二階の自分の部屋まで上がる途中、ずっと隣でユイが肩を支えてくれていた。
支えてもらわなければ、まともに歩くことさえできやしない。情けないと思う余裕もなかった。
どうしてしまったのだろうか。俺は。
気が付いたら、あんなことを……。
なんで。どうして。急に。
まだ、手が震えている。
わからない。自分がわからない。
何の前触れもなく自分を見失うなんて。こんなことは今までなかった。
心の底から自分を怖いと思った。
ヴィッターヴァイツ。
そいつの名前を聞いてからだ。
今もこうして思い浮かべただけで、なぜだか無性に心の奥がざわついて仕方がない。
滅茶苦茶にぶん殴ってやりたいとさえ思う。
なぜ。そんな奴は見たことも聞いたこともない。
知らなかったはずなのに……知っているような。
とても嫌な思い出があったような。
わからない。どうしてこうも落ち着かない気分なのか。
いつの間にか部屋に着いていた。
ドアを開けて、おぼつかない足取りでベッドまで歩き、深く腰掛ける。
ユイも肌が触れるほど近くに腰掛けて、俺のことを心配な顔で見つめてくる。
白い手が伸びてきて、優しく頭を撫でられた。
向けられた愛情を跳ね除けるほど、強情な自分ではなかった。そんな人間ならユウをやっていない。
人目には情けないのかもしれないけれど、素直に身を預ける。
ユイはどこか安心した顔で、俺を胸元に抱き寄せてくれた。
正直に頼ってくれたのが嬉しかったのかもしれない。
そのまま包みこまれて、慰めてもらった。
人の温かさは何より素敵な魔法のようだ。
彼女に抱かれて撫でられていると、深く沈んでいた気分が段々と落ち着いてきた。いくらか物を考える余裕が出てきた。
かっとなってユイに「ほっといてくれ!」と叫ばなくてよかった。
そんなことを言い放っていたら、今頃ひどく後悔していただろう。
いつまでそうしていただろうか。ようやく何か話せそうな気がして。
顔を上げると、こちらに温かい眼差しを向けていたユイが、ん、と小さく首を傾げた。
「俺、どうしちゃったのかな。自分がわからない。怖いんだ」
「うん。わからないよね。怖いよね。大丈夫だよ。私がいるから」
ユイは健気にも、優しい声色を作ってまで、俺を少しでも安心させようとしてくれている。
さすがに反省した。
この期に及んで、俺は何をやっているんだろう。
ただ怖がって。余計に不安を与えるだけで。
子供が駄々をこねて、母親に泣きついているようだ。甘えるにしたって甘え方があるだろう。
一番怖かったのは俺じゃない。
あんなことをしでかした俺を見てしまった、君たちじゃないか。
俺は身体を起こした。
彼女と同じ目線で、彼女の目をよく見て、まず謝った。
「ごめん。君の方が怖かったはずだよな。怖がらせたな」
「ううん。いいの。ユウのせいじゃないよ。あなたの中の黒い力が悪さをしただけだよ」
「黒い力?」
さっぱり心当たりがなかった。
少し迷ったようだったが、ユイはきちんと話してくれた。
レンクスから聞いたこと。ウィルが言ってた力の話。
なんてことだ。俺の中にそんな化け物が眠っていたとは!
「俺に、そんな力が眠っていたのか……?」
「うん……。言ったら怖くなるだろうと思ったから、言わなかったの」
ユウ、楽しそうにしてたから。いつまでも楽しんでいてもらいたいって。
そう語るユイはずっと泣きそうだった。
「でも、こんなことになるなんてわかっていたら。相談すればよかったね」
言われてみて。しっかりと『心の世界』の奥深くに意識を向けて見れば。
確かに「そこ」にあった。
すべてを塗り込める闇。圧倒的な力の気配。
触れてはならないと直ちに感じさせる黒。
間抜けだった。馬鹿だ。
俺がゲームや何やら無邪気に楽しんでいた間、君は一人でこんな恐ろしいものに立ち向かっていたのか。
パートナーとして、情けない。申し訳ない。
でも君がどんな思いで隠し通そうとしてくれたのか、よくわかっているから。
だから俺は、このことについては、謝るより先に感謝するべきだろうと思った。
「いや、ありがとう。俺のために気を使ってくれて」
でも水臭いじゃないか、と続ける。
「君と俺は、二人で一つなんだから。何だって相談してくれよ」
「ふふ。そうだったね。余計な気遣いだったかも」
やっとユイが笑ってくれた。
俺もやや無理にでも笑顔を返す。嫌な雰囲気が少し和らいだ気がした。
「今まで何もなかったのに、どうして今になってこんな恐ろしい力が出てきたんだろう」
「ごめんね。私のせいだよ。きっと、私があなたの中にいないから……」
わかりやすく顔を暗くして、俯くユイ。
むしろ謝るべきは俺の方だ。君はちっとも悪くないのに、重く責任を感じて落ち込むことはない。
たくさん慰めてもらったから、今度は俺が慰める番だった。
腕を伸ばして、ユイをしっかりと抱き締めた。
「君のせいじゃないさ。この世界の問題だよ」
なぜ俺とユイが分かれてしまっているのか。
ラナソール――夢想の世界という場所を理解するにつれて、何となく掴めてきた。
トレヴァークの人たちの夢想うことが、この世界では現実の現象として反映される。
逆にラナソールの人たちの言動が、トレヴァークの方にも影響してくる。
これは『心の世界』と現実世界の相互作用と性質がよく似ているのではないか。
夢想の世界は、『心の世界』にどこかそっくりなのだ。
そう考えると、俺とユイのことも説明が付く。
現実世界に肉体は一つしかないが、『心の世界』では、俺とユイは別個の精神と肉体を持つ人間として実在している。それと一緒だ。
本来現実世界には存在できないはずの彼女が、この世界では別個の実体として現れてしまっているのではないか。そんな気がする。
その辺りの考えを、せっかくなのでユイと共有してみた。
彼女もなるほどと頷いて、
「そっか。『心の世界』にいる状態に近い。だから私はユウの外にいると」
「そう。そしてこの世界と『心の世界』の性質が近いから、俺と君はレンクスたちみたいに能力を失うことなく、普通に使えているのかも」
「親和性が特別に高い、というわけね」
仮に『フェバル能力許容性』なる概念を設定したとすると、【神の器】だけやたら高くて、他の能力が著しく低い状態なのだろう。
あるいは――ウィルの言っていたように。
ポテンシャルだけは無駄に高い能力なので、この世界で能力使用を拒絶する「何か」に邪魔をされても、無理やり使用できてしまうのかもしれない。
どちらかはわからないが。ともかく、俺たちだけは能力を使える。
便利だと思っていたが。その危うさも、今は身に染みて痛感している。
一体になっていたユイが外れた。そして、謎の黒い力が剥き出しになった。
いつ何がきっかけで爆発するかわからない。とんでもない爆弾を抱えてしまったわけだ。
正直、身が震えそうなほど怖い。自分が自分でなくなってしまうなんて。
だけど。その危険があるとわかっているならば、多少は気を付けようもあるだろう。
気を引き締めろ。心を強く持て。
能力に振り回さないように。俺が俺であるように。
そして、もしものときは――。
「ユイ。こんなこと頼むのは気が引けるんだけどさ」
「いいよ。何でも言って」
「俺も十分気を付ける。でももし俺がまたおかしくなりそうだったら。そのときは、みんなと協力して止めてくれないか。頼む」
「わかった。もちろんだよ。任せて」
ユイは頼もしく、胸をとんと叩いてくれた。
本当にありがとう。
そしてすまない。迷惑をかける。俺が不甲斐ないばかりに。
いつになれば、能力を使いこなせるようになれるだろうか。
いつかはと思うけれど。
……よし。気持ちを切り替えよう。
どんなに心配しても、今はこれ以上できることはない。
負の感情が溜まれば、かえってあの力を招き寄せてしまうかもしれない。
恐れてばかりいても仕方ない。楽しむんだ。これまでと変わらず。
もしものときは君たちがいる。
俺は、一人じゃないのだから。
俺の気持ちの変化に敏く気付いたユイは、ようやく一安心という顔で、にこっと微笑んだ。
「よかった。ユウ、元気出たみたいで」
「心配かけたね。付き添ってくれてありがとう。助かった」
「ううん。どういたしまして」
「どうしようか。みんなも心配してるだろうし。下降りようか?」
「や、わかってるけど。このままがいい。ゆっくり二人きりなんて、久々だもん」
ユイはさらにぎゅうっとしがみついてきて、一向に離れようとしなかった。
よほど俺がいなくて寂しかったらしい。
手の届かないところに行ってしまうのではないかと、怖くて仕方がなかったようだ。
俺もだ。寂しかったし、君と心が離れてしまうことが怖かった。
こんなことがあったから、余計にそう思う。
ユイがすぐそばにいることが、どれほど心強いことか。安心できることなのか。
俺とユイは、あることないこと、どんな他愛のないことでも、色々喋り合った。
離れ離れになっていた時間を埋め合わせるように。
こうして身体が分かれていても、ちゃんと繋がっている。そのことを改めて確かめ合った。
……普通の姉弟よりかは、親密なスキンシップだったかもしれない。