約八千年前。トレヴァークが空前絶後の発展を迎え、一方ではアルトサイドの出現によって緩やかに破滅の足音が近づいていた時代。
一人の男が、この世界の存在に気付いた。
彼は因縁の相手である『星海 ユウ』を打ち負かすため、また宇宙の「歪み」を正すために暗躍していた。
『星海 ユウ』と相打ちになる形で、二度と完全回復できないほど深い傷を負った『始まりのフェバル』――アル。
衰弱していてもなお、彼の力があまりにも絶大であるために。なお、【神の手】は恐ろしく他を隔絶しているがために。
当時の彼は、直接向かい手を下さずとも、遠く宇宙の彼方より、個々の世界に対して決定的な影響を及ぼすことができた。
ゆえにユウもアニエスも、当時彼がトレヴァークの破滅に関わっていた事実を知ることはない。世界の記憶を映し出す魔法には、彼は決して映らない。
そもそも彼は、自らが先頭に立つやり方をあまり好まなかった。
【運命】がそうであるように、彼は必然の成り行きを好む。ほとんどの場合、彼ら自身の選択に、【神の手】はほんの少し後押ししてやるだけなのだ。
それで済む。それで事足りる。
なぜなら、「異常」は宇宙の総体に比べれば誤差に等しいものであるからだ。「異常」は排除されるものであると定められているからだ。
そして何よりも――【運命】は全知全能に最も近いものであると、彼は信奉しているからである。
――そんなあの方でさえ、完全無欠の宇宙など創れなかったというのに。
だから。
「何をやっているんだ。こいつらは」
ラナとかいう異常生命体とトレインとかいうフェバルが手を取り合い、世界創造の「女神ごっこ」を繰り広げているのを発見したとき。
アルは激しい憤りを露わにした。
「お前たち如きが。世界を創れるとでも。思い上がりも甚だしい!」
現に崩壊寸前ではないか。いたるところ綻びが生じ、日常的に闇が溢れ出す有り様だ。
放っておいても遠くない未来、いずれ闇は抑え切れなくなる。世界にナイトメアが溢れたとき、暴走した憎悪と殺意は破壊の限りを尽くすだろう。
まったく馬鹿な奴らだ。心底救えない者どもよ。
現実に妥協しないからそうなる。理想への願いによって、無謀にも願いを成そうとした愚かさによって、むざむざトレヴァークは滅びるのだ。
あの異常生命体は「予定」通り排除され、フェバルは絶望し、星脈に呑まれ逝く。
それがお前たちの、決して逃れられない【運命】だ。
だが……妙だな。
アルは違和感を覚えていた。
ラナは異常生命体である。しかしなぜだろうか。
トレインというフェバルに観測されているにも関わらず、実に数千年もの間生きながらえているのは。普通ならとっくに滅びていなければおかしい。
彼は調べるため【神の手】をかざし、すぐに真相を悟った。
「……トレインめ。『異常』化している」
極めて稀なケースであるが、異常生命体がフェバルを変質させてしまうことがある。異常生命体の影響を受け、フェバルが「異常」化してしまうのだ。それがラナの手によって起こされている。
「異常」化したトレインでは、【運命】の支配は絶対のものからわずかに弱まってしまう。奴との関わりによってラナが死ぬという「定められた結果」には、直ちには至らないのだ。
だが信じられない。そう簡単に起こることではない。
本来ならば、数千万の宇宙が始まりと終わりを繰り返す過程で、ただ一度あるかどうか。それもこんな元々の許容性の低い辺境で生じるようなものでは――。
――まさか。
「僕の力が弱まっているからか! ユウめ……!」
アルは吐き捨て、悔し紛れに歯軋りした。
彼こそは【運命】の実行者である。君臨すれども二度と顕現することのないあの方に代わり、大域的には宇宙を掌握できても小回りの利かないあの方に代わり、【運命】の力を宇宙の隅々まで行き届けるのは彼の役目だ。
そんな彼の力が弱まることは、「異常」の局所的発生に繋がる。
間違いない。
ラナはそうして生まれてきた「今回特有の」イレギュラーだ。
『星海 ユウ』ほどではないにせよ、本来現れるはずのない強力な「異常」個体なのだ。
「まずいぞ。少々まずいことになってきた」
「今回特有の」異常生命体がラナだけというのは、さすがに希望的観測が過ぎる。
果たして彼女のような存在が、まだどれほど「今回の」宇宙に生まれてしまったのか。
とにかく調べ上げ、徹底的に潰さなければならない。
万が一、彼らの内から第二の『星海 ユウ』が生まれないとも限らない。
あんな面倒でしつこい奴は一人だけで十分だ。
「どうしてくれようか」
ラナもふざけたことをしてくれた。本来生まれるはずのない異常な世界を創り上げた影響は――宇宙の局所的揺らぎの極大化である。
空間どころか、星脈に穴が開いている。これほどの所業ができてしまう異常生命体は、滅多にいるものではない。
非常に「強力な」個体だ。
実際、戦闘能力では大したことはないが、アルはそう判断した。
性質が厄介なのだ。
『星海 ユウ』に似た性質を持つ者――心的事象を現実に結び付ける能力の持ち主は。
理に囚われず、現実を超越する可能性を秘めている。
人との繋がりを完全に断ち切るよう仕向けた『星海 ユウ』は、実はその点についてはまったく恐れるに足らない。
あいつは単に戦闘能力が高いだけだ。自分がもしいつか負けたとしても、あいつの刃では【運命】には決して届かない。
だが、彼の前身である『彼女』は……。あの化け物は。
同じ女の異常者であるというだけで、幾分性質が似ているというだけで。
ラナに『彼女』の影がちらつき、アルの脳裏には永劫を経ても決して消えないトラウマが蘇ってしまった。
彼は身震いしながら、恐れを否定する。己に言い聞かせる。
「ちっ。あり得ん」
……あんな化け物。もう二度と現れない。現れてたまるものか。
――とっくの昔に終わった話だ。考えを戻そう。
トレヴァークの現状。
普通であれば放置するわけにはいかない。最悪、宇宙そのものが引き裂かれてしまうかもしれないからだ。
今ここでラナとトレインを始末すれば、穴は塞がるだろう。
だが。
アルは熟慮し、首を横に振った。
「いや、こいつは保険として使えるかもしれないな」
彼は考え方を柔軟に、方針を切り替えた。
今までの彼ならそうは考えなかっただろう。だが『奴』にあと一歩のところまで迫られ、現実の可能性として意識せざるを得なくなっていたのだ。
互いに傷は深い。『星海 ユウ』との決着は近い予感がしている。
奴も傷が深いから、まだ「この宇宙」には来られていないようだが……追ってくるのも時間の問題だ。奴に妨害されずに動ける機会は限られている。
あんな奴に負けるつもりは毛頭ないが……既に絶対の勝利が約束されているとは言い切れない情勢だ。
万が一があったとき、宇宙に開いた穴は復活への布石として使えるかもしれない。
ならば口惜しいが――ここは実利を取ろう。
傲慢にも世界を創造しようとした二人を。決して許されざる二人を、あえて利用する方向に。
ただ滅ぼすのは容易い。【運命】からは決して逃れられるものではない。多少「ずれた」としてもやがて近い結果には至る。
そのように世界は――宇宙はできている。
だが思い上がったお前たちには、そんなものでは生温い。お前たちに相応しい生き地獄を与えてやろう。
ああそうさ――お前たちは、他ならぬお前たち自身の意志によって、必ずそうするだろうからな。
アルは【神の手】を静かに上げ、ほくそ笑んだ。
「なに。僕がしてやるのは、ほんの少しの手助けだけさ」
虚空に向け、パチンと指を打ち鳴らす。
トレインとラナ。二人が心血を注ぎ、辛うじて押し留めていた闇の世界。
はち切れそうになっていた封印は、あっけなく破れた。
トレヴァークの各地に真っ暗な穴が口を開ける。
そこから這い出ようとしているモノたち。未だ姿形の定まり切らぬそれらは、しかし確固たる殺意を持っていた。
アルはそれらの各々望むままに形を与える。
人を噛み砕く牙を。人をすり潰す腕を。人を切り刻む刃を。人を窒息させるガスの身体を。人を闇へ引きずり込む触手を。
億千万の闇の軍勢が瞬く間に生まれ、一斉に飛び出してきた。
それらの中心で指揮を執るのは、エルゼムに良く似たのっぺらぼうである。
特に強力な個体として生み出されたそれは、フェバルであるトレインをも凌ぐ力を持っていた。
闇から生まれたモノたちへ、アルは感情のこもっていない声で後押しする。命令ですらなかった。
「さあ、好きなようにするがいい。闇の異形どもよ」
わざわざ自分が手を下す必要などない。
お前たちが否定し、押し込めたものによって、夢の世界は終わりを迎える。
僕に利用されていることなど気付きもせずに。
緩やかに進むはずだったものを、ただ少しばかり劇的にしてやっただけだ。
それが運命。それが現実。
だが、ラナよ。トレインよ。
どうしようもなく愚かなお前たちは、突然訪れる滅びという現実を果たして受け入れることができるかな。