このままでは死んでもおかしくないからと、本当に致命傷の部分だけについては、ヴィッターヴァイツは最低限の治療だけを施された。彼は一切の施しなど受けたい気分ではなかったが、勝手に死なれては困るのでJ.C.はとにかくそうした。
ただし、その他多くの怪我についてはそのままにされた。仮に完全回復してしまえば、今度は力関係で生殺与奪をヴィッターヴァイツが握ることになる。いかに義姉弟とは言えど、反目し合っていた関係のままで完全治療できるものではなかった。それ以上に、罰として反省を促す意味もある。
結果として、彼は節々に激痛が走る身体でろくに動けぬまま、しかし気を失うにはほど足りない絶妙な状態で、一向に側から離れようとしない姉貴と向き合わざるを得なくなった。
こうなれば、このお節介焼きの追及からはとても逃げ切れるものではない。
ヴィッターヴァイツは諦観し、嘆息した。
一度話すと素直に覚悟を決めれば、存外すらすら言葉が出てくるものだ。
別離が長いだけ、互いに積もる話もあった。
もっとも、数々の星で暴虐の限りを尽くした彼には、とても姉貴には言いよどんでしまうようなえげつないエピソードがあまりに多かったのであるが。
J.C.がやんわりと追求するも、彼はばつが悪くて口をへの字に曲げ、押し黙るしかなかった。
彼女はやり切れなかった。取り返しのつくことならば、それで彼が変わるのならば、いくらでも叱り付けもしよう。非難もしよう。
だが既に終わってしまったことなのだ。義弟をどんなに責めたところで、彼の暴力に翻弄された者たちが帰ってくることはない。
それに罰ならもう受けている。これ以上なく打ちひしがれた彼の顔。ユウとハルは、ヴィットの心を徹底的に叩きのめしたに違いなかった。
だから、J.C.はただ尋ねた。
「どうしてそんな風になってしまったの?」
ヴィッターヴァイツは、頑として語ろうとはしなかった。
言えるものか。フェバルに救いがないなどと。絶望しかないなどと。貴女とともに鍛えた【支配】がまさに原因であるなどと。
フェバルでありながら、どこかに救いのあることを信じて気高く旅を続ける貴女に、そんな残酷なことは言えるものか。
「答えて。ヴィット。答えなさい!」
命令だった。懐かしい調子だった。かつてはそうして彼女に強いられると、彼はつい従ってしまったものだが。
だがどうしても答えたくない。
歯を食いしばり、辛そうに顔を背けるヴィットを見ていると、J.C.は泣きそうになった。ついにまなじりには涙が浮かんでいた。
「お願いよ。答えてちょうだい。私じゃ何も助けになれないの? あなたと過ごしたあの日々も、義姉弟の絆までも嘘だったの……?」
どんな悪人になり果ててしまったとしても。彼女にとっては、この広い宇宙でただ一人の義弟なのだ。
――ああ、クソ。かくも貴女の涙には弱いものか。
オレが絶望させてどうするのか。彼はとうとう観念した。
「……絶望しかなかったのだ。フェバルになってから、オレの生は……ほとんどすべて紛い物でしかなかった」
まさかそんなことを思っていたとは、彼女はつゆも知らなかった。
まだ若い頃、情熱や希望を宿していた彼。素直でないが内には秘めた気高さと優しさを持ち、人や己の未来を信じていた彼。彼女が知っていた彼とはあまりにかけ離れた言葉に、何かがあったのだろうと察してはいてもショックだった。
それが真に迫る態度であるから、今の彼にとっての真実なのだろう。彼女はあえて口を挟まず、最後まで真摯に聞くことにした。
ヴィッターヴァイツは、絞り出すようにゆっくりと語り始めた。
「オレの力は……貴女と別れてから知ったことだがな。無意識に関わるすべての人間を【支配】してしまう。オレから関わろうとせずとも、勝手に向こうからやって来るのだ……次から次へと。都合の良いだけの操り人形が。およそ人とは呼べない代物が」
彼は語る。
どれほど善いことをしたつもりでも意味がない。連中は一度彼の前に姿を見せれば、まず彼に感謝するようにできている。
どれほど悪いことをしようと意味がない。連中は彼の期待する役割に従って、形ばかりの非難や悲鳴を繰り返す。
【支配】を拒絶するためのあらゆる努力は無意味に終わり、決して死ぬことも許されず、何もかもがどうでもよくなったのはいつからだったか。
刹那的になった。あらゆることが戯れにしか思えなくなった。
どこへ行っても、彼の目に映るすべての人間が気色悪かった。とても人とは思えない、半自動的なそいつらが。目の前から消えて欲しいのに、次から次へと現れる。
やがて、まったく人を人とは思わなくなった。人だと思うから辛くなる。こんな奴ら残らず消えてしまえ、死んでしまえと考えてしまう。
【支配】は勝手に気を利かせて、本当にそいつらを殺してしまう。
そんなことを何度繰り返したか。限界だった。気が狂ってしまったのだろう。
どうせ【支配】が殺してしまうのだから、この手で【支配】し、殺し、犯し、破壊した。そうしていれば、その瞬間だけは気分がすっきりすることもある。それ以上見たくもないものを見なくて済む。
極めて刹那的で、動物的な快楽だ。ひどい麻薬もあったものだ。すぐに空しくなるが。
それに極まれではあるが、捨て鉢に悪目立ちすることを繰り返していれば、隠れ潜んでいたフェバルや異常生命体などが現れて、彼に楯突くこともある。
皮肉なものだ。それだけが唯一の愉しみだった。唯一生を実感できる瞬間だった。
彼を打ち倒そうとする者だけが、【支配】されない確固たる意志を持っていた。
彼を否定する者だけが、彼にとっての『人間』だった。
そこまで聞いて、J.C.は何も言えなくなってしまった。
フェバルの運命は過酷だ。それは終わらない旅を続ける彼女自身痛感していることだ。
しかし彼女の力は癒しの力。己の良心に従って行動している限り、行く先々の人との関わりで深刻に悩むことも少ない。
だがヴィットの【支配】は……比較にならない。人と関わることを心の内では望んでいた彼にとっては、あまりにもむごい呪いではないか。
そんな恐ろしい呪いであるとは知らず、【支配】の「正しい」使い方を教えたのは他ならぬ彼女自身だ。「正しい」と信じていた。彼女は彼に生き方を示したつもりで、残酷な仕打ちをしてしまっていたのだ。
そのことを自覚したとき、涙が止まらなかった。ユウやハルに向けたものと同じ種類の涙を、彼にも向けていた。
「ごめんね。ヴィット。あなたがそんなことになっているなんて、知らなくて……」
「だから話したくなかった。泣いてくれるな……。貴女のせいではない。これはどうしようもない運命なのだ。運命に負け、悪の限りを尽くしたのは、このどうしようもないオレなのだ……」
許されることではないと、自然とそう考えている自分がいることにヴィッターヴァイツは驚く。やはり何かされてしまったらしい。
だがそこでふと思う。
本当にどうしようもないものか、と。
――いや。一つだけ違うと言えることがあった。まさにそれをつい先ほど思い知ったばかりではないか。
ホシミ ユウ。
奴の心の力とやらは、自身の【支配】に対する完全なカウンターになっていた。
ハルとかいう女もそうだ。ユウはあれでも立派なフェバルだが、彼女はれっきとした人間ではないか。
オレは結局、彼女を【支配】するどころか、ついには一度も屈服させることさえできなかったではないか。
――くっくっく。本当に皮肉なものだな。
己に最後の最後まで抗った者たちが、最も痛快に人間らしさを示してくれたのだから。
まあつまりは、フェバルの呪いも完全ではなかったということだ。
そのことに、いくらか救われた気分になっている彼自身がいた。
なぜだろうか。今さらになって、なぜ自分はあれほどユウを絶望させることに固執していたのかわからなくなってきた。
奴に関わる限りは、本物の人間と関われたというのに。あれほど望んでいたことではないのか?
嫉妬がないとは言えまい。だが全身全霊をかけてまで、奴の身の回りのささやかな平穏を壊しに行かなければならないものだったのか。望んでいたはずのことと、まったく逆のことをしてはいまいか。
そんなことも見えなくなっていたとは。まさに運命の奴隷だな、と彼は自嘲する。
それはともかくとして、目の前でくよくよと後悔を続ける姉貴を見てはいられなかった。
「姉貴よ。案ずるな。人はいた。ここにいたのだ。それで十分だ」
「ヴィット……」
J.C.の心は晴れない。
戦いは終わり、彼は人間の意地を認めた。
しかし【支配】ある限り、根本的な問題が解決したわけではない。ヴィッターヴァイツもJ.C.も、それは重々わかっていた。
だが、この先へ続く道が何も変わらぬとしても、【支配】に最後まで屈しない人がいた――その事実があれば、多少はマシな生き方ができるかもしれん。
今、彼は柄にもなくそう考えていた。ほんの少しだけだが、人間の可能性を信じてみたい気分になっていたのだ。
そんな気にさせた者。人の想いを繋ぐフェバルだったか。
「ホシミ ユウか……。何とも不思議な奴だ」
「そうね……」
「オレは、力では確実に二人を上回っていた。速度でも圧倒していた。負ける要素などない……はずだった」
「私も、正直目を疑ったわ。まさかあなたがね」
「くっくっく。だのに、ハルとやらには押し込まれ、ユウは……奴は死にかけの体で、我が拳を――フェバルの力など、まるでものともせず――フェバルの――」
――――。
「……姉貴。少し、一人にしてくれないか」
「ヴィット? どうしたの。突然」
「一人にしてくれ……。頼む」
ヴィッターヴァイツの声は、震えていた。
彼は押し寄せてくる感情の波を、もはや抑えきれそうになかった。
J.C.はそんな彼の様子を見て察した。頷くと、見守るような目を向けて、そっと離れていった。
そうして一人になると。
ほとんど意地だけでせき止めていた涙が、再び彼の目から溢れ出した。
まるで永い時を積み重ねた哀しみを洗い流すかのように。
滂沱の涙は、留まることを知らない。
なんとなれば。
「あの野郎……ふざけやがって。ちくしょう。なんてことをやってくれたのだ……。本当に……ふざけ、やがって……っ……!」
ほとんど掠れて、まともな声にならなかった。
ようやくわかった。あいつが本当は何をしたのか。
――使えなくなっていたのだ。【支配】が。
フェバルの力。ほんの少し意識すれば、当人にはわかる「使える」という感覚が、すっかり消え失せていたのだ。
あいつが本当に斬ったもの。
それは荒み切った彼の心の穢れであり、そして何よりも彼を苦しめていた|【支配】(もの)だったのだ。
よりにもよって。ホシミ ユウは。
奴は、この憎き敵に情けどころか、心底同情すらして、慈悲まで与えていたのだ!
フェバルの心だけを斬る。能力だけを斬る。そんな芸当ができる者が、この宇宙に果たしてどれほどいるというのか。ついぞ聞いたことなどない。
あのとき、瀕死の奴が見せた力は……普通の気などではあり得ない。ほんのわずかな間だけ見せた、あの光と力は――やはり錯覚ではなかった。
フェバルの力であってそうではない何か。フェバルの呪いをも断ち切る想いの力。
――そうか。そうだったのか。
ただ一人。敵として歴史上初めてその力を身に受けた彼だけが、最も早く真実の一端に辿り着いた。
天を仰ぎ、大の男がみっともなく嗚咽を上げながら、祈りにも似た想いを絞り出した。
ユウ。貴様だったのか……。
どこにもないと。
諦めていたはずの希望が、そこにいた。
あんな奴が。すぐそこに、いたのだ。
――そうだ。
あいつこそが、未来への可能性なのだ。
あいつこそが、ずっと求めていた救いだったのだ。
フェバルでありながら。その気にさえなれば、オレなど一蹴するほどの圧倒的なポテンシャルを持ちながら。
フェバルの力を呪いだとするならば、おそらくは誰よりも運命に呪われながら。
あくまで人であることを貫き続け、甘ったれた性根はそのままに。
これまで出会ったどのフェバルよりもフェバルらしからぬ、どのフェバルよりも優しいあいつは――やがてフェバルを超えていく。
その意志は、その刃は――いつか
根拠などない。単なる願望でしかないのかもしれない。
今の奴ではほど遠い。まだ遥かな夢物語でしかない。
ただそれでも、信じてみたい気持ちになった。
いつの日か。フェバルの救世主が現れることを。
――ああ。そうだとも。
貴様は、不倶戴天の敵であるはずのこのオレの運命すら、すっかり変えてしまったのだから。
***
「……そうか」
「どうしたの? 急に。何だかすごく嬉しそうだね」
ほんのわずか口元を緩めた『ユウ』の心情に目敏く気付いたユイは、彼ににこりと微笑みかけた。
「いや。何でもないさ」
穏やかに闇の向こうを見上げて、『ユウ』は頷いた。
――そうか。それがお前の答えか。
なら――それで良い。
お前は、それで良い。
……この世界の彼もユウも、当人たちは決して最後まで知ることはないだろう。
『ユウ』だけが知っている。
二人は必ず敵対し、殺し合う運命にあった。
『星海 ユウ』は、いかなるときも例外なく、常に『ヴィッターヴァイツ』を打ち滅ぼしてきた。すべてを滅ぼす黒い力をもって。
最初の頃こそ憎しみしか抱かなかったが、やがて『ユウ』も奴の事情を理解した。
あの星での出来事は『ユウ』も知っている。所詮は奴も【運命】に翻弄された哀れな存在に過ぎないのだと知った。
今はもう当時ほど憎んではいない。
だが、説得に意味がないことも知っていた。
手遅れなのだ。事情を話したところで、奴が止まることは決してない。
奴は滅ぼすことでしか止められない存在だった。奴が『ユウ』と対峙するとき、いつも人としての彼は既に死んでいた。
そうなってしまっている以上、『ユウ』に慈悲などあり得ない。
もちろんあのときのことを決して忘れはしない。幾星霜を経ようとも、決して許すはずがない。
奴個人の事情によって、それとは無関係の者たちの命を無意味に弄ぶことは、絶対に正当化されないのだ。
……たとえ意味があったとしても……許されることではないのにだ。
だから、殺した。殺し続けてきた。
だが――。
自分が入れた小さな楔。
そこから、星海 ユナは幾多の異世界を旅して、J.C.の命を助けた。また、星海 ユイが生まれるきっかけを与えた。
救われたJ.C.は、ヴィッターヴァイツに人の生き方を教えた。
おそらくは。そのことがほんの少しだけ、彼に人としての部分を残したのだろう。
生まれた星海 ユイは、目の前のこの健気な女は、星海 ユウの心を守った。それが星海 ユウの生き方を、あり方を変えた。
他にも色々な要因があるだろう。
一つ一つは、宇宙全体のことに比べれば取るに取らない、ほんの小さなずれだ。
だが、そうした様々な要因が折り重なって。
二人の運命は、確かに大きく変わったのだ。
……今はまだ小さな芽に過ぎない。
未だ本人も気付いてはいない。まだ真髄に届いてはいない。
限界を超えた戦いの最中、無意識に、無我夢中で放っただけの、わずかな光。
たった一度だけ起こした奇跡。
だが確かに。
それは、殺すだけしか能のない『彼』にはできないことだった。『彼』には決して見ることのできなかった可能性が、ここにある。
この日、このとき。
星海 ユウは、まだ『誰』も到達していない地点へ、ついに最初の一歩を踏み出したのだ。
……もしかしたら、今なら届くかもしれないな。
今となっては野暮かもしれないが。
『ユウ』は、打ちひしがれるかつての仇敵に向けて、ある記憶を飛ばした。
自分もついに、あいつの甘さに絆されたかと思いながら。
それは遠い昔、とある星の記憶。
イルファンニーナは、大地の豊饒を司る異常生命体だった。彼女の存在が、不毛の大地に実りをもたらし、村人の暮らしを可能にしていた。
ゆえに彼女は、はじめから【支配】の下にはない。「異常」生命体に、「正常」たるフェバルの力は及ばない。
すべての行動は、確固たる彼女の意志によって行われたものだ。
彼女は、【運命】に殺された。【運命】は、『そこから逸脱する可能性』をほんのわずかにでも持つ「異常」生命体の存在を決して許さない。
【運命】の奴隷であるフェバルが彼女らを観測したとき、触れ合ったとき、彼女らの死の【運命】は確定する。
それが、『彼』がどんなに足掻いても覆すことのできなかった、絶対の理なのだ……。
だから、あれは決して彼の罪などではない。
出会ってしまった。不幸な事故に過ぎない。
彼女は、【運命】に殺された。
……だけどな。見てみろよ。
なあ。見えるか。ヴィッターヴァイツ。今なら見えるだろう?
イルファンニーナは。お前が気まぐれと嘯いて気にかけたあの少女は。
惨たらしい拷問を受けて命尽きるその瞬間まで、お前に心から感謝していたんだ。
自分がお前を恨んでいると。そんな不幸な勘違いをしやしないかと、最期まで身を案じていたんだよ。
……お前は馬鹿だ。どうしようもなく愚かな奴だ。
けどな。あのとき、お前が彼女を救いたいと願ったその心は。その心から出た真の行為は、決して無意味なことではなかったんだ。
誰からも人として扱われていなかった彼女は。すべてを諦めていた。生きながらにして死んでいるようなものだった。
あのとき確かに存在していたお前の気高き心によって、彼女は人としての意義ある人生を取り戻したんだ。
お前は、彼女の命は救えなかったかもしれない。
だけどな。確かに、一人の少女の魂を救っていたんだよ。