俺は炎龍と睨み合う。
数瞬ほど身を裂くような静寂が場を包む。それは間もなく弾ける緊張の高まりの現れだった。
煮え繰り返りそうな激情を身に宿しながらも、一方ある部分で俺は冷静だった。
こんなときこそ感情だけで戦ってはいけない。
龍は巨体に似合わずスピードが速い。常に気力強化をフルにかけて戦う必要がある。
だけど気を付けないと。
この身体で出せる最高速で動けば、宙で急に方向転換するのは難しい。女になって空中で魔法を使ったとしてもだ。
男のときは女と違って、魔法で攻撃を防ぐこともできない。
跳び上がっている隙を突かれて、長い尻尾で叩かれたり、火を吐かれれば一たまりもないだろう。
しかし、跳び上がらなければならない場面も多いはずだ。
ここは地形を利用しよう。木々という足場を上手く使って方向転換する。
空中での隙を最小限に抑え、トリッキーな動きで奴を翻弄するんだ。
方針が固まったとき、ついに炎龍は動き出した。
挨拶代わりのブレスが襲いかかる。
地を蹴り、横にステップしてそれをかわす。
息吐く暇もなく、尻尾による薙ぎ払いが迫る。
俺は素早く跳び上がると、目に付いた木の側面に、地に対してほぼ横向きで足を付けた。
さて。どうなる。
重力が身体を落とすよりも先に、腰のポーチから素早くスローイングナイフを一本取り出し、気を込めて強化する。
そいつを炎龍の柔らかい部位、腹に向かって思い切り投げ付けた。
その行方を確認しないまま、木の側面に付けた足を蹴り出して、別の木へと跳ぶ。
無事向こうの木まで辿り着いて、再び炎龍の方を見やると。
ナイフは腹にしっかりと刺さってはいたが、当の炎龍はまったく意に介していない。
あまりに分厚い肉の壁の前に、ほとんど有効打にはなっていないようだった。
やっぱり気休めに過ぎないか。
直接気剣を当てない限り、まともなダメージは見込めないだろう。
だがそれにはなんとかして奴に接近しなければならない。
俺単体では、あまりに無謀な挑戦だった。
炎龍は木に止まっていた俺に向けて、巨大な火球を飛ばしてきた。
今度は木の側面に対し斜め下に向かって蹴り出し、地面にさっと飛び降りてかわす。火球は木々を次々と抉り、焦げた臭いを残して空の彼方へと消えていった。
――俺単体では、確かにあまりに無謀だ。
でも俺には、もう一つの身体がある。
攻撃後の一瞬の隙を突いて女に変身すると、私は自分に魔法をかける。
使うのは水の加護。ミリアが得意とするのを教えてもらったものだ。
おそらく一度だけは炎を防いでくれる。
《ティルアーラ》
ついでに《ファルスピード》もかけ直しておく。これでバフは整った。
炎龍から視線を切らさないようにしつつ、次の変身の機会を窺う。
すると炎龍は突然、奴のすぐ横にあった大岩を、その鋭い脚の爪で思い切り叩きつけた。
苔のむして年季の入った大岩は、凄まじい龍の膂力によって容易く砕かれる。
破片は無数の岩石の弾となり、こちらへ飛んできた。
なっ!? 岩つぶて!
龍にとって児戯に等しい力任せも、人には致命傷足り得る。
もし当たって動きが止まるなどすれば、間違いなく一巻の終わりだ。
予想外の攻撃に焦ったが、辛うじて避けることには成功する。
そっちが土なら、こっちも土だ!
私は地面に両手をつき、拘束の土魔法を使った。
鋼鉄の鎖。縛れ。
《ケルチェイン》
土中の鉄分を利用して、鋼の強度を持つ鎖を練り上げ、龍の脚元に絡み付ける。
ただ、人間に対しては決定打となり得るものも、強靭な龍の力の前では、ほとんど紙切れ同然に破られてしまう。
だがわずかな間の動揺は見込める。それだけあれば十分だ。
男に再変身する。
走りながら気剣を生成し、全速力で奴に向かっていく。
狙うは龍の首。全力で叩き斬る!
気を集中すると、込めた力と想いに沿って、気剣は青白く輝く。
見舞うは、イネア先生直伝。必殺の一撃。
《センクレイズ》!
剣筋は綺麗な弧を描き、見事に狙い通り、首の側面にヒットする。
まともに当たりさえすればこの半年、これまでどんな敵でも斬り抜いたこの技。
俺が全幅の信頼を置いていた、最強の必殺技は――。
しかし、首の皮一枚を削るだけで、止まってしまった。
なぜ――。
そこではっとする。
気が龍の首に集まって、斬撃を防いでいることに。
まさか。
龍も気を操ることができたのか……!
気の強さは生命力に比例する。防御さえ間に合えば、人の攻撃を受け切ることなど容易い。
今度は動揺したのはこちらだった。
その一瞬の隙を、炎龍は見逃してくれない。
炎のブレスが至近距離で放たれる。
全身に熱波が迫る。
水の加護が盾となって、焼き尽くされることだけはどうにか防いでくれた。
それでも軽度の火傷は避けられない。
痛みをこらえつつ、地面に降りると、即座にバックステップして一度距離を取る。
動揺したままでは戦えない。落ち着かないといけない。
そう必死に自分へ言い聞かせる。
危なかった……! もし爪での直接攻撃が来てたらアウトだった……。
九死に一生を得た俺は、全身に嫌な冷や汗が流れるのを感じながら、目の前の圧倒的強者を見つめた。
魔法が一切通じない。気剣も防がれる。スペックはほぼすべて向こうが上。
一つ一つの要素を検討していく。やがて、理性は絶望の答えを導き出した。
はは……まいったな。
勝てない。
炎龍は、弱者たる俺の命を狩り取らんと、大地を踏み固めながらゆっくりと歩み寄ってくる。
その強者の余裕と言うべき悠然たる歩みの前に、俺は為すすべもなく立ち尽くしていた。
まるで人の身で龍に抗おうとした愚か者に、死の裁きを下す儀式のように思える。
俺はもう諦めかけていた。あんなに諦めるなと思っていたのに。
どうしてこんなに簡単に心が折れてしまうのか。どうしてこんなに弱いのか。
力なく俯いた。
ふと、手作りのウェストポーチが目に入る。
そのとき、先生が教えてくれた言葉を思い出した。
修行のときに口を酸っぱく言っていた、基本の基本。
『弱い場所を狙え。意識の隙間を狙え』
瞬間、目が覚めるような思いだった。
気付いたんだ。簡単なことだった。
奴は俺の気剣の攻撃を、わざわざ気を集めて「防がなければならなかった」ことに。
つまり、つまりだよ。
そうでない場所を。意識の隙間を狙って攻撃すれば――通る可能性が高い!
そうか。諦める必要なんてなかったんだ。
希望が見えれば、人間というのは呑気なものだ。
どんなに絶体絶命な状況だって、力が湧いてくる。
やってやる! もう一度こいつに、一泡吹かせてやる!
突然顔を上げ、意気盛んに動き始めた俺に、さしもの龍も意外そうだった。
だがすぐに戦闘態勢へ移る。王者は一匹の小物を狩るにも油断はしない。
さあどうする。またいきなり首を狙うのは警戒される。
どこでもいい。まずは奴に通る攻撃を当てるんだ。
そのとき――。
グアアアアアアアアアアア!
至近で咆哮が響く。
つんざくような爆音に、俺は思わず両手で耳を塞いでしまった。
人の性質上、怯んでしまうのは避けがたい。
そこに、爪による引っ掻き攻撃が襲い来る。
単なる引っ掻きと言っても、それ自体が大岩をも砕く必殺の一撃だ。
染み付いた基本の動きは、意識よりも早く俺の身体を勝手に動かしてくれた。
バック宙でかわすと、地に大きな爪痕が刻まれる。
爪が直接届くほどの接近戦。
それだけ危険だが、その分こちらの攻撃も届きやすい。
びびって逃げずに、ここでチャンスを作る!
宙返りの体勢のうちに女に変身すると、目を瞑って至近距離での攻撃をやり返す。
《フラッシュ》
強烈な光が、龍の目を眩ませた。
地面に降りた私は、すぐさま飛行魔法を駆使し、炎龍の頭上まで飛び上がった。
人間と違って視力の回復が早いのか、そこに辿り着く頃にはもう、炎龍ははっきりと私の姿を捉えていた。
飛行魔法を切って、自由落下する。
落下の威力を攻撃に利用する。
炎龍は火球を吐いた。このままでは直撃だ。
だが女の私には当たらない。
回転しろ。
《ファルスピン》
空中で風を噴出しながら身を捻ると、火球は私のわずか横をかすめていく。
そのまま魔法を使い続けて、限界まで回転を速めていく。
目まぐるしいほどに視界は回る。この遠心力も攻撃に上乗せする。
十分に加速したところで、私は男に変身した。
そして、気剣を左右の手から同時に出す。二刀流だ。
二つともに気を集中し、どちらの刀身も青白く輝くオーラで包み込む。
狙うのは背中。滑るように肉を斬つ!
《センクレイズ・リボルブ》!
火花散るような衝突と同時。
俺は激しく身体を回しながら、二つの剣を次々と突き立て、巨体の背中から尻尾にかけて、乱舞のごとく斬り裂いていった。
畳み掛ける連続攻撃に対しては、気をどこに集中させようともすべてを防ぐことはできない。
このとき炎龍は初めて、痛みに顔を歪めるような唸り声を上げた。
最後に尻尾の先っぽ、一番細いところを完全に斬り落として、俺は地面に滑り落ちた。
よし! 手応えありだ!
今の攻撃で、炎龍の認識が変わった。
完全に俺のことを強敵と認めたようだ。
それまでのように力任せに攻撃してくることはなくなり、ますます手強い存在と化した。
もうあのような無茶な攻撃も届かなくなり。お互いに決定打がないまま、戦況は膠着していく。
気付けば、少なくとも数時間が経過し、空は夜明けを前にして白み始めていた。
手強くなってさらに倒すのは絶望的になった龍だが、これは悪いことばかりではなかった。
その分時間を稼ぐことができたからだ。
俺が振り絞った命知らずの勇気が、結果的に命を繋ぐことになった。
だが龍の体力は無尽蔵であるのに対し、俺の体力はあくまで人間レベルに過ぎない。
徐々にスタミナの差が、そのまま動きの差となって現れてきた。
やがて、蓄積した疲労が動きを鈍らせ、ついに炎のブレスの直撃を許してしまう。
しまった!
さすがに死を覚悟した。
そのとき、横から声が届く。
心強い友達の声が。
「水の守護。かの者を包め! 《ティルアーラ》!」
ミリアだ!
本家の《ティルアーラ》が、俺を炎から完璧に護ってくれた。
さすが本家だけあって、追加の火傷すらも一切許さない。
「助けに来たよ!」
少し遅れて、アリスが飛び込んできた。
笑顔を向けて、俺の前にかばい立つ。
頼もしい二人の姿に、疲労困憊の俺は、敵の目前にも関わらず顔が綻んだ。
再び力が湧いてくる。
ああ。仲間がいるってこんなに嬉しいことなんだ。こんなに安心できることなんだ。
「そっちはなんとかなったのか?」
「まあね」
アリスの顔つきが真剣なものに変わる。
「聞いて。ライノスたちは操られてたの。変な装置でね」
「なんだって!?」
じゃあ、まさか。
その予想はすぐに当たる。
相手を直接見ての魔力感知なら、女の俺よりも得意なミリアが言った。
「この龍も、何かの魔法で操られてるみたいですよ。頭のところの魔力の流れが変です。闘争本能だけで無理に逆らっているみたいですね」
「そうか――。勝機が見えたかもしれない」
別に倒す必要はない。
洗脳を解いてやれば、もしかしたら大人しくなるんじゃないだろうか。
確実ではないが、他に手はなかった。
いかに三人と言えども、こいつを倒せるビジョンは見えない。戦っていてそれは痛いほどよくわかった。
でも、魔法を解除するだけならば。
攻撃だけならできたんだ。もう一度やってみせる!
「その魔法を解除してみよう! 二人とも力を貸してくれ!」
「オッケー!」
「もちろんです!」
三人で龍と対峙する。
木々の向こうから、朝日の光が差し込み始めた。
決着は近い。