レンクスと友達になってから、まあまあの時間が経った。
俺はいつものように、夕方まで時間を潰してから家に帰って来た。最近はレンクスがいるから、遊ぶのが結構楽しいんだ。
「ただいま」
おばさんやケンからおかえりは返って来ない。いつものことだ。
靴を脱いで、ちゃんとみんなの分の靴を揃えてから玄関に上がる。それから、横にかかっている箒でさっとその辺を掃く。これも俺のお仕事だった。
やり残しがあると大変なことになるから、じっくりと見回す。
うん。どこも汚れてない。
掃除が終わって。あとはもう自分の屋根裏部屋に行くだけなんだけど……今日は苦手な奴がいた。
「よう」
二階へ上る階段の前にいたのは、いたずらっぽく笑っているケンだった。
嫌な感じがする。ケンがわざわざ迎えてくれて、しかもこんな風に笑っているときは、大体ひどいことになるからだ。
嫌な感じはやっぱり当たった。ケンは後ろに隠していたものを楽しそうに見せびらかす。
エアガンだった。
「新しいエアガン買ったんだ。サバイバルごっこしようぜ」
それだけで、俺にはもうケンが次に言うことがわかった。また痛い思いをしないといけないって思ったら、心がぶるぶるしてきた。
「お前的な」
「いやだ!」
怖いって気持ちがつい口に出る。
でも嫌なんて言わない方がよかった。ケンは俺が素直に言うこと聞かないと、すぐ機嫌を悪くするから。
ケンは憎たらしい顔で、わざととぼけたみたいに言ってきた。
「聞こえなかったなあ。適当な理由付けてまたお父さんに叱ってもらおうかなあ?」
それだけはやめて。おじさんにちくられたら何されるかわかんない。
だって嘘でも、おじさんとおばさんは絶対にケンの言うことだけを信じるから。
俺にはケンの言うことを聞くしかどうしようもなかった。
「やるよ……」
だけどしぶしぶこう言ったのもいけなかった。
ケンは舌打ちして、俺よりも一回りおっきい身体で思いっきり頭を殴ってきた。
頭の上でひよこが鳴きそうなくらいガツンってきた。すごく痛くて、泣きそうになりながら頭を押さえる。
「やらせて下さいだろ?」
「っ……やらせて、下さい」
みっともなく頭を下げるしかない。
そしたら、どうにかケンは満足してくれたみたいだ。
「よーし。んじゃ、お前の部屋行くぞ」
「え? うん……」
なんで俺の部屋なんだろう? ケンの部屋の方が広いのに。
不思議に思いながら言われるままついていくと、自分の部屋に着いた。
古くなった布団以外にはほとんど何もないはずなのに。
いつもはないものを見つけた。
たくさんの水風船、しかも水がぱんぱんに入ったのが置いてあったんだ。
「なにこれ……?」
びくびくしながら聞いたら、ケンは得意そうに鼻をさすった。
「ひひひ。爆弾さ。サバイバルだからな!」
頭がくらくらするような、ひどい思い付きだ。
こんなの使ったら床がびしょびしょになるよ。
もしばれたら、おばさんになんて言われるか。
そこで、やっとわかった。
そっか。だから俺の部屋にしたんだ。いざとなったら全部俺のせいにする気なんだ。
ケンを睨みつけてやりたくてしょうがなかった。
でもそんなことしたら、どんな仕返しをされるかわかんない。下を向いて我慢するしかなかった。
俺は壁のそばに立たされて、ケンが反対側の壁のところに立った。
ケンはエアガンをカッコつけて構えてる。ノリノリだ。
「ひゃっほう! いくぜ!」
ああ。はじまっちゃった。
俺は今から人間じゃない。ただの的なんだ……。
「っ……!」
どんどんBB弾が当たって、泣きたくなるくらいの痛みがあちこちにくる。
でも、ケンが楽しんでる途中で泣いたらぜったいろくなことにならない。だから必死でこらえた。
もし目に弾が入ったら危ないって思って、目を瞑りながらずっと我慢していた。
そしたら、ケンのいらいらした声が飛んできた。
「おい、ユウ! 亀のように動かないんじゃちっとも面白くないだろ! もう少し逃げるとかしろよ!」
「わかったよ……」
目に弾が飛んで来ませんようにってびくびくしながら目を開けて、俺は部屋の中を逃げ回る。
ケンはそれを面白がって追いかけ、背中とかお尻にもっとびしびしと弾をぶつけてくる。
逃げながら、なんでこんなことしてるんだろうって悲しい気持ちでいっぱいになってきた。
時々掴まれて殴り飛ばされたりしながら、最後は部屋の隅っこに追いつめられる。
トドメに水風船を何発もぶつけられて、身体中がびしょ濡れになったところで終わった。
「はい爆殺。死にましたー。ゲームオーバー!」
ケンに大笑いしながら指を差されたとき、もう我慢できなかった。
「ひっく。ひっく……」
悔しくて、情けなくて。悲しくて。
一回涙が出てきたら、もう止められなかった。
「うわあああああああああん!」
「ひひひ。弱虫め! あー楽しかった。散らかっちゃったから、ちゃんと掃除しとけよー」
満足したケンは、泣き出した俺のことなんかほっといて、すぐ部屋を出て行っちゃった。
一人ぼっちになった俺は、気持ちが落ち着くまでずっとしくしくと泣いていた。
身体がとても重かった。ちっとも動く気になれない。
でも、いつまでもぼーっとしてるわけにもいかない。夜の家事もしなくちゃいけないし……。
あっちにもこっちにも落ちてるBB弾と、水風船のゴミを見て。それからずぶ濡れの床を見て、俺は溜め息を吐いた。
やっとお掃除を始めようとしたとき――悪いことは、重なるんだなって思った。
いきなりおばさんが部屋に入ってきたんだ。
おばさんはこのひどい部屋を見て、顔を真っ青にしている。
俺はパニックになった。
どうして? いつもは俺なんか見たくもないって言って絶対入ってこないのに。
なんでなのかはすぐにわかった。
おばさんの後ろで、ケンが馬鹿にして笑ってた。
おばさんが怒鳴った。
「ああ! こんなに散らかして! 水浸しじゃないか! お前は人様の家で、何様のつもりなんだい!」
ほんとは俺がやったんじゃないのに。
けどケンがやったって言っても絶対聞いてくれない。
それどころか、「良い子」のケンを悪者にしたってことでもっとひどいことになるに決まってるんだ。
だから、俺は謝るしかなかった。
「ごめんなさい……。すぐに片付けます」
でも、見つかったらもうダメだった。
おばさんは意地悪そうに笑う。
「またお父さんに報告だね」
「おねがい! それだけは!」
こんなことおじさんに知られたら、いったい何されちゃうの!?
がくがくと震える。
こわい。こわいよ!
「決定ね」
目の前が、まっくらになった。
***
仕事から帰ってきたおじさんは、顔を真っ赤にしてブチ切れた。
腕を細い縄で縛られて、何回も何回もお尻を叩かれる。
「ひぐっ……っ……ひっ……」
ゆるして。ゆるして。おねがい。ゆるして。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんな……っ!」
顔を蹴られる。口の中が血でいっぱいになった。
「馬鹿の一つ覚えみたいに謝ってんじゃねえよ! 気持ち悪い!」
さらに怒ったおじさんに、タバコの火を腕に押し付けられた。
あつい! あついよ! やめて!
「わあああああああああああああーーーーーー!」
お腹を蹴られた。
「大声で泣くんじゃねえ! 近所に聞こえるだろ!」
「ほんと悪い子だね」
「ひひひ」
「わああああああああああああん!」
「うるせえ!」
俺は泣き続けた。
泣く力も出て来なくなるまで、何回も何回も蹴られた。
どうして?
どうしてこんなに痛くないといけないの? どうしてこんなに苦しくないといけないの?
俺、そんなに悪い子なの? いけない子なの?
ゆるして!
誰か、助けて! 助けてよ!
お父さん……お母さん……レンクス……。
助けてよ……。
だんだん何もわかんなくなってきた。
痛いのも、何もかも。
この悪い子は誰なの?
こんなことをされてるのは誰なの?
俺なの?
違う。
こんなの、俺じゃない。
そうだよ。
俺じゃない。
私だ。
これは私なんだ。
か弱くて可哀想な私が、酷い目に遭ってるだけ。
そうだ。助けてあげなくちゃ。
***
急に真っ暗なところに来た。ここはどこだろう?
ああ。そっか。思い出した。
『心の世界』だったね。何回も来たことあった。
『しっかりして!』
身体の中から声が聞こえる。「私」がいるんだね。
「私」が中にいると心がぽかぽかとあったかいはずなんだけど、そのあったかさも今の私には届かないみたいだ。
冷たい。
『気を確かに持ってよ! 私も協力するから!』
そうだね。ありがとう。
君がいたから、俺は私になれた。
『何言ってるの? あなたはあなただよ! 私を中に入れて無理に私を演じたって、辛いだけだよ!』
私は「私」を無視した。とっても大事なことを思い出したから。
そうだ。ここには力があるんだよね。
始めはわからなかったけど、今ならわかるよ。
ここにはすごい力があるって。
力が呼んでる。
『何をする気なの?』
この力が欲しい。
『ダメだよ! こんな大きな力、今使ったらきっと制御できない! 大変なことになる!』
へえ。じゃあどうすればいいの?
私に力がないから、弱いから。
おじさんにもおばさんにもケンにも好きなようにされる。違う?
『でも……。ねえ。負けないで。一緒に頑張ろう?』
一緒に?
なら、君が代わってくれるの?
『それは……。してあげたいけどできない。今の私は、自分で表に出て来る力がないから。ごめんね。サポートしかできなくて……』
ふーん。しょうがないよ。君は悪くない。
でもね。私はもう我慢できないよ。あんなに痛くて、苦しいのはもういやなの。
力があるなら、使わせてもらう。
誰も助けてくれないなら、私が私を助ける。
私は闇の中を進んでいって、あるところへ向かおうとした。
そこに求める力があるって、なんとなくわかる。
『ダメ! それだけはさせない! 絶対に使わせないからね!』
身体が動かない。中で必死に「私」が逆らってるからだ。
もういい! 邪魔だ! 出ていけ!
「きゃっ!」
俺は「私」を中から追い出した。
引き離したら、心がもっと冷たくなった。
でも、いいんだ。
力があれば、私でいる必要なんてない。俺のままでいい。
「やめて! お願いだから、使わないで!」
縋り付いてまで引き止めようとする「私」を、俺は無理矢理振り解いて進んだ。
君はここで見てなよ。
俺はそこへ手を伸ばす。
見えないけど、ここにはたくさんの経験が溜まっている。
それらを取り込む。
知識がどんどん流れ込んでくる。どんどん力が湧いてくる。
実に清々しい気分だった。
ああ。そうだったのか。
全部わかったよ。
俺はこんな扱いを受ける必要なんて、最初からなかった。
***
「………………」
「なんだこいつ。急に何も反応しなくなったな」
「気味が悪いね」
「そうだよ……。全部こいつらが悪いんだ。こんな簡単なことにずっと気付かなかったなんて。俺は馬鹿だった」
「ん?」
「あはははははははははははははははははははははははははははははははは!」
脳のリミッターを外した俺は、縄をぶちりと引き千切って、ゆらりと立ち上がった。
あまりのことに声も出せないのだろう。
心底驚いている目の前の三人を、殺さんばかりの勢いで睨みつける。
こんなにどす黒い感情が湧き上がったのは、生まれて初めてだ。
今なら何だってやれそうな気がする。
おじさん。おばさん。ケン。
よくも今まで好き放題やってくれたね。
お前たち。もう許さない。