「おい! ユイ! しっかりしろ! おい!」
倒れたユイを抱えて、レンクスが悲痛な叫びを上げる。
死んでも生き返るというのは、あくまでフェバル当人に限った話。
ユイは、正確にはフェバルであって、フェバルではない。
ユウの能力によって生まれた一人格が、ラナソールという特殊な環境で肉体を成したものでしかないのだ。
下手に分かれてしまっている分、どうなってしまうのかわからない。最悪、死ねばそのまま消えてしまう恐れもあった。
だからレンクスは、気が気でなかった。
藁をも縋る思いで【反逆】をかけてみるも、まったく通らない。唯一彼女を治せる可能性を持つ能力に対しては、ウィルは攻撃の瞬間、【干渉】によって強固な抵抗をかけていたのだ。
「ちくしょう! なんでだよ……! ユイ! 頼むよ……。目を覚ましてくれよ!」
敵であるウィルに目もくれず、ほとんど泣きそうな顔で、ひたすら自身の気力を分け与える必死の延命行為に縋る。
何もできないエーナは、様子のおかしくなったユウと、みるみる血の気を失っていくユイと、交互に視線を迷わせて、狼狽していた。
ジルフもまた、自身の気による治療で手を尽くす。だが黙って首を横に振りたくなるほど、彼女はひどい状態だった。
ウィルの貫き手は、肺の一部ごと、正確にユイの心臓を失わせていた。
血の一切が巡らず、呼吸すらもできない。
明らかな致命傷だ。普通に考えて、助かりようがなかった。
ユイには、既に血を吐く力もなかった。レンクスの腕の中で、次第に冷たくなっていく。
「やめろ……! おい、嘘だろ……。やめてくれ! 俺は、また……!」
失ってしまうのか?
ユエル。ユナに続いて、ユイまでも。
***
着実に遠ざかっていく生の感覚、薄れゆく意識の中で、ユイは一筋の涙を流しながら、もう動かない身体を最期まで動かそうと、ユウに向かって手を伸ばそうとしていた。
『ユウ……いか、ないで……』
***
だが、祈りは届かない。
元々、危険なレベルで精神が不安定になっていた。そこにユイという抑えがいなくなってしまったことで、黒い力は瞬く間に『心の世界』を呑み込んでいった。
既にユウは、本来の性格を失っていた。
通常気というものが持つ白に代わり、黒で塗り潰されたオーラが、彼の身体から溢れ出す。
それはちょうど、ウィルの纏っているものとまったく瓜二つで――。向かい立つ様は、さながら鏡合わせのようでもあった。
「…………」
ユウは、自らの身体を確かめるように拳を何度か握り開きし、それから周囲を、やはり確かめるように見回した。その瞳に一切の光はなく――やはりウィルのそれとそっくりだった。
性質の変わった身体の方はともかく、まるで初めて周囲の世界を見るような、奇妙な行動だった。それを見て、ウィルも訝しんだ。
ユイという存在が邪魔で捨てざるを得なかった、彼にとっての当初の狙い――ユウが、自身と同じ破壊者としての性質に目覚めた――ただそれだけではないのか? と。
ウィルは、ユイの血に塗れた自らの手を見下して、顔をしかめる。
あの女。確かに気に入らないとは思っていた。心の底から殺してやりたいほどには憎んでいた。
だが……あえて今、それをする必要があったのか? ウィルには、自分の行動がわからなかった。
当然、世界の破壊が最優先だったはずだ。あの女さえいなくなってしまえば、ユウがこうなることを見越してはいた。いたが……冷静に考えれば、自分があのまま全員を殺し、もう一度攻撃して、消し去ってしまえばよかったのだ。不確定な要素を持ち込む必要はない。
なぜだか、妙に気分が掻き立てられた。殺そうと思い、そう少しでも思ったときには、口と手がほとんど勝手に動いていた。
「……まさか」
ウィルは気付いた。愕然とした。
ユウと女が、分かれていた。ということは――。
僕をこの世界に誘い出し、この状況を作り出すことこそが、奴の狙いだったとしたら。
嵌められたのは、この僕か……!
突然、彼の身体が、わなわなと震えはじめた。
強い意志の力で無理矢理抑えていたものが、暴れ出そうとしている。解き放たれようとしている!
「ぐおお、お………!」
割れるほどに痛む頭を押さえて、ウィルは苦しげに呻いた。必死に耐えていた。
ユウは、さらに黒のオーラを増大させ、力を異常に高めつつある、目の前の人物を睨んだ。
そして、彼も理解した。
「……なるほど――そういうことか」
ユウは呟き――そして静かに力を高めた。
ウィルに対抗する形で、漆黒のオーラが膨れ上がっていく。
二人の力の高まりだけで、ヴィッターヴァイツの暗躍によって生じた大量の死の想念、およびウィルへの攻撃により安定と力を失った世界は、既に正常な構成を保つことができなかった。
二人の身の周りから、次々と空間に亀裂が入っていく。
世界は壊れていく。
だが今は、それよりも優先すべきことがあった。
『星海 ユウ』は、目的のためなら犠牲を厭わない。
***
「なんて力だ……。あれが……本当にユウ、なのか……?」
「ユウ……あなた……」
ジルフとエーナは、とても信じられない思いで変わり果てたユウを見つめていた。
とてつもないポテンシャルがあるとは思っていた。エデルで見たときから、わかっていたはずだった。
想像を遥かに絶している。フェバルという枠に当て嵌めることすら、生温いとまで思えてしまう。
ジルフにとっては、自身とヴィッターヴァイツとの戦いすらも、小競り合いに思えてくるほどの、いかれた力に思えた。
直感でわかってしまうのだ。とても手出しできるものではないと。
だが、あれでは……。ユウ、お前は……。
エーナが、絶望的な表情で、それでも防御魔法の構成にとりかかる。
ジルフは、動けなかった。イネアとの約束を思い返しながら、暗澹たる思いで状況の推移を見守るしかなかった。
***
「おい、おいおい……なんだよ、あれは……」
やけに強力なフェバルが現れて、いきなり世界をぶっ壊そうとしたところまでは、黙って見届けていた。
そいつがラナソールを壊してしまうのなら、手柄を横取りされるようで少々癪ではあるが、それはそれで構わないと思っていたからだ。
しかし……。
今、ヴィッターヴァイツは戦慄していた。
ホシミ ユウにこれほどの力があるとは、つゆも思いもしなかったのだ。
あれがユウであると辛うじて理解できたのは、謎の黒い力につき、先刻、確かに片鱗を見てはいたからだ。そうでなければ、本人のものとはわからなかっただろう。決して認めなかっただろう。
これまで己が対峙してきた小僧とは、レベルが違い過ぎる。あまりにも。
「くっ……このオレとしたことが……」
身体の震えが止まらなかった。正直に、恐怖すら覚えていた。
普段の己ならば、決して犯さぬ失態だ。なぜこれほどまでに動揺してしまうのか、自分でもまったくわからない。そのことにいら立ちを感じてもいた。
震えを押さえつけようとしても、身体がまるで言うことを効かない。まるで魂に恐怖を刻み付けられてしまったかのようだった。
だが戦闘者たるヴィッターヴァイツは、あえて正面から考える。今のユウと戦って勝てるか? と。
傲慢なほどの自信家をもってしても、容易に勝てるビジョンが微塵も浮かばなかった。むしろ、もしあの力をそのまま自分に向けられていれば、無事で済むだろうか。
「逆に見せつけられるとはな。自信を失くしてしまうぞ……」
不機嫌な顔で、かぶりを振る。
だがとりあえずは、ユウともう一人が潰し合おうとしている。勝手にやらせておけばいいと、老獪な面も併せ持つ彼は自分を納得させた。
むしろ、二人に集中が向いている今こそが、最大の好機なのだ。
「だが、ただではないぞ。この状況、利用させてもらう」
ヴィッターヴァイツは、翻って遥か遠い空に目を向けた。
ラナソールという世界は、もはやその維持だけで手一杯のようだった。
浮遊城ラヴァークは、今、その姿を白日の下に晒していた。
この状態にもっていくことこそが、そもそもの彼の狙いであった。
ヴィッターヴァイツは嗤う。ラナを守るものは、もうどこにもなかった。