いつになるのだったか。昔の話――とにかく昔の話だ。
オレはいつものように、誰もいない荒野で一人修行を続けていた。
荒野は良い。うっかり景観を損ねることもなければ、何かを死なせてしまうこともない。修行に専念できる。
一つ所に留まることもできず、死ぬに死ねない。フェバルというのは実にクソったれな運命を背負った存在だが。
こうして汗を流し、ひたすら己を追い込んでいるときに限っては、嫌なことも忘れられる。
やがて全身の肉という肉、そして気力が限界を迎えた頃、オレは地へ身を投げ出した。
土埃の混じった風が剥き出しの素肌を撫でる。疲れ切った身体には心地の良い風だ。
だがややもして身体が疲労に馴染んでくると、頭の隅に追いやっていた嫌なことが戻ってきてしまう。
「ちっ……」
馬鹿馬鹿しい。こんな修行にどれほどの意味がある。
習慣だ。他にすることもないからしているだけだ。
もはやこの身にとって鍛錬は毛ほどの進歩ももたらさない。修行も既に幾千年を超えてからは、肉体は極致に達している。
フェバルであるからには、修行をやめたところで衰えるはずもなく。老いに逆らうなどという常人なりの意義もない。
「クソが……」
何より。
星脈に授かっただけの力の方が遥かに勝るなどと。【支配】などという強引に与えられただけの能力の方が遥かに勝るなどと。
ああ、気に入らん。まったく気に入らんことだ。
超越者の存在。知らぬままの方が良い事実だった。
オレは故郷で一人の武道者として生き、死にたかったのだ。なぜフェバルなどになってしまったのか。
まったく姉貴はよく絶望もせずやっているものだ。今頃どこで何をしているのだか。
そんなことを毎度思いながらも、じきに身体が動くようになれば、意味のない修業を再開してしまうのだろう。おそらくは心が死ぬまでこれを続けるだろう。
自嘲めいた気分に浸っていると、仰向けになっているオレをぬっとのぞき込む影があった。
またあの女だ。当然、その生命反応にはとっくに気付いてはいたのだが。
「やあ。相変わらず修行に精を出しているみたいね」
「……イルファンニーナか」
もの珍しい奴だ。オレがこれまで出会った中でも随一と言っても過言ではない。
見た目は、一目でわかるアルビノということ以外どうということはない。
年頃の小娘が、オレが修業しているのを飽きもせず見に来る。しょっちゅうだ。
煩わしいから来るなと言っても来るのだ。こいつの暮らしているという村からはそんなには近くないはずだが。
「またフルネームで呼んだー。あなただけだよ? みんな私のことイルファって呼んでるよ」
「知らん。オレは略称で呼ぶのが好かんのだ。そのままの名前くらい大切にしておけ」
結局のところ、流浪の身に残された最後の一つの繋がりはそんなものだ。そんなものすら失ってしまった奴を見たことがあるが……あれはもう人ではなかった。
……オレも似たようなものだがな。
「むむむ。同じく略しがいのあるヴィッターヴァイツさんが言うと説得力があるね」
「オレのことはどうでも良い。それにだ。前々から思っていたが、どちらかと言えばニーナだろう」
何気ない一言ではあったが、どうやらこいつにとっては違ったようだ。
「あー……そっか。うん――ニーナか。ニーナ。それいいね!」
ぱっと花のような笑顔を浮かべてサムズアップした彼女に、オレは気恥ずかしくなってきた。
何がそんなに嬉しいのか知らんがな。
「なんだ。そんなに変でもないだろう」
「うん。変じゃないと思うよ。むしろいい感じ!」
「他にニーナと呼ぶ奴はいなかったのか」
「いないねー」
「だとすれば連中はよほどセンスがないな」
「違いない! ニーナの方が断然可愛いし!」
鈴のような笑い声が殺風景な風に乗って広がっていく。
いつもながら、やけに愉快に笑うな。こいつは。
「ふふ、よし。お返しにニーナちゃんがヴィッターヴァイツの素敵な愛称を考えてあげよう!」
「いらん」
「まあまあそう言わずに」
「いらん」
「お構いなく」
少しは構えろ。
「えーと、ヴィッターヴァイツだから――ヴァイツ? ヴィッツ? ヴィット?」
ヴィットと呼ばれた瞬間、反射的に肩が跳ねてしまった。
「っ……その略し方で呼ぶんじゃない……」
「お、図星を突いたっぽい。ヴィットかぁ。その反応、さては昔そう呼ばれてたね~? 女か? 女かぁ~?」
「やかましいぞ!」
「うひゃあ怖い怖い! ――で、実際のところはどうなの? ヴィット」
オレの強面を恐れもせずに、うりうりと顔を近づけてくる。アルビノの赤い瞳がこちらを興味津々で覗く。鬱陶しいことこの上ない。
「ヴィット言うな。ちっ……姉貴の奴がな」
「へえ。お姉さんがいたの。初耳。どんな人?」
「下らんお節介焼きだ。望んでもいないことをあれやこれやと。貴様みたいなものだな」
「それはつまり、私のような素敵で不可欠な存在だと」
「貴様の謎の自己評価の高さには呆れるぞ」
「いやー、妥当だと思うけどね。だってヴィッターヴァイツさ、私が見つけてなかったら絶対に行き倒れてたじゃない」
「寝ていただけだ」
「そういうことにしとく。鍛えるばかりで、自分じゃご飯だってろくに作れないしさ――おっとそうだった」
彼女は手に提げていた弁当箱を差し出した。
「はい。今日のお弁当。どうせまた修業ばっかで何も食べてないんでしょ?」
「ふん。要らぬ世話だ。放っておけと何度言えば――」
ぐうううううう。
「む……」
……こんなときに鳴ってしまう腹の虫が恨めしくてかなわん。
「一緒に食べようよ。ね」
オレは彼女から弁当箱をひったくると、その場にドカッと座って黙々と食べ始めた。
彼女も黙って当たり前のように隣に座り、俺の食う様を面白そうに眺めながら食べている。
食べている間、一切の会話はない。ないというのにこいつはニコニコしている。
何が楽しいのだか。オレにはこいつがわからん。
少なくとも貴様などいないところで、その日の飯程度しか困るところがない。
そもそもオレは飢えて死のうが死ねんのだ。何度も試した。
食事など一時の嗜好品でしかない。つまり貴様のしていることには……意味がない。
意味はないが……それはそれとして、こいつの飯は美味い。そのくらいは認めてやろう。
「馳走になった」
「お粗末様でした。うん。あなたは食いっぷりがいいから、作る方としても嬉しいね」
「今日で最後だ」
「明日も来るよ」
「来るな。鬱陶しい」
「せっかくだからヴィッターヴァイツが修行してるとこ見ていこうかな」
どうせ言うことを聞かんので、オレは諦めてその場で修業を再開した。
こいつがいるとうっかり拳圧で吹き飛ばさないよう、一挙手一投足に気を付けねばならない。はっきり言って邪魔である。
そしてやはり会話はない。だというのにこいつはずっとニコニコしている。
本当に何が楽しいのだか。オレにはこいつがさっぱりわからん。
わからんが……まあ悪い時間ではない。
結局、その日も日が傾くまで彼女は側にいた。
オレは修業する。彼女は飯を持って来て見守る。
たまに来ない日もあったが、そのような日々が数年続いた。
会話はあまりしない。飯の前後くらいのものだ。
イルファンニーナはよく生傷をこさえて来た。
「また怪我をしているのか」
「私もヴィッターヴァイツにならって修業しているから!」
などと控えめの胸を張る。痛みに顔をしかめてはいるが、その表情に暗さはない。
だから妙に思っても疑うまではしなかった。
「馬鹿め。弱いのに無茶をするからそうなる。見せてみろ」
肌着をめくり上げると、アルビノ特有の真っ白な素肌に打ち身があちらこちらにある。
放っておけば痕になりそうな切り傷もある。女が傷だらけになってはかなわん。
気功術ですべて綺麗に治してやると、彼女は無邪気に喜んだ。
「ありがとう。ヴィッターヴァイツってすごいよね。どんな怪我もパアアって治しちゃうしさ」
「こんなもの。《剛体術》のついでの嗜みだ。礼を言われるうちに入らん」
「でもありがとう。優しいよね」
「……今日の弁当を寄越せ」
いつの間にやら、オレがフェバルであることも聞き出されてしまった。
「お姉さんって今はどこに?」
「さあな。今も生きているとは思うが、どこで何をしているかはわからん」
「つれないね」
「そんなものだ。お互い行く宛てもわからぬ流れ人などというものはな」
いつからだろうな。姉貴に言われるまま人助けをしなくなったのは。
姉貴が知れば怒るだろうか。
何をしようとオレの勝手だ。そんな筋合いはないが。
どれほど手を尽くしてみたところで、人は死ぬ。オレは死なん。
決定的な断絶がある。
一々感情移入などしていたら、いくつ身があってももたんのだ。
それに――。
【支配】には妙な感触がある。何がとははっきりと言えんが、気持ち悪さのようなものがある。
万物の事象を意のままに操る【支配】。
これを存分に振るい、人々の暮らしを改善すれば、とにかく感謝された。老若男女問わず、誰もがオレを称えた。
そう。例外なく。誰もがだ。
オレの力を恐れる奴も、オレのやり方が気に食わない奴もいなかった。いてもおかしくはないのにだ。
女に言い寄られて抱いたことも、数え切れんほどある。
違和感があった。そいつは少しずつ大きくなっていった。
どこか貼り付けたような笑顔が。尊敬の眼差しが。
オレではなく、【支配】という力に感謝されているようで。まるで神か何かのような扱いをどこでも受けてしまうことが。
気に入らなかった。気味が悪かった。
そのうちオレは人助けなどやめた。人と触れ合おうとも思わなくなった。
独りはいい。気楽でいい。
だのに時たま、なぜかこういう構ってくる奴が現れるのだが。イルファンニーナほどしつこい奴はいなかったが。
「ヴィッターヴァイツも、そのうちどこか行っちゃうの?」
「いつかはわからんが、行くだろうな。それが運命というものだ」
「そっかあー」
見るからに気落ちするので、オレは少しばかりいたたまれなくなった。ほんの少しばかりだ。
「あまり寂しそうな顔をするな。こんな奴が一人いなくなったところで、どうということはない」
「そんなことないよー? だって私、ヴィッターヴァイツくらいしか友達いないもん」
「初耳だぞ。オレなどに始終構っているからそうなるのだ」
「ヴィッターヴァイツはいつも平気で構ってくれるからね」
「貴様がしつこいだけだ。オレから構った覚えはない」
「でも何だかんだ話してくれるもの。こうやって」
「……ちっ。修業を再開する。黙って見ていろ」
「はーい」
オレはいつもの通り汗を流し、彼女はいつもの通りニコニコ見つめていた。
いつもの通り限界まで身体を動かした後、ふとオレは何となしに言った。
何となしにだ。決して同情ではない。
「明日」
「うん? なに」
「明日、村を案内しろ。貴様がどんな惨めな暮らしぶりをしているのか、じっくり見てやろう」
「えー。ヴィッターヴァイツ、来るの!? 興味ないと思ってた!」
こいつの慌てぶりが面白かった。
「いかんのか?」
「だってだって! そんなに良いものじゃないよ? きっとつまらないと思うし……」
「構わん。貴様は発育も悪いし、怪我も多い。どうせろくな暮らしなどしていないのだろう」
「言ったなあ。発育が悪いのは遺伝だもん。仕方ないもん」
彼女は貧相な身体を手で押さえ、わざとらしく恨めしい視線を向けてくる。オレは無視して続けた。
「何かしてやれることがあるかもしれん」
事と次第によっては、久々に【支配】を使ってやっても良い気分になっていた。
小娘一人助けてやったところでバチは当たらないだろう。
「あー。ふふ、そっか。ヴィッターヴァイツに心配させちゃったか」
「心配などしていない。もし貴様が来る理由がなくなれば、清々すると思っただけだ」
「あはは。そうだね。じゃあ明日はよろしくお願いします」
「うむ」