ラナを柔らかな光のベールが包み込む。
アニエスは繊細かつ慎重に彼女の時間を巻き戻していった。
時空魔法として究極の効果を持つ《クロルエンダー》は、同時に最高の使用難度を誇る。制御を誤れば、対象の時間を進め過ぎたり戻し過ぎてしまうのはまだマシな方で、対象ごと時空に穴を開けて消滅させてしまったり、対象の因果律を破壊し「最初から存在していなかったこと」にしてしまうことすらもあり得るのではないかと彼女は恐れていた。
すべては想像でしかないが、失敗を試すことなどとてもできない。ゆえに彼女は細心の注意を払い、この魔法に関してだけは一度も失敗させたことがなかった。
やがて、ラナの傷が一瞬で塞がり、顔には生気が戻る。裏を返せば、ヴィッターヴァイツの一撃が瞬時に致命たらしめたということでもある。
ラナが目を覚ます。彼女は驚いた顔でアニエスを見つめ、それから胸に触れて穴が塞がっていることを確かめ、また驚いていた。
アニエスは、ラナが助かったことにひとまずはほっとする。不安にさせないよう、人当たりの良い柔らかな微笑みを浮かべて話しかける。
「あたしが治しました。お具合はどうですか?」
「…………」
ラナはやはり喋ることができなかった。申し訳なさそうに目を伏せるばかりだ。
そんな彼女を、アニエスは大いに驚きと困惑をもって観察していた。
ユウくんから旅の餞別として借り受けたものはいくつかあるが、その中の一つに【神の器】がある。
さすがにユウくんオリジナルのそれと効力は比べるべくもないが、《マインドリンカー》の効果を特別に引き上げることによって貸し与えられたそれは、遠く離れた時空においても彼(彼女)との繋がりを確かに感じさせる心強いものであった。
とりわけ人の悪意に関しては鋭敏に働き、アルの【神の手】による追跡をも退ける。何度命を助けられたかわからない。
ゆえにアニエスは、過酷な一人旅においても真に孤独であると感じることはなかった。
この旅はユウくんを助けるためのものであるが、同時にユウくんに助けられてきた旅でもあった。
【神の器】の重要な効果の一つに、『相手の心を読む』というものがある。アニエスが困惑していたのは、常に伝わってくる感情があまりにも強く、そして純粋だったからだ。
あまりにも深い哀しみ。
何も事情を知らないアニエスであっても心揺さぶられてしまうほどに。およそ通常の人間が持ち得ない純粋な感情だった。普通の理性を持った人間ならば、思念はもっと雑然としているものだからだ。目の前の彼女はそう、まるで無垢のよう。
一向に口を開こうとしないラナであるが、しかし何かを言いたそうな目をしているのは容易に推察できた。
「もしかして、喋れないんですか……?」
また申し訳ない顔で、こくこくと頷くラナ。アニエスはいたたまれない気持ちになった。
アニエスは考える。ラナソールという世界の名の由来ともなった彼女であるから、間違いなく事態の鍵を握っているだろう。
しかし、本来いるべきではない自分がどこまで関わって良いものかとも悩む。
少しの間逡巡して、結局明らかに過剰に過ぎない範囲で心の趣くままに関わってみようと決めた。自分だからこそできることもあるだろうと考えて。
「ちょっと触れますけど、いいですか?」
再びこくんと頷いたラナの額に、アニエスは手を触れる。
身体に直接触れることで、より深く心の情報を得ることができる。相手との触れ合いを大切にするユウくんらしい力だなとアニエスは感じていた。
……密着度合いが上がるほどより精度が高くなるのは甘えん坊の影響なのかなと言うと、彼(彼女)はわかりやすく動揺して恥ずかしがっていたけれど。
そして、アニエスは信じ難いものに触れた。
感情だけだ。伝わってくるのはただ、悲しいという感情だけ。
そこに理性や事実の裏付けはない。いや、抜け落ちているというべきか。ラナはそのことすらも悲しんでいるように思えたからだ。
なんてこと!
こんなことは初めてだった。
ラナさんという人の形をした器には、ほとんど何も入っていない。人の言動や心を感じたままに捉えることができるだけ。
決定的に「情報」が欠けているのだ。個人としての理性、記憶――中身というべきものが。
そして理解する。
永い時を、ただ生きてきた。生かされ続けてきた。本人は何もわからないまま。何が悲しいのかもわからないまま。
下界の人たちとまともに触れ合うこともできず。ただ眺めるだけで。
ラナソール世界の――象徴の女神として。
それは、どれほど寂しいことだろうか。
「どうして、こんな……」
動揺し悲しみに暮れるアニエスを、ラナはわからないなりに慰めようとしていた。
ラナの手が伸びて、アニエスの頬に触れる。慈愛に満ちた目でアニエスを撫でる。
ほとんど何もわからないのに、なんて健気なのだろうとアニエスは余計にいたたまれなくなった。
きっと元は心優しい人間だったのだろうとも思う。
この可哀想な人のために何かしてあげられないだろうか。せめて何が悲しいのかくらいはわかってあげられないだろうか。
アニエスはまた思う。それを理解することが、もしかすると世界の――
――危ないっ!
思考を中断し、アニエスはラナを抱きかかえて飛行魔法で飛び上がった。
直後、巨大な瓦礫が二人のいた場所に降り注ぐ。バルコニーの床は抜けて、灰色の空へ落下していく。
元は天井だったものが、二人を押し潰そうとしていたのだ。
「ふう。危ない危ない」
間一髪だった。
しかし気を休める暇はない。
彼女を治しても、一度壊れてしまった世界が元に戻ることはなかった。
速度こそ緩やかになったものの、未だ世界は崩壊を続けている。
いたるところに開いた空間の穴が時空嵐を引き起こし、二人を容赦なく飲み込もうとしている。フェバルほどの力を持つならまだしも、アニエスが飛び込んで無事でいられる保証はない。
眼下では、ちょうど先ほどまでいた場所――美しかった浮遊城ラヴァークが、見るも無残な姿で崩れ落ちていくところだった。
大陸が分かたれ、既に空に浮かぶ孤島のようになった大地も、着実に砕けていく。海は滝のように流れ落ちていく。
無事なところなどどこにあるというのだろう。
心の声に耳を澄ませば。おびただしい数の悲鳴と助けを求める声が、彼女の心を突き抜けていく。
感受性の決して低くないアニエスの目からは、涙が零れ落ちていた。
ラナさんを抱えている。溢れる涙を拭うこともできないまま、思う。能力を分けてもらったあたしでこんなに辛いなら、本来の持ち主はどれほど――。
つい探し求めてしまったとき、能力が慣れ親しんだ彼の気配を捉えた。
瞬間、身の凍るような衝撃が彼女の心を打ちのめした。
「っ……!」
嗚咽を上げてしまうのを堪えることはできなかった。
身も心もぼろぼろになったユウくんが、闇へ落ちていく。
絶えず伝わってくるのは、深い絶望感と自分自身へのやるせなさ、己の過去への恐怖――そして、喪失感。
ユイさんの気配がない……。
アニエスは、彼に何が起きているのかをおおよそ理解した。無残に敗れ、大切なものを失った「あたしの英雄」が、どれほど失意の底にいるのかを。
「ユウくん!」
アニエスは、涙声で叫んでいた。
できることならこの手で助けてあげたかった。きっと大丈夫だよって伝えてあげたかった。ユイさんのことも。
けれど、そんなことは絶対にできない。許されない。今ここで介入すれば、きっと「道」が途切れてしまうから……。
どうして。どうしてなの! どうしてそこまで!
わかっていても恨まずにはいられなかった。
ユウくん。黒のユウさん。どうして【運命】は「ユウ」たちにかくも過酷な人生を強いるのか。
……わかっている。最大の敵となり得るからだ。放っておけば、いつか自分たちが敗けてしまうほんのわずかな可能性を恐れているんだ。
だから二人とも、「ユウ」を徹底的に叩き潰さずにはいられない。
アニエスは知っている。その徹底したやり方が皮肉にも黒のユウさんという怪物を生み出し、また数々の試練がユウくんを飛躍的に成長させていることも。
すべてを乗り越えなければ、塵の一つも勝ち目などないことを。
だから。それをわかっているから。アニエスは、衝動的に向かおうとした自分を辛うじて抑えた。ユウくんの芯の強さを信じた。
「大丈夫。きっと大丈夫だから」
祈りを込めた呟きは、風に溶けて消えた。