。彼は真剣な顔でゲーム画面に向き直った。
「ランド」と「シル」が飛んだ先は、俺がこの世界に辿り着く前に探検していた草原に瓜二つだった。
「でも……」
『ランド君。もう一度気合い入れていくよ!』
『おう!』
それきり、彼はしばらく黙ってプレイに集中した。
草原はまたラナソールのそれとまったく同じではないようだ。最も大きな違いと言えば、ゲームであるということか。
プレイヤーを飽きさせないために、敵が適当な間隔で湧いて出てくる。敵の魔獣たちは俺にとって見覚えのあるものだったが、そいつらを倒すとたまに宝箱が出て来る。
彼自身の浮かないトーンとは逆に、剣士キャラの「ランド」は、概ね魔法使いキャラの「シル」よりも前方で生き生きと立ち回っている。
画面の中の二人は、まるで本物のように見事な連携を決めていた。一々どうするかチャットを使わなくても、互いに必要な行動を選択するのだ。
「シル」が精霊魔法の詠唱を始めれば、「ランド」は自ら飛び込んで敵を引き付け、「彼女」の準備が整うと同時に飛び退く。
敵が弱ったところに、「彼」の魔法剣が突き刺さる。
実に鮮やか。ゲームとは言え、ここまで息を合わせるのは相当な熟練が必要だろう。
このゲーム、傍目からでも恐ろしく行動の自由度が高いのがよくわかるからね。
器用にプレイしながら、彼は画面から目を離さずにぽつりと言った。
「時々、何もかもがつまらなくて。何となくすべてが嫌になってしまうんです」
黙って聞いていると、彼から質問が投げかけられた。
「ユウさんは、そんなことってありませんか?」
「もちろんあるよ。人間だもん。特に気分が落ち込んだりしたときはね。もう今日は何もしたくないや、寝ようって」
「違うんです。そういうのじゃ、ないんです……」
肩を落として、キーボードをやや強めに叩き続けるリク。
そういうのじゃないか……。真剣に思い悩んでいるみたいだな。
でも、初対面の俺なんかにこんなことを話してくれたのは。それほど話しやすかったのだろうか。
まあどういうわけか、何かと相談されやすい方ではあるけれど。
――いや、もしかすると。
俺が彼の知らないところから来た人間だからなのかもしれない。
「そっか。じゃあ君が言いたいのは、もっと漠然としていて、心がどこか満たされないような」
探り探り、彼のニュアンスとすり合わせていく。
彼は否定しなかった。
「俺の冒険の話は、とても楽しそうに聞いていたね」
「ええ。好きですよ。そういうの、憧れます。まだ夢みたいですよ。本当にあなたみたいな人がいるなんて」
リクはこちらへ振り向いて俺の顔を窺う。
言葉通りに、何か特別なものを見るような熱い眼差しだった。
「あなたの話の中身を聞く限り、どこまで本当かわかりませんけど。でも。最低でも今日、僕はとんでもない奇跡を目の当たりにしたんだ。何もないところから人が出て来るなんて!」
興奮気味の彼は、チャット音に呼ばれて、またすごすごと画面に視線を戻した。
再び黙々とプレイを進める。
そうか。君の悩みの種類が、少しだけわかった気がする。
奥のPC画面では、「ランド」が格好良く火炎斬りを決めていた。
そんな「彼」を恨めしげに見つめて、彼が溜め息を吐く。
「ユウさん。どうして僕の現実は、ゲームのようにいかないんでしょうね」
「ゲームのように単純じゃないからさ。決して格好良いことばかりじゃないし、わかりやすいことばかりじゃない」
むしろ逆のことが多い。
泥臭いことの積み重ねで。わからないことだらけで。
「そうですよね。もっとすっぱりしていて、こんな冒険に満ちていればいいのに」
なるほど。リクは変わり映えのない日常に飽き飽きしてしまっているのだ。
もっとわかりやすい刺激のある生活を求めている。はっきりとそう感じた。
しかしそれは、物事の一面の見方に過ぎないと俺は思う。
ほんの少し視野を広げれば、世界はどこまでも広がっている。日常にだって、面白いことはいくらでも転がっているはずだ。
俺は諭すように、落ち着いた優しい声を心掛けて言った。
「確かに現実は混沌としていて、先が見えないよね。クエストが目の前に転がっているわけでもないし、世界の果てみたいなはっきりしたゴールもない」
「ええ。本当に」
「でもさ。だから、可能性に満ちていると思わないか。自分の手で生き方を決められるんだ。君にはね」
ゲームのキャラクターにはできないこと。彼らにはないもの。
もちろん何でもできるわけじゃない。誰しも生まれ持って与えられた領分はある。不幸にもそれが貧しい人はいる。
それでも。一度この世に生を受けたならば、その手には未来が握られている。
はずだ。可能な限り、そうでなくてはいけない。
多くの人たちがそうしてきたように。俺がそうしてきたように。
平和に暮らす君は、少なくとも自分の意志で歩くことができるんだ。
君がつまらないと思う場所から抜け出して、新しい世界へ飛び込んでいくことだって。君が望むなら。
「そんなこと、ないです。何の取り柄もない凡人の僕なんて……やれることは知れてる。とっくに先が見えてる」
苦々しく顔をしかめるリク。
自信のなさもあるのだろう。彼の退屈は、中々に根が深いように思われた。
「僕は、どうも毎日が単調なものに思えてしまって。刺激が足りないんです。この日常がつまらないと、そう思ってしまうときがあるんです」
リクはこちらへ挑むような視線を向けて、続ける。
「でもユウさんは、そんな風には思ってないみたいだ。ユウさんは、さぞかし素晴らしい非日常を送ってきたんでしょうね」
明らかな恨み言を吐いていた。
俺はやんわりと首を横に振る。
「リク。そうじゃないよ。違うんだ。つまらない日常も、素晴らしい非日常なんてものもないんだよ」
「嘘だ。だったらどうしてそんなに」
すべては。
俺は自分の胸を指す。
たとえ直面する事実が同じだとしても。想いが何かをもたらしてきたことを知っているから。
自然と言葉が強まった。
「すべては、ここ次第だ。心のあり方一つだよ。どう向き合うかなんだ」
「そんな……綺麗事を言わないで下さいっ!」
突然、リクは息巻いて立ち上がった。
キャスター付きの椅子が激しく音を立てて滑り、PCデスクにぶつかる。
「きっと普通じゃない毎日を生きてきたユウさんには、僕みたいな人の気持ちなんてわからないんですよ!」
「……っ!」
彼の怒鳴り声が、険しく部屋に反響した。
彼は大きく肩で息をしながら、キッと俺を睨み付けている。
よほどたまりかねることだったのか。逆鱗に触れてしまったのか。
おそらく。裏切ってしまったのだろう。
俺という降って現れた「ファンタジーの存在」に、期待していた理想的な答えを。
ここではないどこかに、ゲームのごとき理想の世界があることを。
ラナソールがそうだと言えば、そうなのかもしれないが。
あそこは楽しいばかりのように見えて、そうではない。
力のない者には肩身の狭い世界だ。誰もが夢見る冒険者になれるわけではない。
けど……まいったな。
そう言われると、さすがに少し応えるよ。
まだ気持ちだけは、普通のつもりでいたんだけど。
わかっている。俺は客観的に見れば、随分普通じゃない人生を歩んできてしまった。
かつて望んでいた位置とは、もはや対極の位置にいる。
皮肉だよな。
かつて普通を望んでいた俺がここにいて、特別を望む君がここにいて。
なのに、まるで逆の立場。
……そうだな。
こんな俺が言い聞かせてもわかるようなことではなかった。かえって反発させてしまった。
我ながら、随分説教臭いことを言ってしまったと思う。反省しよう。
「……そうだね。そうかもしれない。君の気持ちも考えずに、無神経なことを言った。ごめんなさい」
「…………いえ。僕こそ、つい叫んでしまって。別にここまで言うつもりじゃ、なかったんですけど……すみません」
ピコッ。
無神経なチャット音がしんとした部屋に響く。
『ランド君。今日はぼーっとすることが多いね。ながらプレイは判断を鈍らせるわよ』
リクは「はあ」と大きな溜め息を吐いて、投げやりな手つきでどうにかタイプする。
『すみませんが、今日はこれで上がらせてもらえませんか』
『え、どうしたの? 急用でもできた?』
『どうもまだPCの調子が悪くて。ごめんなさい』
『そう……。悩み事があるんだったら、クエスト中断してじっくり聞くけど?』
彼はわかりやすくぎくりとした。
『ありがとう。大丈夫です。また今度でお願いします』
『ふうん。そうなの? わかった。また今度も一緒に遊びましょうね』
『はい。また今度!』
ログアウトして振り返った彼は、苦笑いしていた。
「シルヴィアさん、時々画面の向こうとは思えないほど鋭いんですよ」
「エスパーみたいだったね」
共通点があったか。
シルの鋭さも、ある分野にかけては変態レベルだからな。
「シル」のことでわずかに緊張は解消されたものの、俺たちは気まずくてしばらく黙り込んだ。
やがて沈黙を解いたのは、リクの方からだった。
「そう言えば、ユウさんはこれからどうするつもりなんですか?」
「これからか。正直、どうしようかなと迷っているところなんだ」
トレヴァークを調査するとは意気込んでみたものの。まるで雲を掴むような話なんだよな。
何がどこまでわかればわかったことになるのかわからないし。わかったから何だって話でもあるし。
まあ世界にわからない謎があるならば、それを調べること自体が一つ旅の醍醐味ではあるけれども。
差し迫った事情があるわけでもなし。気負わずに行こう。
とりあえず手近な場所からいってみるか。
するとリクは、妙に思い詰めた顔で頭を下げた。
「だったら、お願いします。少しでいいんです。僕もユウさんの事情に関わることはできませんか?」
「別に嫌とは言わないけど。どうして関わりたいと思うんだ。君には一切関係のないことじゃないか」
「えーと。それは……僕自身の意志ですよ。ユウさん言ったじゃないですか。自分の手で生き方を選ぶことができるって」
「なるほど……」
「正直わかりませんけど……。ユウさんに付き合ってみることで、また見えてくる世界もあるのかなって思ったんです。ダメでしょうか?」
「そっか……。わかった。いいよ。言ったことには責任を持とうじゃないか」
リクはぱっと顔を明るくした。
せっかくの非日常への切符がどこかに消えてしまわないと信じられて、ようやく安心したのだろう。
「じゃあ、そうだね。とりあえず、今――君にぜひとも協力してもらいたい、非常に差し迫った極めて重大な案件がある。聞きたい?」
「はい!」
彼は馬鹿真面目に返事をした。神妙な面持ちで、ごくりと息を呑む。
俺はまだ微妙に残っているお通夜のような空気を変えたくて、わざとおどけて言ってみた。
「リクさん。俺の身元を預かって下さいませんでしょうか?」
「へ?」
この日見た中で一番の間抜け顔で、彼はぽかんと口を開けた。
そうだよ。よく考えたらやばいんだよ。
このままじゃ