俺は引き千切った縄を掴み、三人に向かって投げつけた。
己が犯した罪を突きつけるように。
「おじさん。こんなことしていいと思ってるのかな。大人なら知ってるよね? こういうの、虐待って言うんだよ」
図星を突かれたこいつらは、みるみるうちに顔が赤くなる。見ていて面白いくらいだ。
「ガキのくせに生意気な口きくんじゃねえ!」
激昂したおじさんが、拳を作って迫りかかってくる。
言うに事欠いて暴力に訴えるか。まあそういう人だよね。
それにしても遅い。なんだこのハエが止まりそうなパンチは。
俺は今までこんなものに苦しめられていたのか。
迫る拳を顔面すれすれでかわすと、そのまま懐に滑り込み、伸びた腕を掴んで投げ飛ばしてやった。
おじさんはぐるんと回転して、背中から床に叩き付けられた。
何が起こったのかわからないといったまぬけな顔をしている。
これはお母さんの投げ技だ。力はほとんどいらない。
よろよろと立ち上がったおじさんは、既に先ほどまでの威勢を失っていた。
ようやくいつもの俺でないことを察したのだろう。
これでむやみに殴りかかってくることはあるまい。
「いきなり暴力はよくないと思うな。まずは話し合いをしようよ」
「話し合いですって?」
驚くおばさんに、俺はわざと口角を上げ、罵倒を込めて言ってやった。
「そうさ。お前らの罪深さを教えてやるって言ってんだよ」
「生意気な口を! この家に住まわせてやってる恩を忘れたのか!?」
焦って憤慨するおじさんが、滑稽で仕方がなかった。
本人もわかっててやってるのだから、面の皮の厚さはアカデミー賞ものだ。
「何が恩だ。笑わせるなよ。俺の養育費を口実に、両親の遺産を掠め取ってる泥棒のくせにさ」
言われたおじさんとおばさんの口が、あんぐりと開いて塞がらなくなる。
そうだ。そのアホみたいな顔が見たかったんだよ。
「どうして……。なぜ、それを知ってるんだい!?」
「いつだかの夜中に得意そうにべらべらと喋ってたじゃないか」
「馬鹿な! それはあんたの両親が亡くなったすぐ後、確かあんたが6歳のときじゃないか! わかりっこないはずだよ!」
「それがわかるんだよ。俺にはね」
望むなら、すべての記憶にアクセスできる。まったく素晴らしい力だ。
「まあいいさ。きちんと世話してくれるなら、その金はあげてやってもいい」
それを聞いて、おじさんとおばさんはほっと胸を撫で下ろしていた。
こいつらは金さえ無事ならそれでいいのか。
心の底から軽蔑しながら、話を続ける。
「莫大な金という対価をもらってる以上、あんたらには代わりに俺をきちんと育てる義務があるはずだ。そうでしょう?」
「あ、ああ。そうだな」
「ええ。そうね」
歯切れが悪そうに答える二人。
そりゃそうだ。なぜなら――。
俺は湧き上がる怒りを込めて叫んだ。
「なのに! あんたらはその義務をちっとも果たさなかった! それどころか、この扱いだ!」
俺はシャツをめくり上げて、身体中に残った痛々しい傷跡を晒した。
こいつのおかげで、体育のときに人前で着替えることもできやしない。
「見なよ。この痣と、傷と、火傷の跡を! どうしてこんなことをするの? あんたらは、一切心が痛まなかったの!?」
二人はばつが悪そうに顔をしかめて押し黙る。
当然だ。返す言葉がないのだから。
ケンの奴は、おどおどしながら俺たちの様子を見守っていた。
「俺がどんなに泣いても喚いても謝っても、おじさんもおばさんも決して止めてはくれなかった。むしろ楽しんでたよね。はっきり言ってやるよ。あんたたちは、最低だ」
二人とも、びきびきと青筋が走っていた。
子供にここまでコケにされ、言いくるめられている事実に対して苛立っているのが、容易に見て取れる。
この期に及んでも反省の色がまったく見られないとは。心底呆れるよ。
俺は溜息を吐くと、冷たい口調で諭した。
「さて、何か言うことはありませんか?」
もちろん求めているものは一つだ。
だが、二人はあくまで黙っているつもりのようだった。
仕方がないから、俺はとっておきのカードを切ることにした。
「ねえ。黙ってていいの? 虐待の事実を世間に公表してあげようか? いくらでも方法はあるんだよ? そしたら、あんたたちの社会的信用はどうなるだろうね」
「すまなかった……」
「ごめんなさい……」
本心ではないにしろ、ようやく望んでいた言葉が聞けて、ほんの少しだけ溜飲が下がる。
けれど、たった一言の謝罪で許すには、俺が受けた傷はあまりにも深過ぎた。
「やっと謝ってくれたね。でも俺は、お前たちを絶対に許さないよ」
「この! 人が下手に出れば調子に乗りや――」
「黙れ」
視線だけで殺してやるとばかりに殺気を放ったら、おじさんはびびって言葉を詰まらせた。顔がピーマンみたいに青くなっている。
小物も小物だ。所詮、弱い者をいじめて愉悦に浸る奴なんて、この程度なんだろう。
どうしてこんな奴を怖がっていたのか。本当に馬鹿馬鹿しくなってくるよ。
「いいか。周りにばらされたくなかったら、今すぐ扱いを改善しろ。せめて人並みにして」
すっかり竦み上がったこいつらは、何も言えないようだった。
語気を強めて促してやる。
「返事は?」
「わ、わかったよ!」
情けない奴。いつも人を食ったような顔をしてるおばさんも、この通りだ。
もう少し仕返ししようと思って、俺は嘲笑しながら言ってやる。
「そうだ。心配しなくても、別に今まで通り家事くらいはやってあげるよ。おばさん、ずっと家にいるくせに一人じゃ家事もまともにできないもんね」
図星を突かれたおばさんは、顔を真っ赤にして俯いてしまった。
おじさんもおばさんも、もはや形無しだった。
二人に言いたいだけ言ってとりあえず満足した俺は、横できょろきょろしている奴に標的を変えることにする。
「ケン」
「は、はひ!」
思わず噴き出してしまいそうになった。
いつもは威張り散らしてるこいつが「は、はひ!」だって。
親の情けない姿が、よほど応えたのだろう。
外から見れば穏やかな笑みを浮かべながら、俺はこいつにゆっくりと近づいていく。
「いつも俺のこと、こき使って楽しかった?」
「うわ! ち、近寄るな!」
素が出たこいつは、やはりすぐに手が出た。
この辺りは親譲りだな。
もちろん、おじさんのと比べてもさらに遥かに劣る拳だった。
こんなのよけるまでもない。
その場で足を蹴り上げて、ケンの拳にぶつけてやる。
それだけで、こいつは簡単にひるんだ。
俺は怯えるこいつに触れる距離まで迫り、お返しに狙い澄ましたリバーブローをお見舞いしてやった。
のたうち回ることすらできないほど苦しむケンの耳元に顔を寄せ、囁ぎ声で説教してあげる。
「こうやってね。殴られると痛いんだよ。苦しいんだよ。わかったでしょ? 君はもっと人の痛みを知った方がいいと思うね」
コクコクと、小動物のように頷くばかりのケン。
へえ。子供な分だけ、親よりよっぽど素直じゃないか。
でも、まだ許さない。こいつには余罪があるのだ。
「あとさ。何か言うことがあるんじゃないの?」
「な、なんのことでしょう?」
また急に丁寧語で改まり出したケンに内心苦笑いしながら、俺ははっきりと告げた。
「今日のこととかね。君のお母さんにちゃんと謝ったら?」
「いや、そそそそれは……」
きょどりまくるケンに、思い切りドスを利かせた声で脅しかける。
「ほら言えよ。今日俺の部屋を散らかしたのは誰だ? 俺にエアガンの弾と水風船をしこたまぶつけたのは誰だ? 部屋を片付けるべきだったのは誰なんだ?」
ケンは半泣きになって、汗を滝のように流しながら白状した。
「ひ、ひいっ! ごめんなさい! 俺です! 俺が全部やりましたぁ~~!」
俺はその返答に満足して、おばさんの方に振り向いた。
「聞いた? おばさん。悪いのはケンだよ。俺は何もやってない」
俺にとっては大事なことだったんだけど、おばさんにとってはもはやどうでもいいことのようだった。
俺とケンのやり取りを見てますます青ざめた彼女は、身体を震わせながら非難するように言ってきた。
「急に知恵が付いたみたいに! いったいなんなんだい!? 気味が悪いよ! この化け物め!」
化け物。
そんなこと言われたの初めてだよ。だが心外だな。
「化け物? どっちが。お前らこそ人の皮をかぶった化け物みたいなもんじゃないか。なあ?」
同意を求めるように、ケンの方をちらりと見る。
それがあまりに怖かったらしい。とうとう母親の膝に縋って、ケンは我を忘れて大泣きし始めた。
「うええええええええええええん!」
情けなく泣きじゃくるケンを見下しながら、嘲りを込めて告げる。
「言われた言葉をそっくりそのまま返してやるよ。弱虫め」
まあこいつへの仕返しはこのくらいでいいだろう。
こいつはまだ小さいし、無邪気な部分もあった。
両親とは違って改心の余地はあるから、許してやってもいいと思う。
そのとき、いきなり後頭部に大きな衝撃が走った。
視界がぐらりと揺れる。
何が起こったのかと思ったときには、顔から床にぶつかっていた。
くらくらする頭を振って、どうにか見上げる。
鬼のような形相で激しく息を切らせている、おじさんの姿が映った。目が充血している。
そう、か。
側にあった置き物で、背後から俺を殴ったのか。
「へっ! ざまあみろ! 調子に乗るからだ! このクソガキめ!」
脳が揺れて立ち上がれない。
それをいいことに、調子に乗って何度も何度も蹴り付けてきた。
「ほら! お前も手伝え!」
「ああ! ちょっと離れてな! ケン!」
息子を脇にやったおばさんも加わって、リンチ状態になる。
「死ね! 死ね!」
「くたばれ! 化け物め!」
小さな体をボールのように蹴られながら、俺は死ぬほど心が痛かった。
だって、まったく躊躇など感じられなかったから。
こいつらは、俺のことを殺す気なんだ。
少なくとも、うっかり死んでしまっても構わないと思っている。
そのことが、たまらなく悲しかった。
俺は身を固くして、じっと脳の回復を待った。
守ることだけに集中すれば、こんな素人の蹴りなど、そうそう致命傷になどなりはしない。
動けるようになった頃を見計らい、蹴る瞬間を狙っておじさんの足にしがみついた。
そこを支えにして、どうにか立ち上がる。
すかさず金的を殴り付け、痛がるおじさんから距離を取った。
痛みに苦しみながら、おじさんはなおも俺に襲い掛かろうとする。
けどそこまでだった。
ギロリと睨み付けてやったら、二人の動きは銅像のように止まった。
俺は一息吐くと、自分の頼りない身体を見下ろした。
全身血だらけだった。
生温い人の血だ。それがこの身体には流れている。
顔を上げて、再びおじさんとおばさんを睨み付ける。
対して、こいつらはなんだ。
こいつらには、まともな血が通っちゃいない。
決して許しはしないけど、扱いを改善させるだけで勘弁してやるつもりだったのに。
やっとのことで残していた最後の良心のタガが、とうとう外れてしまったような気がした。
記憶の世界に一つの漏れなく溜まっていた、数々の虐待の記憶。
力を手に入れたとき、それらも一緒に解放されてしまったみたいだ。
「私」が力を使うなって言ってた理由が、やっとわかったよ。
今の俺には、もう耐えられそうにない。
誰も彼もが憎くて、さっきからずっと気がおかしくなりそうなんだ。
こいつらに刻み付けられた残虐性と暴力性が、一気に俺を包み込んで支配しようとしてくる。もはや逆らうことはできなかった。
もういいや。この気持ちに身を委ねてしまおう。
そのとき、「私」の縋るような声が聞こえてきた。
『ダメだよ! 元に戻れなくなっちゃうよ!』
ああ。そうか。
今は能力を使ってるから、現実でも心が通じることがあり得るんだね。
ねえ。もう一人の「私」。
俺のこと、必死に止めてくれてありがとう。
いつもは忘れちゃってるけど、ずっとそばにいてくれてありがとう。
『そんな。お別れみたいなこと、言わないでよ』
もう、疲れたんだ。
『ユウ……』
もし俺がダメになっちゃったら、そのときはこの身体は君にあげるよ。
『そんなこと、言わないでよ。あなたがいなくちゃ、私がいる意味なんてない。私は、あなたを支えるためにいるんだよ?』
そっか。じゃあ、ごめんだ。
言うこと聞かない子で、ごめんね。
『ユウ! ユウ! 返事をして! お願い!』
――――いこう。
こんな奴らに遠慮する必要はないさ! なあ、そうだろう!?
「あははははははははははははは! またそうやって暴力か! お前ら、それしか能がないのか?」
「ひいっ!」
「あああっ!」
くっくっく。そんなにびびるなら、最初から手なんか出さなければよかったのにね。
「もういいよ。お前らがそういうつもりなら、俺にも考えがある」
憎しみの感情が後押しする。やってしまえと背中を押す。
ふと横を見ると、ケンは既にショックからか気を失っていた。
よかった。こんなもの、見ない方が幸せだ。
『まさか……! それだけはやめて!』
レンクス。食らった技を借りるよ。
【反逆】
重力に逆らって、奴らを天井へ叩きつけろ。
おじさんとおばさんの身体が、瞬く間に宙へと浮き始める。
「うわあああああ!」
「きゃあああああ!」
躊躇うことなく、天井に激突させた。
二人の断末魔のような悲鳴が、部屋中に響き渡る。
その瞬間、能力を切って床へと突き落とす。床にぶつかったら、また【反逆】を使って引き上げてやる。
そうやって、床へと天井へと、交互に何度も何度も叩きつけてやった。
奴らの泣き叫ぶ声を聞きながら、俺は虚しい復讐心が満たされていくのを感じていた。
「ははは! これは報いだ! お前らがこの憎しみを育てた! 自分で自分の首を絞めたんだよ!」
不思議と涙が流れてくる。楽しいはずなのに。
ここまですることはないんじゃないのか? ここまでやり返したら、おじさんたちと一緒じゃないのか?
そんな疑念が頭を過ぎる。
でも、もう手を止められない。止まらない。
『もうやめて! 私は知ってる。あなたは優しい人だよ。だから、こんなに心が苦しいんだよ』
ダメだ! 憎しみが止まらないんだ!
全部壊してしまえって、頭の中にガンガン響いてくるんだよ!
【反逆】なんて強い能力を何度も使うのは、さすがに無理があったみたいだ。
まもなく限界を超えた。
堰を切ったように、膨大な情報が一気に頭の中に流れ込んでくる。
頭が、割れる!
「うわあああああああああああああああああああーーーーーーー!」
***
ユウ! しっかりして!
周りを見渡すと、私の住んでいる『心の世界』は、かつて見たこともないくらいに荒れ狂っていた。
普段は真っ暗なはずの世界に、まるで天の川のような、白い光から成る巨大な流れが生じている。
それも、恐ろしい激流だった。
力が、暴走してる。やっぱり扱い切れなかったんだ。
早く止めないと! ユウが苦しんでる!
私は必死に流れを止めようとした。だけど、私はあまりにも無力だった。
膨大な『心の世界』の中で、そのたかが一要素に過ぎない私の力では、せいぜい小さな流れを押し止めるので精一杯だったの。
ダメ! とても抑え切れない!
やがてどこもかしこも激流に呑まれて、ただ立ち尽くすしかなかった。
もう祈ることしかできない。
お願い! 誰か! 誰か流れを止めて!
このままじゃ、ユウが本当に壊れてしまう!
絶望に飲み込まれそうになった――そのときだった。
ユウの目を通して、部屋の窓ガラスが派手に割れたのが見えたの。
勢いよく飛び込んで来たのは、見慣れた金髪の姿。
彼がやって来たとき、奇跡が起こった。
あれだけ激しくうねっていた流れが、次第に落ち着きを見せ始めた。
気付けば『心の世界』は、すっかり元の真っ暗な空間に戻っていた。
止まった……?
すると、ふらっと力が抜けたようにユウが気を失って、代わりに私が表の世界に出てきた。
彼は私を認めると、ほっとしたような笑顔を見せた。
「ふう。やれやれ。危なかった。間一髪のところで間に合ったな」
彼のことを、こんなに頼もしいと感じたことはなかった。
「レンクス……」
「よう。遅れてすまなかった。助けにきたぜ」
「ユウは……助かったの……?」
不安でいっぱいの私を安心させるように、彼はにこりと笑って頷く。
「ああ。ギリギリだったけどな。とりあえず記憶とのリンクを断って中で眠らせておいたから、確かめてみろ」
言われて『心の世界』を覗くと、何も知らないユウが、安らかな顔で眠っていた。
ユウが、助かった。
レンクスが、助けてくれた。
「ぐすっ……。よかった……。ほんとに、よかったよぉ……」
安心から、私はその場で泣き崩れてしまった。
わんわん泣きじゃくる私の頭にぽんと手を置いて、彼はあやすように優しく撫でてくれた。
こういうときだけ、ちっともいやらしさはなかった。
「お前たちのことはなるべく俺が守ってやるよ。ユナとの――約束だからな」