私は舌打ちした。
やはり正解だったか。最悪の正解だ。
時間を操作すると言ったが、正確には二つのことができるようだ。
一つは時間停止。
私の心臓を狙ったときや、ナイフの結界から出たときに使用したものだ。
射程は奴の周囲約十一メートル。
この領域に何の対策もなしに踏み込めば、即死が待っている。
もう一つは時間消去。
ナイフが瞬時に奴の後ろへ通過していったときに使われたものだ。
こちらもおそらく同じ時間だけ消し飛ばすことができ、その間に起こったことは奴に一切の影響を与えない。
「貴女が初めてだ。今までこの魔法を見抜けた者は誰一人としていなかった。何しろ一切使用を悟られないのだからな」
「ふん。褒めているつもりか」
「ああ。マスター・メギルが言った通りだ。貴女は油断ならない」
と口では警戒しつつ、奴は上からの余裕を滲ませて、愉快に笑っている。
「くっくっく。私は今、とても満足している。これほどの強敵と出会えたことに。貴女を倒せば、私はより高みへと到達することができるだろう」
「よくそんな魔法が使えるものだ」
私はこいつの下らんステータス願望など、無視して言った。高みだの何だのには興味がない。
取り合わなかったこと自体、奴はさして気に留めていないようだ。
まるで自分に陶酔しているような口ぶりで答える。
「確かに私は、ほとんどすべての魔法を苦手としている。だが唯一、これだけは奇跡的に適合したのだ。まさに天の意志だった。この力で高みを目指せと。そして私は英雄となった」
なるほど。よくわかった。
この男が妙にちぐはぐな理由が。
どう考えても龍には敵わないであろうこの男が、最強の黒龍を瞬殺できたわけが。
簡単な話だ。
時間を止めている内に、心臓を一突きした。それだけのこと。
そんな卑怯な攻撃をされれば、強靭強大な龍であれ、どうしようもないに決まっている。
つまり、実力で勝ったわけではない。単に時間操作魔法がすごかったというだけのことに過ぎない。
剣の腕が素晴らしいわけではない。この男は、ただ強力な魔法の上に胡坐をかいているだけの半端者だ。
それで英雄だのと持て囃されているのだから、滑稽なことだ。虚しくはないのか。
私は侮蔑を込めて問いかけた。
「貴様は、そんな能力で龍に勝って満足か。英雄と呼ばれて満足か」
痛いところを突かれたか、奴は顔をしかめた。
反論の声もやや荒くなる。
「黙るがいい。貴女のような持つ者には、持たざる者の苦しみはわからんのだ。どんなに剣を振るっても、決して才溢れる者に届かぬ者の苦しみが。高みに届かぬ者の苦しみが!」
「随分と剥き出しだな。コンプレックスが貴様の原点か」
「今は違う。私は強くなった! ……そうだ。誰もが認める英雄になった」
己が名声に縋り、平静を取り戻す偽りの英雄。
飽くなき野心ばかりが肥大している。
「だが私は満足しない。より強くなるためなら、どんな力でも求めるさ。マスターすらも利用し、さらなる高みを目指すつもりだ」
「かつての貴様の苦悩に、同情はしないでもない。だが一つ言っておく」
英雄願望に狂い、歪んでしまった男に。
私は人生の先輩として、せめてもの誠実を込めて告げる。
「そんなものは、本当の高みでも強さでもない」
これは剣士の誇りを失った奴への――かつては剣に生きようとした同類への――心からの忠告だ。
「チートだ。ずるをしているだけだ。貴様もいっぱしの剣士ならわかるだろう? そんな力のどこに誇りがある。いい加減目を覚ませ!」
しかし奴は、素直に忠告を受け入れるには大人過ぎた。汚れ過ぎていた。
奴はただ、屈辱を受けたと肩を震わせるばかりだ。
ついに口元を憤りに歪め、いっそう声を張り上げた。
もはや最初の落ち着き払った堂々たる様はない。
英雄という名の仮面が、剥がれ落ちた瞬間だった。
「そんな偉そうな台詞は、この私に勝ってから言うんだな! どうせ不可能だろうがな!」
奴は怒りに身を任せ、剣を掲げて猛然と迫ってきた。
射程内に入らないよう距離を取りつつ、作戦を考える。
引き付けて爆弾という同じ手は、さすがに二度と通用しないだろう。
奴が不可能と言う通り、確かに形勢は厳しい。
時間を操作するなどというとんでもない能力に、直接対抗する手は浮かばない。
どうにかして、あの魔法を使っていない隙を狙うしかないな。
何度か使用された状況から判断する限り、奴の魔法は連続では使えないようだ。一回ごとに多少のインターバルをとる必要がある。
ならば、奴が使わざるを得ない状況まで持っていき。
使用直後に、息吐く間もなく攻撃すれば――。
よし。この組み立てでいこう。
奴に時間を操作させるには、それ以外では避けられない遠距離攻撃をぶつけるしかないが……。
爆弾はあと三つ。ナイフも残り二本。これらが生命線になる。
投擲武器が尽きれば、もはや私に勝ち目はない。
しかも長引けば、それだけ射程内に入るリスクが上がってしまう。
次の一手で決めるしかないな。
私は覚悟を決めた。
通常の限界を超えて、気力強化をかける。
《バースト》
こいつは長くは保たない。使用後は反動で全身にガタが来る諸刃の刃。
だがどうあれ、ここで決めなければ負けるのだ。出し惜しみはすまい。
気というものを知らぬ奴には見えないだろうが、強力な白いオーラを身に纏った私は、目にも留まらぬ速さで奴を翻弄していった。
機を見計らい、爆弾とナイフを惜しげもなく投下していく。
先刻隙を突いて逃げ場のない攻撃をしたのを、今度は自らの高速でもって実現した形だ。
奴も私と同じだけ素の実力を持っていれば、当然こんな芸当などできはしないのだが……。
この半端者に対しては上手くいったのである。
!?
追い込んだところで、やはり時間が消し飛ぶ。
タネさえわかっていれば、動揺もしない。
改めて奴の移動先を確認し、さらにギアを上げて、最高速で背後に回り込む。
この間、一秒もない。
時間を操作するには今少しかかる。
右手の気剣に、最大限の気力を込めた。
刀身は白から、目の覚めるような青白色に変わる。
一撃で確実に仕留め切る!
《センクレイズ》
!?
認識が飛んだと理解したとき。
私の目には――。
既にこちらへと振り向き、剣を振り下ろす奴の姿が映っていた。
混乱の最中、慌てて跳び退く私の肩に刃が食い込む。そこからわき腹にかけて、血肉の裂けていく感触がした。
そんな、馬鹿な……!? なぜ……?
斬られた私は、その場に踏み止まることができず、崩れ落ちて仰向けに倒れた。
不幸中の幸いには、奴にとってもギリギリのタイミングだったのだろうか。
斬撃は比較的浅く、内臓にまでは達していないようだ。
だが、致命傷も同じか……。
もはや立つことができなかった。
奴がもう一撃を加えれば、この命は確実に絶たれる。ほんの少し命が延びたに過ぎない。
滴り落ちる血の嫌な粘り気を感じながら、私はユウをこの手で助けられなかったことが無念で仕方なかった。
***
ふと、師匠の顔が浮かんだ。
厳しさの中にも、いつも優しさと温かさをもって、私を包み込んで下さった師匠。
せめてもう一度だけでも、お会いしたかった。
そして、伝えたかった。
あなたは命を賭してまで、私を守って下さったというのに。
私は……情けないです。
愛する弟子をこの手で助け出してやることもできない。
すみません。師匠。
私は、本当に出来の悪い弟子でした。
***
クラム・セレンバーグは、すっかり元の英雄然とした調子に戻っていた。
勝ち誇りながら言う。
「連続での時間操作魔法の使用は、日に一度しかできない。私にここまでさせるとはな。認めよう。我が生涯最大の敵であったと」
「…………」
「さて。このまま止めを刺しても良いのだが……。どうせ貴女はもう動けまい。マスターが用意した余興に、絶望しながら死んでもらうとしよう。この私を愚弄した罪は重い。楽には死ねんぞ」
「……余興だと。一体何をするつもりだ」
奴は、私を見下しながら嗤った。
「間もなくわかるさ。要するに貴女たちは、ここに乗り込んだ時点で詰んでいたということだ。では、もうすぐ時間なのでな。さらばだ」
傷付き倒れた私に悠々背を向け、気配は遠ざかろうとしている。
この場限りは助かる形にはなったが、しかしどうすることもできない。
絶望が心を支配しかけた――そのときだった。
信じられないことに、ユウの反応が戻ったのだ。
しかも、元気に動き出したではないか。
なぜかはわからない。
とにかく、ユウは無事だった。
ああ。よかった……。本当によかった。
無事がわかっただけで、こんなにも救われるものなのか。
私の心には、再び希望の灯がともっていた。
「待て。貴様にもう一つだけ言っておく」
「なんだ」
奴が怪訝な顔で振り返る。
この戦いで感じた率直な想いを、私は告げてやった。
この男は、時間操作に頼り過ぎている。そこに致命的な隙がある。
「覚えておくがいい。そんな能力に頼り切りでは、いつか足元を掬われることになるぞ」
それを聞いた奴は、心底呆れたような顔で苦笑した。
おそらく、ただ負け惜しみを言っているだけだと思ったのだろう。
「ほう。一体どう掬われるというのだ」
「そのうちわかるさ」
「そうかそうか。それは楽しみなことだな! はっはっは!」
高笑いを上げながら、奴は今度こそ去っていった。
その後ろ姿を見つめながら、私は奴に届く可能性を想った。
近距離攻撃主体の私では、絶望的に相性が悪かった。
だが、ユウならば。
あるいは仲間たちと協力して、勝機を見出せるかもしれん。
あいつは弱くて情けないところもあるが、芯は強い子だ。
あいつは相手がどんなに格上であろうとも、果敢に立ち向かっていく勇気と、心の底では容易に諦めない執念を持っている。可愛い顔をして、天性の負けず嫌いだ。
それが時に、思いもよらないような成長や爆発力を生み出してきた。
そんなあいつの姿をずっと見てきた私には、わかるのだ。
たとえ今は弱くとも、あいつは師と同じ立派なフェバルだ。
この世の条理を覆せるような、立派な心を持っている。
たとえこの先どんな困難が待ち受けていたとしても、あいつはきっと最後まで足掻くだろう。
そしてどんなに傷付いても、足掻いてしまうだろう。
そうなのだ。
あいつはいつも不器用で一生懸命で、見ていられないところがある。
だからこそ力になりたいと思うのだ。
たとえ師との約束を抜きにしたとしても、あいつはとっくに私の愛する弟子なのだから。
私は残された気を使って、傷を塞ぎ始めた。
動けるようになるには相当時間がかかるが、何もしないよりはましだ。
ユウが動いているのに、師である私が真っ先に諦めてどうする。
形はどうあれ、せっかく奴が見逃してくれたのだ。
これから何が起こるのかはわからないが、最期の瞬間まで諦めるな。
全員をここから無事脱出させる。そのことに力を尽くせ。