「最後は我が家か……」
「随分長いこと空けちゃったね……」
「うん」
ミッターフレーションの日以来、ずっと休業状態のままこの日を迎えてしまった。ユイに至っては、店に帰ることもあれから初めてだった。
すっかり夜も遅くなってしまった。家は、二階の一部の個室に明かりが付いている他、一階の食堂には申し訳程度の小さな明かりが付いているだけだ。他は真っ暗である。
「「ただいま」」
両開きの扉を開けて入る。
営業中は連日満員で賑わっていたこの場所も、今はがらんとしていた。
ジルフさんまでがトレヴァークに救援へ向かってしまい、レンクスは今もどこにいるのかわからない。店に残っているのは、ミティとエーナさんの掃除係コンビだけのはずである。
その二人の活躍のおかげか、店はあの日のまま、ピカピカに綺麗なままであった。
俺たちが自分であしらえた、温かみのある木製のテーブル。その椅子に二人並んで腰掛ける。
駆け足で世界を巡った。忘れていた疲れがどっと襲ってきた。身体よりも気持ちの方がずっと重い。
俺たちの帰りに気付いたのか、上の階からどたばたと足音がする。
まもなく、エーナさんとミティが一階に姿を見せた。
「おかえりなさい。ユウにユイちゃん。待ってたわよ」
「おかえりなさいですぅ。ユウさん! それにユイ師匠!」
「会いたかったですよぉ~」とユイに思いっきり抱きつくミティ。
そうだよな。本当に死んだかもしれないって心配してたんだもんな。みんな。
ユイは優しい微笑みを浮かべて、よしよしとミティの頭を撫でていた。ミティがユイの胸に顔を埋めている間、隠しきれない憂いを俺とエーナさんだけには見せながら。
ミティとも、これが最後になってしまうんだよな……。
アニエスは、エーナさんにはすべての事情を話したことだろう。
エーナさんも、どうしたらいいのかわからない。そんな表情を浮かべていた。
ただ、俺たちのこれからしなければいけないこと、その重さはよくわかっていて。
「大丈夫なの?」と言いたげに心配な目を向けてくる。俺は首を横に振ってから、しっかりと頷いた。
大丈夫ではない。でも段々と覚悟は固まりつつある。そういうニュアンスだった。
エーナさんは、俺の意図を正しく理解したらしい。目を潤ませて、
「そう……。そうよね。それが、フェバルなのよね……」
俺たちにしかわからない言葉を、重々しく呟く。
過去、誰一人として殺すことで救えなかったエーナさん。ユイだけがもう一人の「俺」から聞かされた、当人にも決して言えない残酷な真実。
「エーナさんにはフェバルとなる者を絶対に殺せない」という運命。「あらかじめ【運命】によって決まっていることがわかってしまう」という呪い。
その残酷さを永きに渡り痛感している彼女だから、苦しめられ続けている彼女だから、今の俺たちの気持ちも痛いほどわかるのかもしれない。
俺たちも、俺たちの運命に向き合わなければならないときが来ている。
決して受け入れるのではなく、逃げるのでもなく、正面から向き合って、断固として戦わなければならないことを。
負けたくないけれど。今回ばかりは一定の敗北を認め、決断しなければならないことを……。
ユイとのスキンシップをたっぷり味わったミティは、今度は俺の方に飛びついてきた。
「ユウさ~~ん!」
しっかりと受け止め、頭を撫でてやる。
寂しかっただろう。この数カ月はほとんど相手してあげられなかったからな。
存分に甘えてきた後、寂しそうな声で彼女は言った。
「また、すぐに行ってしまうんですか?」
「うん。また……もうすぐね。行かなくちゃならないんだ。次の戦いに」
「なんだか最後のケリ付けに行くぞって顔してます」
「……そうだね。わかっちゃうか」
妙に直感の鋭いこの子は、ずばりと本質的なことを言い当てることがある。
「……それが終わったら、またお仕事に戻れるんでしょうか? またみんなで笑い合って、いっぱいやってくる依頼をこなしていく、あの日常に戻れるんでしょうか……?」
「それは……」
言い淀んでいると、ユイが横から口をはさんだ。この子に対しては隠し通せないと思ったのだろう。
「ごめんねミティ。お店は……畳むことにしたの。私たちは、これから最後の仕事をしに行くんだよ」
「そう、ですか……」
意気消沈するミティ。
俺たちがいなくても、一生懸命掃除係を続けてきた。この子なりの気持ちはわかっている。
いつもここを綺麗で安心できる家にしておけば、いつかは戻って来てくれる。そう願っていたんだ。
それを、そんな健気なこの子の気持ちを、俺たちは裏切ってしまうのだ……。
「ごめんな……。本当にごめん。せっかくずっと待っててくれたのにな。俺たち、ひどいよな……」
ミティは何を想うのか。しばし瞑目し、何かを堪えるように歯を食いしばって、大きくため息を吐いて。
そして、文句一つ言わなかった。
「……ううん。謝らないで下さい。ある程度、覚悟はしてました。お二人がどこかで頑張っているのを信じてて。それが本当で、私、とっても嬉しかったんですよ?」
無理に口角を上げて、微笑む。
「今まで、ありがとうございました。本当にたくさんのことを学べました。おかげ様で、故郷に帰っても、今なら腕を上げた料理で万客を呼べそうな気がしてますっ!」
「「…………っ」」
ああ。どうして。こうも痛いところを的確に突かれてしまうものか――。
君には、帰るべき故郷は……もうない。
港町ナーベイは、君だけを残して滅んでしまった。
それに……君に残された時間すら、もう。
――思えば、この子にはどこまで不幸が纏わりついているのだろう。
ただ、女の子になりたかった男の子であるというだけで。
本当に何でもない、ただちょっと毒気のあるだけの、根は優しい普通のいい子なのに……。
両親からは疎外され、誰にも秘密を打ち明けられない孤独を抱えていた。
必死さから、俺に過剰にアプローチするような過激な行動も取ってしまい、誤解されがちだった。
繋がって、やっと君の本当をわかってあげられたと思ったら。
今度は実の両親と分かり合う前に、ヴィッターヴァイツの手で殺されてしまい……。
ラナソールには、もはや帰るべきところもなく。
現実の君は、きっと身近な知り合いをすべて失って。
俺たちももう、どちらの君とも一緒にいられない……。
この『事態』が解決したら。現実の君はたった一人、アロステップという町で――。
――――おい。待て。
待ってくれ……っ……!
『アロステップって、まさか……』
『……! ミティ!』
アロステップは……小規模の町だ。
ハルから、定期連絡は受けていた。
ナイトメアの大襲撃で、あそこは。あの町は……!
気の急くまま、俺はミティの顔に手を触れる。
そして、すべてを悟った。
あ。あああ……。
ない。繋がりが――どこにも、ない――。
彼女の「切り離された魂」の奥に通じているものは、感じられるものは。
ニザリーと同じ。真っ暗で底冷えするような……死のイメージだけだ。
「あ……う、あ……」
彼女の片割れ。現実世界のミチオは、もう……っ!
目の前が真っ暗になり愕然と項垂れる俺の、触れていた手を、ミティは優しく握り返した。
「あはは……バレちゃいましたか。やっぱ、敵わないですねぇ。……最後まで猫被ってようって、そう思ってたんですけどね。得意だったのになあ……」
無理に作った笑顔のまま、ぽろぽろと涙を零し始めるミティ。
すべてを察したエーナさんは、もう見ていられなかったようだ。俺を押しのけて、ミティを強く抱きしめていた。
「ミティちゃん……! あなたは……あなたって人はっ!」
「もう。痛いですよぅ……。フェバルってほんと馬鹿力なんですから、ね」
「「ミティ!」」
俺たちももう、とても涙を堪えられなかった。嗚咽を上げながら、エーナさんの両脇からミティをいっぱいに抱きしめていた。
どうしてだよ! どうしてこんな健気な子が、死ななければならないんだ……!
運命のクソ野郎……!
「みんなぁ、泣き過ぎですよぅ……」
「なんで……なんで黙ってるんだよ……っ! わかってるのに、どうして恨み言の一つも言わないんだよ……!」
「バカですね。あんなに頑張ってるの見てて……っ……大好きな人を、恨むわけないじゃないですかぁ……! それに、ユウさんとユイ師匠が、優し過ぎるからですよ? きっとまた、たくさん泣かせちゃうと思って……っ……!」
「バカ……! そんなの、我慢しなくたっていいの……!」
四人とも、わんわん泣いていた。それ以外に、どうしたらいいのかわからなかった。
「……だったら、一つだけ。最後にわがまま、いいですか?」
耳元で、俺に向けて囁く声がして。
頬に手を触れられたと思ったときには――正面から唇を奪われていた。
無理やりねじ込んで絡みつくような、押しの強い、彼女らしいキス。
時間にして、ほんの数秒。今だけは自分のものだと、いっぱいに主張して。甘く苦い感触を味わって。
名残惜しそうに、唇が離れる。
目を瞬かせる俺に、ミティは涙をいっぱいに溜めて微笑んだ。
「どうかせめて、忘れないで下さい。私という女の子がいたってこと。残念ながら、ハルちゃんには負けちゃいましたけど……私だって、ほんとに好きだったんですよ……?」
「……ああ。ああ……! 忘れないさ。絶対に、忘れない……!」
そうして、みんなで固く抱き合っていると。
突然――ガランと、両開きの扉が開いた。
哀しみの静寂を貫く、快活な声が店内に響く。
「あっ! いたいた! やっといてくれた! ユウお兄ちゃんとユイお姉ちゃんだ!」
「え!?」「ワンディくん!?」
忘れもしない、記念すべき最初の依頼者である。
あれから二年以上が経ち、背も伸びて元気な少年になっていた。
足元には、すくすくと大きくなったモッピーを連れている。
「どうしてこんな時間に……?」
「また来たんですか……」「また来たのね」
ミティとエーナさんは、そんなに驚いていないようだった。何でも、世界崩壊のあの日から、実はちょくちょく来ていたらしい。
「へへ。ずっと会いたかったんだ。言いたいことがあってさ」「きゅー」
「なあに?」
優しく尋ねかけるユイに、ワンディは笑顔で答える。
「素敵な時間をありがとうって。これ、夢なんでしょ?」
「な……どうして?」
「知ってるよ。僕、まだ夢見がちな子供だからね。最初は忘れるかもって心配してたけど。案外夢だってことは、よく覚えてるもんだね」
さも何でもないことのように言ってのけるワンディに、こちらがひどく驚かされる。
「君、まさか。もう全部、知ってるのかい……?」
「うん。モッピー、あっちだともう死んじゃってるんだ。だけどさ、お兄ちゃんとお姉ちゃんが助けてくれたから。だからこうして、一緒に過ごせたんだよね」
かがみ込み、モッピーの頭を愛おしむようによしよしと撫でてから、彼は決意を込めて言った。
「だけどもう、大丈夫だから。僕たち、こんなはっきりした形なんてなくっても――もう大丈夫だからさ」
「きゅきゅ!」
モッピーも一緒に、キリッとした鳴き声を上げる。
「ちゃんとここに生きてるから」と、胸を指し示し、にっと笑うワンディ。
それを見ていたミティもはっとして、途端に元気付いて張り合った。
「私だって……! 私だって同じ気持ちです! さっきしっかりと刻み付けましたからぁ!」
「「ワンディ……。ミティ……」」
本当はつらくないはずなんかないのに。
どうして君たちは。そんなにも強く――。
「ここには、依頼をしに来たんだ」
俺たちの目をしっかり見つめて、ワンディは切り出す。
「もう知ってると思うけどさ。現実ではね。夢想病で苦しんでいる人たちが、いっぱいいるんだ。僕の友達も、知り合いの家族も。みんなやられちゃって。それになんか、怖い悪夢みたいな化け物にいっぱい襲われてて……」
ぎゅっとリードを握りしめたワンディは、精一杯の勇気で頭を下げる。
「だからお願い。ユウお兄ちゃん、ユイお姉ちゃん。悪い夢なんかみんなやっつけて。みんなを助けてあげて」
「「……………………………………」」
「あっ、報酬は……。いっぱいのありがとうしか、言えないけどさ。……足りるかな?」
「「……………………………………」」
――それは、奇しくも最後の依頼と同じだった。
いや、これこそが本当に最後の最後の依頼だ。
ラナさんに頼まれたとき、俺はどうしても覚悟ができなかった。
ランドに詰め寄られた後、本当に心が折れていた。
だけど、よりによってあのヴィッターヴァイツに叱咤激励されて。
ユイに慰められて。一緒に背負うと言ってくれて。
みんなと出会って。みんなの想いを知って。
何も知らないまま、励ましてくれた人たちがいっぱいいる。変わらず続いていく明日を夢見ている人たちだってたくさんいる。
事情を悟って、あえて恨みを隠さないまま応援してくれた人もいる。おそらく事情を知りつつ、何も知らないふりをして、バカをやって背を押してくれた人たちもいる。
すべてを知りながら、健気に送り出してくれる女の子がいる。
そして――。
「大丈夫。ちゃんと足りてるよ」
「ほんと?」
俺はしっかりと頷いて、丁重に依頼料を受け取った。ワンディの想いを受け取った。
「君の依頼、確かに承った」
「任せて。お姉ちゃんとお兄ちゃんはね」
「「すごく強いんだ」」
みっともない涙の痕を晒しながら。それでも精一杯笑って。
力強くサムズアップして、そう答えた。
「うん……! うん! がんばれ! まけるな! ユウお兄ちゃん! ユイお姉ちゃん!」
「まったく。あなたたちって子は……!」
「それでこそ私の一番大好きなヒーローですぅ! 世界を、みんなを頼みましたよ! ユウさん! ユイ師匠!」
――――ああ。
俺たち、行くよ。
悪夢をみんなやっつけに、行くよ。
この世界を終わらせて。もう一人の君たちを救うために……行くよ。
……でも、その前に。
一つだけ。大事なケリをつけなくちゃいけないだろうけどさ。