――ここは。俺は、どうなったんだろう。
確か、ヴィッターヴァイツに思い切り蹴られて。ジルフさんが、助けに来て。それから。
うっすらと視界が開けた。景色に靄がかかって、ぼんやりとしている。誰かが顔を覗き込んでいる。
心配している。とても。
ユウ。ユウ。
しきりに自分を呼ぶ声が聞こえる。心の声と、呼びかける声が、同時に伝わってきて。
ようやく目の前の人物を、認識した。
「ユイ……」
「ユウ。ああ……気が付いた……よかったぁ……」
顔を綻ばせる。安心から、一緒に大粒の涙が溢れてきた。
「よかった……! よかったぁ……!」
胸元に縋りつかれて、わんわん泣かれてしまった。
後から後から、とめどなく温かい涙が沁みてくる。
そんなに心配されていたのかと嬉しくて、同時に、申し訳なくなった。
「ユウは、ユウだよね……? うん、ユウだ……」
「だい、じょうぶ……君のよく……知ってる、俺だよ。ちょっと……危なかった……けど」
君が必死で抑えてくれたおかげで、土俵際で踏み止まることができたよ。今は、あの恐ろしい力はまた遠ざかっている。
少し声を出すだけで辛かった。ひどく掠れていた。よほど手痛くやられたらしい。
「ばか。私たちから気を逸らそうと、一人であんな奴に啖呵なんて切って……ぐすっ……本当に死んじゃうかと思ったんだよ……?」
「ごめん。ああするしか、なくて」
「でもよかった。ユウが、ちゃんと帰ってきてくれて……」
泣き足りないのか、甘えてぎゅっとしがみついてくるので、あやそうと手を寄せかけて、
「っ!? いたたた……」
あまりの激痛に、顔をしかめた。
「しばらくは動かん方がいい」
やや離れたところから、穏やかな声がかかる。
温かい目でこちらを見つめるのは、ジルフさんだった。命の恩人だ。
それに少し見たら、全然ジルフさんだけじゃない。
ユイに立場を譲って、喜びと羨ましさ混じりで微妙な顔をしているミティ。ほっと一安心した顔をしているレオン。同じく肩の荷が下りたって顔をしているレンクスに、やれやれと首を振るエーナさん。さりげない位置でガッツポーズをしている受付のお姉さん。それから、ちらほらと冒険者や顧客仲間。
果ての荒野に出ているランドとシルヴィア以外のメンツだ。結構な大所帯だった。
こんなに来てくれたのか。
温かい気持ちになって、一緒に恥ずかしさが込み上げてくる。
ユイにとってみたら、恥も外聞も投げ捨てて、泣きついてしまうほどの事態だったわけで。
確かに、死ぬほど大変だったわけで……。
「ありがとう。みんな……心配かけた」
とりあえずは、それしか言えなかった。
みんなの無事な姿を見て。俺も安心して。また意識が遠くなってきた――。
次に目が覚めたときは、もう少し意識がはっきりしていた。
人の気配はもうほとんどなくなっていて。
ユイはいた。うつ伏せで俺に縋りついたまま、すやすやと安らかな寝息を立てている。
まだ、涙の痕が残ったままだった。
ひどく痛む腕を慎重に動かして、そっと黒髪を撫でる。起きなかった。
『ユイは寝かせてやってくれ』
レンクスもいた。小声で念話を飛ばしてくる。喉までやられている俺が喋りやすいようにとの配慮もあるのだろう。
『ずっと寝ずに看病してたんだ。お前、丸三日は気を失ってたんだぞ』
『そんなにか……』
『一部の内臓が破裂。体組織も滅茶苦茶にやられててな。ジルフと二人がかりでマジだった。あと少し治療が遅れてたら、くたばるところだったぜ』
『それは……ありがとう』
『いいさ。それと、礼ならエーナにも言っとけよ? あいつ、泥まみれになってまで沈んだお前を引っ張り出したんだからな』
『泥まみれ……?』
『ああ。運が良かったぜ。フォートアイランドの柔らかい土が、衝撃を殺した。お前を助けてくれたんだ』
そうか。一撃でフォートアイランドまでぶっ飛ばされて――景気良く飛んだおかげで、命拾いしたのか。
あとはラナソールであったことも。これがトレヴァークだったら、飛ぶまでもなく身体は木端微塵になっていただろう。
『まあ、フェバルは死んでも平気と言えば平気だが……この怪しい世界じゃ実際どうなるかわからねえし――何より、ユイが泣いちまうしな』
『そうだよな……。本当に助かった。ありがとう』
『だからいいってことよ。死ぬのはやっぱ、嫌なもんだ。なるべく味わわないに越したことはねえさ』
ひとまずは助かったことに、改めて安堵して。
落ち着いてみると、沸々と強い不安が、それから悔しさが込み上げてきた。
挨拶に来たと言っていた。結局話はほとんどせずに終わってしまったけれど。
奴の知りたがったこと、したかったことは何となくわかる。
俺の能力と、俺がどうやってトレヴァークにこのままで来られているのか。
そして――宣戦布告だ。
奴は、何か仕掛ける気でいる。ディスクで読み取れた内容から、示唆されること……。
世界を維持するために、あってはならないこと。
悪寒が走る。まさかと思う。そのまさかを簡単にやってのけるのが、ヴィッターヴァイツという男だ。
やられた傷を意識すると、ズキズキと痛んで仕方がなかった。
『まさか奴が、あんな大胆にやって来るとはな。もう少し慎重な奴だと思っていたぜ。読み違いだった』
『俺もだよ。まさか直接挨拶に来るなんて』
『できるだけ俺たちの誰かは店にいるように、穴を開けないようにしてたってのによ。きっちり監視されてたわけだ。ちくしょう』
静かに怒りを滲ませているのが、よく伝わってきた。こんなに俺のために怒ってくれる人が、何人もいるんだと。嬉しくて、やっぱり心配をかけたなと申し訳ない気持ちになる。
『あー失敗した。しっかりニートしとくんだったぜ』
にへらと笑って、軽口を叩く。いつもならユイの鋭い突っ込みが飛ぶところだけど、彼女は疲れて眠っている。俺としては、少しでも空気を軽くしようと思って言ってくれた彼の言葉がありがたかった。
『……なあ。レンクス』
『なんだ』
『少し、外の空気が吸いたい。連れてってくれないかな』
『……あまり、気分転換になるとは思えないけどな。ジルフと奴が戦ったせいで、今はとっちらかってるからよ』
『それも見ておきたいんだ』
『……よっしゃ。いいぜ』
ユイを起こさないように、そっと負ぶってもらった。
「いたた……」
『おい。何も無茶することはないんだからな』
『わかってるよ』
レンクスに背負われて、店の屋根に上がった。
外の空気に触れたとき、既に何かがおかしかった。
風の流れが……いつもと違う。やけに土っぽいような気もする。
そんな妙な風に吹かれて、黄昏れている背中を見つけた。どこか言いようもない物寂しさを感じさせるのは、フェバルが本質的に孤独な生き物だからだろうか。
「ジルフさん」
「おう。坊主か。もう大丈夫なんだな」
ジルフさんは、俺の姿を認めると、ふっと微笑んだ。
「はい。おかげ様で。助けて下さって、ありがとうございました」
「礼はいい。ただ俺がそうしたかっただけのことだし、イネアにも頼まれていることだしな」
ただそれきり、ジルフさんは黙ってしまった。
難しい顔だった。何か考え事をしているのは確かだけど。
「ヴィッターヴァイツと……戦ったんですか?」
「……ああ。戦った」
妙に悔しそうだ。返事もあまり気が入っていない。
街が無事ってことは、撃退できたってことなんだろう。十分誇らしいことだと思うけれど。何かあったのだろうか。
ふと、ジルフさんの遠く見つめる視線の、その先が気になった。
レンクスの肩を軽く叩いて、上空へと案内してもらう。
「やっぱり、気になるか」
「うん」
そして、見た。
――なんて……ことだ。
風が変わった原因は、これか!
クリスタルドラゴンの山は、真っ二つどころではない。影も形もなかった。
代わりに『爆心地』にも匹敵するほどの、巨大なクレーターができ上がっている。
これを――こんなとんでもないものを、ただ適当に戦っただけで、ついでに作ってしまったと……?
身が震える。
わかっていたはずなのに。
身近にいるはずの人間が、やっぱりフェバルで――誰よりも遠くに映ってしまう瞬間だった。
不意に脳裏を叩くのは、ヴィッターヴァイツの言葉だ。
圧倒的な力の差。本物のフェバルの力。
……見せつけられたよ。「また」。
知識として知ってはいた。ウィルに散々見せつけられて、嫌というほど味わってもいた。もしも対峙したときのことを念頭に置いて、入念な訓練もしてきた。
なのに、あらゆる心構えも対策も、何の役にも立たない。
レベルが違う。繰り返し叩きつけられる事実。
動きが見えなかった。何もできなかった。気が付いたら、死にかけていた。
ただ単純に、何の工夫もなく、正面から、乱暴に、力そのものを打ち込まれて……負けた。
ラナソールという異常に恵まれた環境で、唯一叶ったことと言えば。ほんの見せつけるつもりで放たれた一撃だけは、辛うじて耐えたこと。それだけだ。
あれだって、運が悪かったら、最初の一撃で殺すつもりだったら……死んでいた。
だって、あの光景こそが、本来の……。
――悔しい。悔しいよ。
理不尽だ。あんな奴、絶対に許したくはないのに。徹底的にぶちのめして、二度と悪さのできないようにしてやりたいのに。
眼前の光景が、容赦なく絶望を突き付ける。
あらゆる現実が、解なしを弾き出す。
やっぱり、勝てない。まともにやったのでは。人間のままでは。中途半端なフェバルのままでは。どうやっても。あんなものには。
「……悔しいか。坊主」
いつの間にか、ジルフさんが隣にいた。こちらへ憐れむような、同情的な目を向けて。
その憐れみが、まるで子供に向けるようなそれが、今だけは。
対等な立場じゃないと、所詮守られるべき立場なのだと突き放されているようで、余計に惨めさと悔しさが増すのだった。
別にそんなつもりで言っているのではないと、いつだかリクやシズハに食ってかかられたときのことを思い返して、嫌な気持ちは喉の奥で押し留める。
「はい……どうして、わかったんですか?」
「お前はわかりやすいからな。何度も修行を付けていれば、何を考えているかくらいすぐにわかるさ」
「俺もだ。もっとわかりやすいガキの頃からよく見てるからな」
無力感が立ち込めてくる。
これまで身に付けてきた力とは何だったんだろうと、差をまざまざと見せつけられてしまうと、どうしても感じてしまう。
きっと老婆心からなんだろうけど、追い打ちをかけるように、ジルフさんが重々しい口調で言った。
「ユウよ。辛いかもしれんが、よく目に刻んでおけ。お前が行く先々で世界に立ち向かうなら、これからきっと何度も遭遇することになる。あれが――フェバルの力だ」
「あれが……フェバルの力……」
あの馬鹿げた力を前にして、俺には何ができるというのか。今までの備えでは足りない。これからも足りるようになるとは思えない。とても。
……はは。
リク。シズハ。ハル。ミチオ。
ランド。シルヴィア。レオン。ミティ。
この二つの世界の、たくさんの人たち。
今、みんなを引き合いに出して、少しだけ弱音を吐く自分を許してくれ。
君たちは、どこか一線を引いて、俺を特別扱いしてきてくれた部分もあったように思う。
でも、一緒なんだ。何も違わない。
俺も無力だ。今だって、こんなに悩んでいるんだ。怖いんだ。悔しいんだ。
俺は弱い。完全無欠の、理想のヒーローなんかじゃない。
ただ何とかならないかと、絶望的な現実を突き付けられても足掻いているだけの、小さな人間だ。
本質的なところは、何も変わっちゃいないんだよ。
――だけど。
――何かできないのか。何か。備え。
…………。
「……ジルフさん。お願いがあるんです。レンクスにも」
俺は、二人にある頼みをした。
二人にも、起きたユイにもかなり怒られたけど、最終的にはやってもらった。
――だけど、それでも俺は何とかしたいと思うから。
もう二年過ごした。とっくに大好きな世界なんだ。夢想病のこととかはあったけれど……こんなに何も考えずに、ユイと楽しく馬鹿をやれた世界はなかった。本当に、楽しい世界なんだ。
みんながラナソールの下らない日常を、馬鹿みたいなことをやって、下らなく笑って過ごせるように。そして、ちゃんと現実と繋がって、トレヴァークの明日が、夢で少しでも明るくなるように。
できるだけのことはしたいと思うんだ。
ヴィッターヴァイツ。フェバル。超越者。お前たちの理不尽には、どうしても負けたくないんだよ。