思ったよりもずっと早く、奴はもう追いついてきた。
上空より、『加護足』の空中制御を駆使して悠然と舞い降りてくる。
まだ半日と少ししか経っていない。こっちはまだ万全には回復し切っていないってのに。
「短い鬼ごっこは楽しめた?」
「まるで最初から私たちの居場所がわかっていたみたいだね」
「さてどうかしら」
煙に巻くようにはぐらかし、自然体に構えるアイ。
メリッサは『至天胸』の防護を張り巡らし、自身とイプリールを護る。
私にも護りを付与し、せめてものサポートをしてくれていた。
「また逃げないの?」
「どうせ逃がす気はないんでしょ」
「ふふ。そうね。そのために、いっぱい食べてきたのだから」
アイが力を解放すると、同時に歪められたたくさんの者たちの感情と欲望の坩堝が顔を覗かせる。
普通の人たちならば、喰われた時点で消化されて、ほとんど無になってしまうはず。
そうか。お前、大量のTSPを。TSFのみんなを……!
私だけが逸早く悟った事実にまたも動揺させられてしまうが、こいつなら当然やるだろうと歯を食いしばる。
「私もみんなも、ただお前に喰われるために生きてきたわけじゃない」
「見解の相違ね。みんなわたしになるために生きている」
一度男に変身し、心力を練り込めた気剣を構える。
あの技の威力は込めた魔力量に比例する。
こいつを倒すには、無駄な魔力は一つも使えない。
外せば最後。一巻の終わりだ。
「何度やっても無駄だと。わからないの」
余裕たっぷりに煽りながらも、奴は冷徹な目でこちらをじっと観察していた。
俺がただ無駄な戦いを仕掛けないことを、人の心のわからないあいつはちょっとした仕草や表情で判断している。
何かを狙っていることまではもう見抜いているだろう。
恐ろしい敵だ。本当に。
じりじりと間合いをはかり、やがてどちらともなく激突した。
前回の戦いから、双方大きく変わり映えしたわけではない。
瞬間移動と超高速移動によりポジションの取り合いと、剣と触手、体技と体技のぶつかり合いが中心となる。
アイは取り込んだ多彩な超能力を牽制や驚かしにと使ってくるが、どれも『加護足』に比べれば格はかなり落ちる。
気を付けて対処さえすれば、各々問題なく捌くことはできた。
だがやはり『加護足』の強力な攻撃と、【侵食】を通すことだけは致命傷になる。
足技と絡み付き等には念入りに注意して、慎重にならないと。
「うふふ。可愛い。怖くて仕方がないのね。剣が縮こまっているわよ」
「うるさい。黙れ」
男の方が【侵食】への耐性が明らかに低い。
濃厚接触を避けるため、ここぞの踏み込みはどうしても浅くなってしまう。
そんなことはわかっているんだ。この姿で倒そうなんて思っちゃいない。
どうにかして、決定的な隙を作ることさえできれば――!
こいつには、効かない攻撃をあえて受ける癖がわずかながらにある。
生来きっての煽り魔であり、愉快犯。俺の生命力が大好物なのもあるか。
人とかけ離れたあり方にあって、その行動原理がまったく欲望に忠実なのが、唯一はっきりしていることであり。
隙と言えば隙だと言えなくもない。ならば。
「
あえて気迫を込めて宣言し、手にした剣を高めていく。
白の気剣は想いを込めて、目の覚めるような青白色に変ずる。
そして、剣閃を放つ。
《センクレイズ》
今撃てる最大威力の一撃だ。
殺すつもりに嘘偽りはない。そうでなければ容易く見抜かれてしまう。
現状は純粋心力で剣を構成できない以上、込めたパワーに応じて生命エネルギーも相応に混ざり込む。
――まずは食いついた。
肩口から腰の根元までにかけて、アイの身体が綺麗に裂ける。
だが通常の人間ならば絶命たらしめる一撃は、やはりこの化け物にとってはデザートにしかならない。
「ふぅ。何度味わってもいいものね。ユウのは」
アイの身体が、いつものように再生を始めようとしたとき――。
びくりと跳ね、硬直する。
奴ははっと気付き、たちまち不機嫌になって後方の一点を睨み付けた。
《封函手》の念動力が、アイの動きを止めている。
【神の器】の念話ですら、こいつは『響心声』で割り込んでくる。とんでもない奴だ。
一切合図を送ることもできなかった。
でもちゃんと意図はイプリールに伝わった。やってくれた。
ここしかない――ここで決める!
女に変身した私は、既に『内側』で技の準備を済ませていた。
残存するすべての魔力を、左拳の一点のみに集中させ。
目も眩むばかりの黄色い輝きが包み込み、凝縮し高められていく。
アイの胸部目掛けて、祈るように突き出した。
コツン。
物理的には何らの威力も持たない、気力強化した男に比べればごくか弱い女の拳。
当てるだけの衝撃と同時、カッと一瞬のみ閃光が走る。
迸る光はすべて、敵の体内に吸い込まれて消えていく。
見た目にはそれ以外、何も起こらない。
だがこれで上手くいっていた。
「…………」
アイは私の拳の触れたところ――半ば呆然と自らの胸を見下ろして。
ようやく自分が何をされたのかを悟ったようだ。
《爆光拳》
この技は莫大な魔力を体内に直接叩き込むことにより、内側から粉々に爆散させる。
全身隅々まで効力を高めるため、発動までそこそこタイムラグがあるけれど。
一撃必殺の拳。完全に入ってさえしまえば、もう逃れる術はない。
こんな惨たらしく殺すためだけの技、できれば使いたくなかった。
でもそうしなければ、お前には……。
「あと一分だよ」
これから惨たらしく死ぬことになる。アルシアの顔を直視したくない。
わずかに目を伏せて、余命を告げると。
「そう……。何を狙っていたかと思えば」
きゃはははははははははははははははは。
今にも死にゆくというのに。
アイは一向に気にせず、心底愉快に嗤い続けている。
「だから何が可笑しいの! お前はそうやって、ずっと! ずっと! 人を馬鹿にして!」
「あーあ。ほんと馬鹿馬鹿しくて、笑っちゃったのよ」
お前の浅はかさと、自己矛盾に。
「ひどい人。みんなを救いたいと言っておきながら、その手で殺してしまうのだから」
は……?
「何を、言ってるの……?」
ひどく嫌な予感がする。
何か。何か決定的な見込み違いをしていたのではないかと。
さっと血の気の引いていく私を、アイは舐めるように見つめて嘲る。
「それとも。あなたにとっては、殺すことが救うことなのかしら?」
こいつ、何を。
「うふふ。どうやら
歯を剥き出しにして、いっぱいの愉悦に顔を歪め。
パチンと指を打ち鳴らすと。
アイの。そしてアルシアとアマンダの交じり合った気配が――忽然と消えた。
その場にはただ、彼女の肉体が取り残されている。
「な……え……?」
いや、いやいや。
待って。おかしい。おかしいよ。
確かにあいつは、アルシアとアマンダを取り込んだ個体。
散々死闘を繰り広げてきた、正真正銘のアイだった。
目の前のこいつは、本物だ。本物だったはずだ!
「ア、ア、ァ……ウァ、ァ……」
続いて。残されたアイの口から、怨嗟に満ちた掠れ声が漏れ出てくる。
「アァ、アツい、よぉ……こわイよぉ……たす、ケて……」
うわ言のように、繰り返し。繰り返し。
彼女の抜け殻から零れる苦痛の悲鳴は――クランシエル孤児院の子供たちのものだった。
「いや……まって……。違う。違うの……。そんな、つもりじゃ……」
愕然とする。目の前が真っ暗になる。
アイに喰われた者の心は完全に変質させられて、二度とは元に戻らないと思っていた。
見た目も性格もあまりに変わり果てていたから……そう思い込んでいた。
だけど。そんなのはずっと、嘘で。
本当は。ずっと。ずっと。私が殺していたものは……!
そっか。そうだったんだ……。
あいつはいつも、本当の意味で人質を取って。いつでも、どこでも嘲笑っていたの。
私がしもべを殺め、彼女を傷付けようとする度に。
お前は人殺しだと。お前も等しく、大量殺戮者なのだと。
お前は、この
視界が滲む。
《爆光拳》の反応は不可逆。手遅れだ。
この技は一度発動させれば、それまで。もう止まらない。
今やはっきりと、何よりも残酷な事実は突き付けられていた。
これからこの子たちを。みんなを殺してしまうのは、他ならぬ私なのだと。
「う、あ……あああ……!」
待って……やめて……。
こんな……こんなはずじゃなかったの!
大義も何もない。本当に誰も救われない。
ただ無意味に、惨たらしく苦痛と死を与えるだけなんて……!
そんなのって、ないよ……! ダメだよ。いやだ……!
けれど。どんなに願ったって。いくら後悔したって。
無情にも、そのときはやってくる。
アイの肉体が、粉々に弾け飛ぶ。
喰われた幾十万もの犠牲者の残滓、取り込み混ぜ合わせた幾多のTSP。
そして、アマンダの愛した子供たちの心までもが。
無慈悲な爆砕とともに、あっけなく砕け散った。
死にゆく彼らの痛みが。叫びが。私の心を抉り取る。
決して消えることのない傷が刻まれる。
とても立ってなどいられなかった。
その場に崩れ落ち、嗚咽する。涙が溢れて溢れて止まらない。
お前は。どこまで。
「アイーーーーーーーーーーーーーーーっ!」
――お前はどこへ行ったの。何が起きているの。
まだ、何も終わっていないのか。