本性を現したトール・ギエフは、もはやあの穏やかな人当たりの良い講師ではなかった。
今や奴は残忍さと狡猾さを湛えた凶悪そのものな顔つきに変わり、先ほどまで柔らかだった眼つきも獲物を狙う鷹のように鋭く、おぞましいほどの威圧感を放っていた。
奴は懐から「マスター・メギル」の仮面を取り出し、私に見せ付けながら言った。
「誰でも人は、仮面の下に本当の素顔を隠す。目に見えるか否か。違いはそれだけに過ぎない」
仮面をしまうと、再びこちらを嘲るように口角を上げる。
「我が城へようこそ。ユウ君」
私は戦慄した。全身が凍るような思いだった。
ここは敵の本拠地。周りすべてが黒一色。
対する私は一人だけ。
絶体絶命の窮地。まさにその言葉通りの状況だった。
私は呪った。
何も知らずに、こんなところに一人足を踏み入れた自分の迂闊さを。
何より、これまで奴に気を許してきた自分の間抜けさを!
胃が裏返るのではないかというほどの悔しさと怒りに身を震わせていると、奴はいたく満足気に嗤った。
趣味が悪い。こんな私を見て愉しんでいるんだ!
そして奴は、さらなる追い討ちをかけてきた。
「そうだ。君に改めて紹介しよう。我が優秀な部下、カルラ君だ」
なんだって!?
驚いてまた振り返ると、彼女がすっと仮面を外した。
その下から現れたのは――。
紛れもなく、死んでしまったはずのカルラ先輩の顔だった。
目を疑った。信じられなかった。
なぜ、あの先輩が――。
ひどく狼狽してしまい、抱えた怒りをどこにぶつければいいのか、一瞬わからなくなる。
なにしろ、事件の被害者と思われていた人物と加害者が、まったくの同一人物だったのだから。
何も言えないでいると、彼女がとぼけたように尋ねた。
「演習は楽しかったかしら?」
そのふざけた言葉を聞いて、さすがに頭ではわかってしまった。
彼女は紛れもなく、あの仮面の女なのだと。
マスター・メギルたるトール・ギエフの、一の部下なのだと。
考えてみれば、奴がマスターである時点で当然のことだった。
あれだけ執拗に私たちをギエフ研に勧誘していたことも、今になってみれば白々しい。
あわよくば仲間に引き込むか、無理なら始末してしまおうとでも考えていたに違いない。
ミリアが彼女を見ていたときの表情が、なぜ時々曇っていたのか。
ああ。今ならわかるよ。
ミリアは人を見る目に関しては、かなり鋭いところがある。
逸早く私の正体を見抜いたように、きっと彼女の正体を薄々見抜いていたんだ。
だけど、こんな残酷な事実なんて信じたくなかったはずだ。
だからあえて何も言わなかった。
私だってそうだ。
こんなこと、事実であって欲しくなかった!
なぜミリアが危険にも関わらず、彼女の元に一人で向かったのかも今ならわかる。
説得しに行ったんだ。
カルラ先輩なら、話せばきっとわかってくれると思ったんだ。
彼女と対峙する辛い役目を私とアリスに背負わせたくなくて、ミリアはあえて一人で向かった。
ミリアは、カルラ先輩の良心を信じていた。だから一人で向かえた。
なのに最後まで信じてくれたミリアを、こいつは裏切った。
石にするという最悪の形で!
そこまでをやっと理解したとき、私の中で彼女はもう、暴走しがちだけど面倒見の良い愛すべき先輩ではなかった。
この上なく憎むべき敵だった。
気付けば身体は動き、叫びながら彼女の胸倉に掴み掛かっていた。
「おまえーーーー! よくもミリアをーーー! ミリアはお前のことを信じてたんだ! なのに! なのにどうしてお前はっ! ミリアを元に戻せ! 戻せよっ!」
彼女は一瞬だけ悲しそうに顔をしかめたが、すぐに声を荒げ、私を突き飛ばしてきた。
「邪魔よ! 騙される方が悪いのよ!」
弾かれて尻餅をつく。
「うっ!」
トールはそんな私たちのやり取りを見て、殺したくなるほど憎い嗤い声を上げた。
「ククク。愉快だ。実に愉快だ。笑いが堪え切れんよ」
「ふざけるなっ!」
私の怒りなどそよ風のように無視し、奴はカルラに語り掛ける。
「君が咄嗟に思い付いた作戦は、実に素晴らしかった。大森林での失敗は不問にするとしよう」
「ありがとうございます」
なんだよ!? 作戦って!?
ほとんど疑問に思う間もなく、カルラが得意な顔で説明してきた。
「ミリアを石にしたとき、気付いたのよ。このまま砕いてしまうより、餌にしてあなたたちを誘き寄せた方がいいとね。使われたのがロスト・マジックだと知ったなら、誰かが必ずここに来るはずと踏んだわ」
「……!」
「それも、わざわざ聞くだけに全員では来ないでしょう。特に急ぎならね。見事予想は的中した」
「君が一人だけでのこのこ来るとはな。君を捕らえれば、最も厄介な相手であるイネアも釣ることができる」
「くっ! くそっ!」
私は激しい焦りを感じながら、急いで立ち上がった。
奴の言う通りだ。
もし私が捕まって帰って来なければ、イネア先生はここを怪しむだろう。
そしてみんなで助けに来てしまう。奴らは、そこに罠を仕掛ける気なんだ!
一網打尽。最悪の光景が過ぎる。
正直、色々と言ってやりたい気持ちと、思い切り懲らしめてやりたい気持ちで一杯だ。
だが理性はこの状況に対し、逃げろと必死で告げている。
この場に二人だけなはずがない。きっと他にもたくさんの敵が待ち構えている。
一人ではどうにもならない。
とにかく逃げなければ! みんなが危ない!
だが、どうやって!?
「さて。この長話で、石化魔法の準備は済んだな。カルラよ。ユウも石にしてしまえ」
「はっ」
もはや考えている暇はない。
私は男に変身すると、すぐに気力強化をかけた。
「ほう。目の前で変化するのは初めて見たな。中々興味深い」
「ほんと何者なのかしらねえ。調べるのが楽しみね」
まるで実験動物を見るような目でこちらを見てくる二人に、俺は心底ぞっとした。
「なに。怖がらなくてもいいわ。一瞬のことよ――石になるのは」
考えなんてない。とにかく逃げろ!
跳ねるように駆け出し、部屋の入口に立ち塞がるカルラを押し飛ばすつもりで突っ込む。
そのとき、彼女の瞳が怪しく光った。
――なぜかはわからないが、とにかくなんともなかった。
驚く彼女を容赦なく突き飛ばし返して、部屋を飛び出す。
そのまま全力で廊下を駆けていく。
後ろから怒声が聞こえた。
「まさか! 《ケルデスター》が効かないなんて!」
「ふむ。まさか彼には、一切魔力がないとでも言うのかね!?」
どうやら魔力がなければ効かないらしい。男になっていてラッキーだった。
窓を破って飛び出そうとしたが、この窓はかなり強力な魔法がかかっているらしい。容易に破ることができなかった。
トールから、研究所内に音声で指令が入る。
『ユウ・ホシミが逃走を図った。決して逃がすな!』
くっ。敵はどう足掻いても俺を逃がしてくれる気はないらしい。
辺りの部屋から、わらわらと人が飛び出してきた。
出てくる出てくる。彼らはすべて、仮面を被った下っ端たちだ。
俺は左手から気剣を出した。
状況が状況だ。悪いけど、今日ばかりは手加減できそうにない。
「死にたくない奴は道を開けろ!」
走りながら大声で告げると、まず下っ端の一人が立ち塞がる。
中位光魔法《アールリット》を撃ち込んできた。
かつてアーガスが使った光弾の上位光魔法《アールリオン》。その一つ下位に相当するロスト・マジックだ。
こいつらは、ロスト・マジックの二大系統である時空魔法と光魔法(それから、光魔法の亜種である闇魔法も)を得意とする。
アーガスのそれよりはかなり小さいものの、十分な威力を持った光弾がかなりの速さで飛んでくる。
魔法抵抗力のないこの身体でまともに受ければ、中位と言えども少々危ない。
当たる直前、俺は気剣を一瞬だけ盾状に変えた。
攻撃を防ぎつつ迫り、立ち塞がるその敵を容赦なく斬る。
別にあのときヴェスターが言ったように、命を絶つことにこだわりはない。
そんな考えなんて糞喰らえだって思ってる。
ただ、どうしても斬らねばならない状況ではやることを、俺はこの半年で身につけた。
ここで躊躇えば、仲間の命が危なくなるかもしれない。
敵でも手心を加えて打ち身にする甘い奴だと思われれば、次から次へと敵は襲い掛かってくる。
そんな贅沢が許されるのは、それでも何とかしてしまう圧倒的な強者だけだ。
俺には残念ながらそこまでの力はまだない。いつかはと思うけど。
血の吹き出し方からして、彼(それとも、彼女だろうか)はおそらくすぐに死んでしまうだろう。
胸に重苦しいものを感じながら、それでも俺は進む。今はもっと優先すべきものがあるから。
何人かは今ので怯んでくれた。おかげで無駄な戦いを避けることができた。
よし。一階を目指そう。正面出口ならさすがに脱出できるはずだ。
研究所内は通路が割りと入り組んでいるが、案内されたときに道を記憶していてよかった。
敵をなぎ倒しながら必死に逃げ進み、ようやく出口の手前まで辿り着いた。
中央にメギルの模型がある、あのエントランスまで戻ってきたのだ。
このまま逃げ切って、みんなで作戦を練ろう。そしてミリアを助けるんだ。
そんな希望が見えたとき――。
目の前には、あのクラム・セレンバーグがいた。
なぜここに!?
いや、なんとなくわかった。
俺はあのとき、彼の前でヴェスターが急に狼狽していたのを見ていたからだ。
今この状況でここに立ち塞がっている者が、味方であるはずがない!
俺は油断なく正面を見据える。
敵は腐っても英雄だ。一気に距離を詰める謎の技もある。迂闊に近寄るな。
「大人しく捕まってもらおうか」
「はいと言うとでも?」
側面に回り込みつつ、ウェストポーチから、スローイングナイフを取り出す。
炎龍戦で使った一本を除いて、残り九本。
そのうち五本を、彼が避けなければいけない位置に思い切り投げつけた。
気で強化しているから、相当な速さだぞ。
これで少しは反応があ――。
!?
――な!?
気付いたとき、彼はまったく動いてはいなかった。
だが、ナイフだけが――。
一瞬で彼の後ろ側に回っていた。
投げたままの予測される軌道で、既に壁に突き刺さっていたのだ。
なんだ!? どうなってるんだ!? 余計にわからなくなったぞ……!
ただ、これだけはわかった。
とにかくやばい。やばすぎる。
全身にべっとりと嫌な汗が流れるのを感じた。
得体の知れない人間というものの恐怖。炎龍のときに感じたものとは、まったく異質の恐ろしさだった。
彼はじっと動かず、そのまま出口の前に立ち塞がっている。
そうするだけで十分であるのがわかっているようだった。
実際十分だった。
俺はヘビに睨まれたカエルのように、その場からぴくりとも動けなかった。
あそこに近づいたら、絶対にやられてしまう。そのことが肌でわかってしまったからだ。
やがて後ろから、トールとカルラが追いついて来るのが気でわかった。
三対一になれば、余計に勝ち目はない。
もう動くしかない。
残る四本のナイフを、惜しげもなく投げつける。
それと同時に飛び出し、奴の脇を取って、外へ一気に駆け抜けようとした。
!?
俺がまったく動けずにいる中。
一瞬だけ、彼が俺の腹を殴るのが見えたような気がした――。