クレコの初仕事の日から、約20年の月日が経った。
その間、空間に穴が開くような異常も散発はしたけれど、トレインの協力もあって水際で押さえられている。
今日はまた久しぶりの地方視察の日だ。いつもの通り、首都フェルノートはトレインに任せて、クレコと一緒にラナ=スチリアに向かう予定である。
「ラナ様。出立の準備が整いました」
「今行きますね」
声に応じて彼女のところへ向かう。
公務姿が板に付いた彼女は、口調こそ固いものの、表情は手馴れた柔らかいものだった。
「ふふっ」
「どうしました? 何かおかしいですか?」
「クレコもすっかり貫禄が出てきたわね」
「あーっ! 言いましたね! 最近ちょっとおばさんっぽくなってきちゃったかもって気にしてたのにー!」
あっという間に口調が砕けて、ぷりぷりし出した。
ついつい口元が緩んでしまう。こういうところは変わらないわね。
でも、クレコは本当に頼もしくなったわ。
あれから強くなるって、アカネさんと切磋琢磨してきたみたいで。
今では二人とも世界トップ級の実力者になっていると聞いた。
もっとも、クレコは世話係が目立つのはよくないからと影に徹し、アカネさんはあくまで受付のお姉さんであることにこだわった結果、知る人ぞ知るって立ち位置になっているみたいだけれど。
「そうそう。信じられます? アカネのやつ、ずーっと見た目若いまんまなんですよー。あんなの詐欺ですよもう」
「冒険者のみんなからお姉さんって慕われているそうですね」
ちゃんと夢を叶えたみたいで何よりですね。だからなれると言ったでしょう?
「そうなんです。お姉さんお姉さんって! あーあ羨ましい。変なの。何だかラナ様みたい」
「やっぱり相当特殊な人みたいね」
魂の感じが他とは違うのはわかっていたけれど、いよいよ本格的に特別な人間なのかもしれないわね。
「ところで、こちらの方は順調なのですか」
右手で丸を描き、暗に想い人を指して言った。クレコもそろそろ良い年齢ですからね。
「いやーあはは。漁ってはいるんですけど、中々お眼鏡にかなう男がいなくて」
「あらまあ」
魔法文明の発達によって、見た目を若く保てる年齢も、安全な出産が可能な年齢の上限も上がっている。晩婚化も進んだ。だからまだ40手前では、そこまで大きな問題ではないのだけれど。
「それは大変ね。そのうちお婿さん探してあげなくちゃいけないかしらね」
「いえいえ! そんなことでラナ様のお手を煩わせるわけにはっ!」
「ですが、お友達の幸せを考えるのも大切なことですからね。あなたの代で書記直系の血が途絶えるなんてのも悲しいですし」
「ううー、耳が痛い……。わかりました。今度アカネに良い男でも紹介してもらいます。あいつ、やけに顔が広いので」
「良い報告を楽しみにしていますよ」
「わかりました。素敵な相手見つけて、元気な赤ちゃん生みますので!」
そんな具合に談笑しつつ、お忍び用のワープクリスタルを使って聖地ラナ=スチリアに向かう。
最近では発音が鈍ってラナ=スティリアと呼ばれることも増えてきたらしい。言葉が変わってしまうほどの長い年月が経ったということだ。
「ラナ=スチリアと言えば、何といってもラナ様とご先祖様生誕の地ですよね」
「そうね。懐かしいわね。あの頃はみんな貧しかったから、わたしも農作業に駆り出されてね」
「ひええ。ラナ様が農作業だなんて。そんなことしてた時代があったんですねー」
「ふふ。よくイコには『あんたとろくさいのよー』ってデコピンされてたりしてたわね」
「それはご先祖様が大変失礼をば!」
「いいのいいの。イコだけはいつも対等に接してくれたし、なんだかんだとろい私の分まで手伝ってくれたし。だから、嬉しかったのよ」
「へえー。聞けば聞くほど、ラナ様とご先祖様って仲良しだったんで――」
パキン。
「え……?」
突然、何かにひびが入る音がして、私たちは振り返った。
ワープクリスタルが――。
あっという間の出来事だった。私たちが転移に使用したワープクリスタルが、粉々に砕け散ってしまったのだ。
「え、え? なんで?」
クレコは戸惑っている。
私は砕けた破片の一つを拾い上げ、首を傾げた。
「どうなっているのかしら。こんなこと初めてですよ」
私とトレインの力を合わせて創ったもの。そもそも壊れるようには設計していない。
なのにどうして……?
疑問に頭を悩ませていると、ラナ=スチリア市長が、血相を変えて部屋に飛び込んできた。
「ラナ様! 大変なんです! 役所のワープクリスタルが、突然すべて砕けてしまいまして!」
「なんですってー!?」
クレコは仰天し、頭を抱えた。私は努めて冷静に告げる。
「すぐに現場へ案内して下さい」
案内されて向かった現場では、確かにすべてのワープクリスタルが跡形もなく砕け散っていた。
ワープクリスタル自体は、トレインと一緒に作業をすれば直すことはできる。当面の間ワープが使用できなくなるというだけのことだ。
それだけのことのはずなのに。
私は妙な胸騒ぎがしてならなかった。
その予感はすぐ現実のものとなる。
今度は若い女性が、真っ青な顔をして役所へなだれ込んできた。
「大変です! 何か黒いものが! 妙なものがいっぱい、見えたんです! 地の向こうからっ!」
彼女から伝わるものは、明らかな恐怖の感情だ。
私は進み出て、彼女をなだめようとした。
「落ち着いて。まずは落ち着いて下さい」
だけど、彼女を落ち着ける余裕などなかった。
あちこちからパニックの声が上がり出したのだ。
「なんだあれはーーー!?」
「うわあああああーーー! 化け物の群れだああああーーーー!」
「大群が! 押し寄せてくるぞおおおおおーーーーっ!」
いつの間にか隣に立っていたクレコは、ぎゅっと服の袖を握っていた。
「もしかして、あのときの化け物が……?」
「行きましょう。何が起きているのか。この目で確認しなければ」
二人飛び出して、建物の上空へ飛び上がった。今ではクレコも立派な飛行魔法を使うことができる。
そして目にしたものは――。
地の果てを埋め尽くすほどの闇の軍勢だった。それらがすべて、この町を目指して進軍している悪夢の光景だった。
殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。
「あ、ああああ……」
私だけに聞こえる大量の怨嗟の声が、私の心を震え上がらせる。
なぜ。どうして。
今まで上手く抑えられていたでしょう?
どうして今なの。なぜこんな突然。これほどたくさんの闇が。
数だけではない。以前とは比較にならないほど、一体一体から感じる闇の力は強かった。どれも人を殺すのに適した姿形をしている。
冒険者の多いトリグラーブと違って、ラナ=スチリアは魔獣と戦える力を持つ者のほとんどいない町だ。このままではみんな。
どうしよう。どうしたら――。
「ラナ様」
パニックで狼狽えるばかりの私に向かって、クレコは優しい声色で言った。
けれどもその顔は、覚悟を決めた戦士の顔つきだった。
「心配しないで下さい。私がばちっと食い止めてみせますよ」
「ク、レ――」
「大丈夫です。戦うだけなら、私はもうとっくにラナ様よりずっと強いんですよ?」
やめて。行ってはいけない。
「ラナ様はここで守りを固めて下さい。そのうちトレイン様が助けに来てくれます」
あまりに多勢に無勢よ。きっと殺されてしまう。
引き留めなければいけないのに。
喉がカラカラで、ちっとも声が出てこない。
恐怖に震える私を、クレコはまるで子供に接するかのように優しく抱きしめた。昔ちょうど、私が子供の頃の彼女にそうしていたように。
彼女の想いが伝わってくる。こんなときのために力を付けて来たのだという自負と、死地へ向かう者の覚悟。
ああ。どうしてなの。かくも運命は残酷なの。こんな辛い覚悟をさせるために、聖書記になってもらったのではないのに。
やがて引き離すと、名残惜しそうに数秒だけ私の顔を見つめて、そして背を向けた。
もう振り返ることはなかった。腰に提げた剣をすらりと抜き、啖呵を切る。
「歴代一の聖書記。クレコ。ラナ様に仇なす敵を許しはしません! 推してまいります!」
「クレコ……!」
風を身に纏ったクレコは、滑るように空を駆けていった。
そのままの勢いで、闇の軍勢に向かって飛び込んでいく。最前列が弾け飛んだのを皮切りに、光と闇の凄まじい激突が始まった。