そう言えば、トウマに「もういい」と伝えておかないといけないな。
彼に連絡を入れてから、バイクを『心の世界』から取り出し、一路ドートリコル目指して北へと向かった。
向かう途中、西側に途方もなく大規模な穴を窺う状態が続いた。
グレートバリアウォールが世界で最も凸な地形だとするなら、あれは最も凹な地形だろう。まるで世界に開いた巨大な底なし穴だ。
実際はもちろん底があるけれど、真上から見たところで、深部まで光は届かないため、見通すことはできない。それほどに深い。
実にラナリア大陸全土の約十五分の一を占める、クレーター様の地形。
単に『爆心地』と名付けられたその場所は、およそ一万年以上前に成立したものであるらしい。実際のところ、何か爆発的なダメージによってできたということしかわかっていない。中規模の隕石が落下したからだという説が有力で、一部のオカルト好きには、超科学兵器が大地を抉り取った跡だとか何だとか言われている。
もっとも、ダイラー星系列の存在を知っている自分からすると、超科学兵器という線もあながちなくはないなと思えてしまう。もしやフェバル個人の仕業なのではとまで妄想が進む辺り、だいぶ毒されているのかもしれない。
実際、ラナソール世界の成立に超常的な何かが絡んでいるのだとすれば――あり得ない話ではないかもな。
しばらく眺めていると、数時間前に見た死のイメージ――どこまでも深い闇へ落ちて消えていく感覚が、不意に思い起こされた。
ぞっとした。かぶりを振って、穴から目を逸らす。
完全記憶能力は便利であるけれど、一度見たものはずっと鮮明な形のまま――忘れることができないというのは……厄介なものだ。
ドートリコルまでは半日の道程だった。途中で日が落ちて、街中いたるところに設置された電球が作り上げる柔らかい街明かりが、唯一、かの町への到着を教えてくれた。
ドートリコルは景観を大切にする町だと本には書いてあった。街明かり一つとっても、蛍光灯ではなくて伝統的な手法で製造された「ドートリコル式電球」を採用している。条例で定められているそうだ。
今は暗くてわからないけど、明日になれば、緑葺きの屋根に彩られた建物の数々が迎えてくれることだろう。
もちろんこの町にもエインアークスの人員は配置してある。『アセッド』の店員には明日から人探しをする旨を伝え、俺は仮眠室を借りてそこで寝泊りすることにした。
翌朝、日が明けてみれば、なるほど見事な緑屋根たちだった。これらもドートリコルの伝統的な手法に基づいて造られたもののようだ。
屋根だけでなく、壁も薄黄土色の温かみのある色合いがほとんどである。管理を徹底していて、どこを切り取っても素敵な一枚絵になりそうだった。
そんな景観を求めてか、目に付く観光客も多く、若い人もたくさんいる。露店には土産物が所狭しと並んでいる。時代に取り残されてしまった感のあるマハドラに比べると、別次元のように活気に満ちている。
街並みだけ見れば、いわゆる古き良きを連想させる味わいなのだけど。
大きな通りからより小さな通りへと切り込んでいくと、途端に違う一面を覗かせる。
建物こそ一緒だ。しかし……PC。家電。加工食品。
売られているものの急に現代チックなところを見せつけられて、舌を巻いた。
確かに、『世界の道』で結ばれるステイブルグラッドを始めとして、ミューエレザ、聖地ラナ=スティリアなどとも交易路で結ばれ、通商が盛んに行われている。
考えてみれば、旅行人にとっては観光地であっても、現地人にとっては暮らす場所であるわけで。
古くて新しい街。それがドートリコルを眺めてみた感想だった。
伝統と利便性のコントラストが面白い。何もなしに来たなら、存分に観光を満喫したいところだったけど……。
ただ今は、あまり楽しむ気分にはなれない。ずっとニザリーのことが心のしこりになっていた。
人探しを続けよう。
過疎化が進んでいるマハドラと比べて、ドートリコルは約三十倍もの人口がある。ヒジマ姓だけでも二千飛んで数百の人数はいて、真面目に探すと捜査は難航を極めそうだった。
でもここに「約六年前に引っ越しをした」という条件を一つ加えると、ほぼ可能性は絞られる。
そういうわけで、俺はほとんど真っ直ぐ目的地へと向かうことができた。
「ヒジマ商店」と書かれた看板を見つけた。店のラインナップには小物がずらり。こっちでも雑貨屋を営んでいるようだ。
営業中だった。店の中に入ると、人の良さそうな奥さんが応対してくれた。
「いらっしゃいませ。お探しのものは何でしょうか?」
「ちょっと。実は、買い物に来たわけではないんですけど」
「何か、ご用でしょうか」
「ニコというお名前の娘さんは、いらっしゃいませんでしたか」
ニコという名前を告げた途端、奥さんの、母親の顔が明らかに強張った。
「確かに……六年前に亡くなった娘です。どうしてあなたが?」
さあどう切り出そうか。下手なことを言うと警戒させてしまって、お話を伺えないからね。
騙すようで申し訳ないけど、ここは適当に話を作っておこう。
「ラナクリムってゲーム、ありますよね。ニコちゃんもやってたと思うんですけど」
「ああ……。うちで仕入れたものを一つ、与えてあげたわ」
おそらくやっているだろうと思った。
まず子供なら必ず一度はせがむゲームであり、雑貨屋ならばほとんど必ず置いてある。必然、与えることになるだろう。
そして、ラナクリムにキャラクターを登録している場合、キャラクター名が不自然でなければ、そのままラナソールにおける名前にもなる。ニザリーはそれっぽいと感じていた。
とっかかりはできたので、ここから攻める。
「俺もやってまして、ニコちゃんとはたまにパーティーを組んでたんです」
「一緒にお友達になって、遊んでいたと?」
「はい。それで、ニコちゃんには攻略とか色々助けてもらって、仲良くなって……本名と住んでる場所まで教えてもらったんです」
顔色を伺いながら、慎重に作り話を続ける。今のところ、疑う心の動きは感じられなかった。
「いつか遊びに行きたいねって話してて、でも遠いから中々行けなくて。そのうち、急にニコちゃんがゲームに現れなくなって、どうしたんだろうってずっと思ってたんです」
「まあ……。そうだったの」
「まさか亡くなっているなんて思わなくて……。最近、やっとマハドラに行けたんですけど」
「ええ」
「会うの楽しみだったんです。なのに、もうお店がなくなっていて。近くの人に聞いたら、ニコちゃんが死んじゃったって……。引っ越したって。悲しくて、もういてもたってもいられなくて、一生懸命探しました。一言、お悔やみと、お礼が言いたくて」
目を伏せる。ニザリーに関する真実を知ってショックを受けている本当の気持ちを、演技にも乗せていた。
だからなのか、彼女はすっかり信じ込んで、瞳を潤ませていた。
「そう……。坊や。わざわざこんなところまで訪ねてくれてありがとうね。大変だったでしょう?」
こくんと、控えめに頷く。
心情に働きかけたのが功を奏したのだろう。どうやってこの場所を知り得たのかまでは怪しんでいないようだった。
そして、このナリであることが役に立った。どう見ても子供にしか見えないからね。本当に騙すようで悪いけど。
「さあ、お上がりなさい。ニコに顔を見せてあげて下さい」
「はい。お邪魔します」
上へ上げてもらった。
リビングには、ニコの笑顔の写真が一枚かけられている。日本と違って遺影や墓はないけれど、この世界にも亡き人を偲ぶ習慣はあるのだ。
しばらく待っていると、わざわざお店を止めて来てくれたようだった。
「主人は仕入れに出かけていて、来られませんけど」
差し出されたお茶を丁重に頂きつつ、色々と話を伺った。
「どうして引っ越しを?」
「そうねえ。あの町にいると、色々と思い出してしまってね……」
どうしても気持ちが切り替えられなくて、辛かったということだった。
人の少ないマハドラでは店の収益が十分に確保できないという事情も重なり、心機一転。一度完全に店を畳み、ここへ引っ越してきたのだそうだ。
今はまたこちらで雑貨屋を開き直して、聞く限りではそこそこ繁盛していそうだ。
「坊やは、歳の割にしっかりした子ね」
「ありがとうございます」
「……もし、ニコが元気で生きていたら、あなたくらいになっていたでしょうね……」
母親は俺を見つめながら、亡き娘の成長した姿を想ったのか、切なげに目を細めていた。
「また一緒に遊びたかったです……」
「嬉しいわ。あの子も、こんなに大切に思ってくれる友達がいたのね」
胸が痛い。
そうじゃないんですと、本当はその娘の依頼で向こうの世界から来たんですと、正直に言ってしまいたくなる。
でもそれをしたところで、何の理解が得られるだろう。ただ首を傾げられて終わりではないか。
一つ、気付いてしまったことがある。
とても悲しい予測で……残念ながら可能性は高いと思う。
辛くて離れたとは言え、これほど娘を愛している母親だ。夢想の世界においても、捨ててしまったはずはないだろう。
しかしおそらく現実における死の瞬間、夢想の世界におけるニザリーは、家族との接続が途絶えた。
死の瞬間、多くの情報がきっと失われた。手を伸ばしても離れていく家族。輪郭がぼやけていて映らない顔。ニザリーの中に残る現実世界の記憶は、もうほとんどかすかで、儚い。
そして両親の中で、娘はもういないのだという認識になっているとしたら。
思い出すと辛いとも言っている。夢想の世界に、その心情までもが余計なことに反映されているとしたら。
現実世界の認識が変われば、夢想の世界にも影響を与える。これまで何度か見てきた。
――ニコの死をきっかけに、人物関係は再構築された。
ニザリーは「もういないはずの娘」なんだ。夢想の世界に独りぼっち、浮いてしまった存在なんだ。
両親からすれば、娘はもういないことになっている。もういないのだから、当然近くには置かないだろう。ニザリーの立場から矛盾のないように認識するなら、突然両親が蒸発したようになるしかない。
ラナソールの両者は、ほとんど赤の他人となっていて。だから今まで出会うことができなかったのではないか。
どんなに探しても。もういないものを探していたのだから。
だとしたら。これからも出会えない。形だけ出会っても、互いにそうだとわからない。
そんな……。なんてことだ。せめて向こうではと思っていたのに。
こんな夢のない結末なのか。俺は、何もしてあげられないのか……?
拳に力が入った。やるせなく空を振り下ろしていた。もし人の前でなければ、机を叩いていたかもしれない。
悔しい。無力だ。どうしようもなく。
それでも口は勝手に言葉を紡ぐ。どこかで無駄かもしれないと思っていても、何かできないかと頭は探し続けている。
「もしできるなら……娘さんに会いたいと、思いますか?」
「会いたいわ。もちろんよ。どれほど願ったことか」
母親はまたわずかに目を細めて、溜息をついた。
「でもね。亡くなってしまった命は戻らない。絶対にね。それは神様が決めた約束事なの」
俺はこのとき、どんな顔をしていたのだろう。彼女はむしろこちらを心配するように見つめて、優しい声で言った。
「坊やも、家族は大切にしてあげてね」
「そう、ですね……」
もっと大切にしてあげたかった。せめて俺が大きくなるまで生きていてくれたら、親孝行の一つもできただろうか。
長い時間が経っている。母親も、きっと俺も、とっくに心の整理は付いていて、大泣きなどはしないだろう。
しかし人前で、潤んだ瞳から涙の一滴が零れるのを辛うじて堪えていた。
家族も。友達も。
失ってしまった大切な命は、二度と戻らない。
時折人を偲ぶとき、色んな思い出が呼び起される。幸せだったこと、楽しいことももちろんたくさんある。良いことを思い出せば、懐かしく温かい気持ちになる。
でもやっぱり、特に不幸な別れ方をしてしまったからかな――大なり小なりの後悔が、同時にすうっと心にのしかかってくるんだ。
もう少し、何かできなかったかと思ってしまうんだ。
同じような人を見たとき、何かしてあげられないかと考えてしまうんだ。
今も。