私は『心の世界』をひたすら歩き続けた。
どこまでも真っ暗な空間が続いていた。道標になるようなものは何もない。
適当に進んで行くしかなかったが、何かに導かれるような、そんな不思議な感覚があった。
やがて、たった一つだけ淡白く光る球体を見つけた。
そっと触れてみると、頭の中に情景が浮かんできた。
いつかの記憶だろうか。映ったのは、私のよく知る金髪の青年だった。
レンクスだ。レンクス・スタンフィールド。
***
(彼は、とても名残惜しそうに言った。)
『そろそろお別れの時間だ』
いつの日のことだろう。
確か毎日のように遊んで、お別れしてたっけ。
でも「じゃあな」とか「またな」とか、いつもありきたりな挨拶で。
こんなに改まって言われたことはなかった気がするけど。
(やっぱり。)
(レンクスは、もういなくなってしまう。)
(最後にユウと素敵な思い出を作ってくれた。そういうことなのね。)
そこで私は、強い違和感を覚えた。
待ってよ。ちょっと待ってくれ。
何を考えているんだ? 当時の私は。
だってユウは、私のことだろう?
なに他人事みたいに自分のことを言ってるんだよ。おかしいよ。
それに最後ってどういうことだよ。
どうしてそんなに女っぽい言葉遣いをしているんだ?
次から次へと疑問が溢れてきて、抑え切れない。
『いいの? ほんとにちゃんと言わなくて』
『ああ。散々泣きつかれて敵わないだろうからな。その代わり――』
(レンクスは、懐から一枚の手紙を取り出した。)
あの手紙は、気付いたら家の中に置いてあったものじゃないか。
どうして私は彼があれを取り出すところを見てるんだよ。変だよ。
知らない。私はこんな場面なんか知らない。
『こいつを残しておくことにした。ユナと違って、魔法はあまり得意じゃないんだが……』
(瞬間、身体が何かで満たされるような、そんな不思議な感覚を覚えた。)
(力が沸いてくるような感じもする。)
この力は、まさか。魔力!?
(まさかと思って見ると、彼はいつもの調子の良い顔で頷く。)
『お前は魔力が強いみたいだな。【反逆】で魔力許容性を弄った。ちょっと魔法を使うからな』
『魔法、ねえ』
こんな会話もした覚えがない。
魔法だとか魔力だとか、まるでこの世界みたいな会話をしちゃってるよ……。
それに、【反逆】と魔力許容性。また聞いたことがないワードが出てきた。
いや――。
許容性という言葉だけは聞いたことがある。
レンクスもエーナも使っていた。
それも、どちらも何かを試すような動きをしたときに。
おそらくフェバルには常識かつ重要な概念なんじゃないだろうか。
一体どういうものなんだろう。ここにヒントはないかな。
そのとき、ほんの少しだけ別の記憶が流れ込んできた。まるで望むまま説明してくれるかのように。
『んー。まあ詳しく説明してもしょうがないな。とにかく気力という力があって、この世界における気力の限界値の基準みたいなものが気力許容性だ』
『ふへえ』
『で、治療にはこの気力を使うんだが、この世界は限界値が低過ぎて、このままではまともに治療ができない』
『うん』
どの場面かはわからないけど、レンクスの言葉を信じるならこういうことになる。
言い換えれば、魔力許容性とは、この世界における魔力の限界値の基準のようなものらしい。
潜在魔力値が百万もあると、トールの奴に言われたことを思い起こす。
本来、私が持っている魔力値は一万だ。
ということは、私の力の大半は、普段は表に出ることなく眠っていることになる。
突拍子もない発想だが、それはこの世界が私の力に制約を課しているからと考えることはできないだろうか。
許容性による限界という鎖によって。
(またとんでもないものをと思っていたら、彼の手から手紙がぱっと消えてしまった。)
(本当に魔法のように。)
『転送っと。これでお前の部屋に届いたはずだ』
間違いない。魔法だ。
それも、この世界のものとは原理が違うようだ。
地球には魔素がないから、何か別のものを魔素の代わりにしているのか。それが何かまではわからないけど。
(もうあまり驚かなかった。本当に何でもありだな。この人は。)
(感慨深そうな表情をしながら、彼はしみじみと言う。)
『ユウは十分明るくなった。もう俺は必要ないさ。あと少しで、お前もひとまず役目を終えるだろう』
『そっか。今まで色々とありがとね。ちょっとうんざりしたこともあったけど、楽しかった』
(数々の執拗な絡みを思い返しながら、私もまたしみじみと言う。)
あ。あ。なんで。
知ってる。
私は、レンクスに色んなことをされたことがある。
抱きつこうとしてきたり、ほっぺにチューされそうになったり。
愛してるぜって。そのたびにちょっとだけ嫌な気分になって。
呆れて。あいつを蹴り飛ばしたり、怒ったりして。
いや、私じゃない!
私はそんなことされてない。あり得ないよ。
あのときはずっと、男だっただろう!?
【――違う。私は九年前にとっくになってた。女の子に。】
違う!
そんなこと知らない。私は知らない!
『ああ。楽しかったな』
(何を思ったのだろうか。彼は遠い目をしていた。)
(しばらく無言の間が流れる。お互いに何を言ったらいいのかわからない。)
(やがて彼は、意を決したように口を開いた。)
『じゃあな。俺はもう次の旅に出ないといけない』
(旅か。)
(どうも外国人みたいだし、世界中を飛び回っているのかな。)
彼がフェバルだからだ。
次の異世界に行かなきゃならなくなったんだ。
『また会える?』
『ああ。いつか必ずな。なんなら、俺から会いに行ってやるぜ?』
『しつこそう』
『よくわかったな』
(図星を引いた彼は、苦笑いするばかりだ。)
(そして、別れ際とは思えないような清々しい顔で告げた。)
『だからさよならは言わない。また会おうだ』
(そんな彼を見て、私も自然とすっきり言えた。)
『うん。また会おうね』
『おう』
***
そこで記憶の再生は終わった。
私はすっかり混乱してしまっていた。
どうなってるんだよ。
私はこんな記憶なんか持ってないはずだ。
レンクスとの別れ方はもっと――。
【いや――。】
【知ってる。私はちゃんとレンクスと別れの挨拶をした。】
違う!
私はレンクスに手紙だけ残されて。それで散々泣いて。
【それも真実。】
【だけど、また会おうって聞いた。】
【私は聞いた。男の私は散々泣きつくだろうからって、レンクスが手紙だけ残して。】
ああ! もう! わけがわからない!
どうしてだ。どうして記憶がこんなにおかしなことになってるんだ!?
さっきから頭の中で思考をかき乱しているのは何だ!?
初めて自分の内側にしっかりと意識を向けてみると、私を内から満たす何者かの存在を感じることができた。
「君」は誰だ!?
「君」がいるから混乱するんだ! 私から出ていけ!
瞬間、私の内から何かが抜け出ていくような感覚があった。
間もなく、不思議なことが起こった。
自分と瓜二つの女の子が分離して、目の前に仰向けで倒れたのだ。
出ていけと思ったら本当にできてしまった。
そのことにひどく驚きつつも、突然現れた彼女をまじまじと眺める。
彼女は肉体を持たない精神体のようなものか。そんな印象を受けた。
先ほど触れた記憶のかけらと同様に、淡く白い光を全身から放っている。
彼女は眠っていた。
彼女を追い出したとき、心のあり方がすっかり変わったのがすぐにわかった。
今の自分は、身体こそ女のままだが、自分のことを私ではなく、俺だと思っている。
どうやら心は、男のときと一緒の状態になっているっぽい。
ということは、彼女が俺の内側から影響を与えて、俺自身を女だと思い込ませていたことになる。
俺は眠る彼女に、もう一度問いかけた。
「君は誰だ? どうして俺と同じ姿形をしている? なぜ眠っているんだ?」
反応はない。よほど深く眠っているらしい。
とりあえず起こそうと思い、彼女の頬に触れてみる。
するとなんと、俺の手が彼女の頬に溶け込み出した。
まるで能力に覚醒する直前に見ていた、あの夢のようだ。
あの夢で進んだ出来事が、まさに現実に起こっていた。
触れた箇所を起点として、彼女の精神体は再びするすると俺の中に入り込んでいく。
俺と彼女が混ざり合うようにして、段々一つになっていく。
自分という存在がまるっきり作り変えられていくような、妙な感覚が全身を包み込む。
身体中に熱さと、何かが満たされていく感覚が湧き上がる。
だけど、あの夢で感じた蕩けるような快楽と、燃えるような熱さとは違う。
ウィルに強制的に変身させられたときに感じた、激しい苦痛を伴う強烈な快楽とも違う。
むしろ心が温まるような、内側から抱き締められているかのような、安らかな心地良さに包まれていた。
気が付けば、彼女はまたすっかり私の内側を占めていた。
そして私は、自分のことを私だと思っている。
やっぱりだ。
彼女が私を私たらしめている。女たらしめている。
一体何の目的があってそんなことを。
そのとき、眠りについている彼女から記憶が流れ込んできた。
まだ小さい「俺」と彼女が、この場所で話している記憶だった。
『ねえ。もし女の子になっても、ちゃんとやれるかな』
『最初は苦労するんじゃない? まあそのときは、私があなたの中に入り込んで、ちゃんと女の子として振舞えるように助けてあげるよ』
『そっか。助かるよ』
――そうか。そうだったのか。
私が苦労しながらも、今まで何とか女子として生活してこられたのは。
すべて彼女の協力があったからなんだ。
彼女が支えてくれたからこそ。私の性自認や性質を女の子にしてくれたからこそ。
アリスもミリアも、ちゃんと私が女の子だと思ってくれた。認めてくれた。
そうでなければ、ただでさえ大変だったのに、こうして大切な友達に囲まれて学園生活を送ることなんて、到底不可能だったに違いない。
おぼろげながらに思い出してきた。
『心の世界』。
ここには大きな力が眠っている。彼女はそう言っていた。
私は小さいとき、一時期ここで彼女と毎日のように話していたことがある。
そうだ。彼女はもう一人の「私」だ。
私を支えるために現れた、もう一つの人格。
いつだって私の最も側にいてくれた、一番のパートナー。
この能力が目覚めたとき、再会する約束をしていたはずなのに。
どうしてそんな大事なことを忘れてしまったのだろう。
能力が目覚めて一年以上も経ったこのときまで、約束を果たすのが遅れてしまった。
いや、正確に言えばちゃんとした形ではまだだ。
彼女はなぜか眠っている。さっきからいくら呼びかけても、まったく目を覚ます気配がない。
考えられる原因は一つしかない。
ウィルだ。あいつしかいない。
きっと正常じゃない能力覚醒の方法を取ったから、『心の世界』が滅茶苦茶になってしまったんだ。
それに「私」は巻き込まれて――。
考えてみれば、レンクスにしてもあいつにしても、瞳の奥をじっと覗き込んで「私」の存在を確かめていた節がある。
わかる人にはそれでわかるんだ。きっと。
そうだよ。だからあいつは、あのとき黙って私のことをじっと見ていたんだ。
あいつが何を考えていたのかわからなかったけど、やっとわかった。
あまりの恐怖から深読みし過ぎて、すっかり勘違いしていた。
あいつは私のことなんてどうでもいいなんて、思っちゃいない!
むしろ逆だ。
重要視しているからこそ、真っ先に現れて先手を打ってきた。
イネア先生も言ってた。
私の能力はきっと、単なる変身能力なんかじゃないんだ。
この果てしなく広い『心の世界』そのものかもしれないと、「私」は言っていた。
『心の世界』は、あらゆる経験を溜め込む。宇宙のように大きな器だと、「私」はそう言っていた。
とするなら、あいつの【神の器】という命名は、そう外したものではないのかもしれない。
あいつが私の能力の真の姿を見抜いて、【神の器】などという大層な名前を与えたことも。
変身できるだけの下らない能力だという先入観を私に植え付けたのも。
全部わかっていてのことだったとしたら。
おそらく――真実は逆だ。
私の能力には、奴が警戒するに値するだけの力がある!
どうにかすればその力が使えるはずだ。そう思った。
そしてそのことをはっきりと認識した今、なぜだか何となく使い方はわかる。
覚えていないだけで、前に力を使ったことがあるのかもしれない。
たぶんだけど……。ここに溜まっている経験から、使うものを引っ張り出してくればいい。
ちょうど私のすぐ横には、先ほど見た記憶があった。
レンクスとの別れのシーンだ。
そこで彼は、【反逆】とかいうのを使って魔力許容性というものを弄っていた。
記憶の通りにすれば、きっと自分にもできるはず。
他にできることはないんだ。やってみよう。
もしかしたら、私の高い潜在魔力が利用できるようになるかもしれない。
それで上手くいけば、拘束から抜け出せるかもしれない。
私は『心の世界』を出て、現実世界に意識を戻す。
相変わらず、手足と胴には分厚い錠をかけられ、全身に付けられた吸盤と針で力が封じられている。
よし。早速やってみよう。
【反逆】《魔力許容性限界突破》
瞬間、私の内側を満たす魔素の絶対量が、一気に膨れ上がり始めた。
魔力がみるみるうちに上昇していくのが肌でわかる。
間もなく、力を封じていた装置でも魔力が抑え切れないほどになった。
これならいけるか。
だがどうも様子がおかしい。魔力の上昇がどこまでも止まらない。
え、ちょっと。待って。高い、高過ぎる!
身の丈を遥かに逸脱したあまりの魔力に、身体は悲鳴を上げていた。
全身が激しく軋み、口からは血反吐が飛び出す。
暴走した力が、身体に張り付いたすべての吸盤と針を一挙に弾き飛ばす。
さらには、実験室の計器が次々と壊れていく爆発音が聞こえてきた。
「あああああああああああああーーーーーー!」
頭が割れる! 気がおかしくなりそうだ!
止まれ! もういい! 止まってくれ!
しかし一度使い始めた能力は、一向に収まりを見せない。
むしろ時とともに、ますます激しさを増していくばかり。
ダメだ! 制御できない! 止まらない!
このままじゃ壊れる! おかしくなっちゃう!
ついに発狂してしまうかと思ったとき。
単純ではあるが、神懸かった思い付きが身を助けた。
そうだ! 魔力が暴走しているなら!
変身!
私は男に変身した。魔力値ゼロの肉体に。
影響を及ぼす対象を失った【反逆】は勝手に解除され、『心の世界』にも落ち着きが戻る。
どうやら助かったらしいことに、心から安堵する。
「はあっ……はあっ……!」
危なかった……。
敵の手にかかる前に、勝手に自滅するところだった。
とんでもない能力だ。まったくまともに使えないじゃないか……!
何はともあれ、これで脱出することはできそうだ。
気力強化をかけ、力を込めて手足の錠を破壊する。変な装置さえなければ容易いことだった。
それから胴の方の分厚い錠も外して、立ち上がった。
直ちにみんなの気を探る。
一番近くには、アリスと弱っているカルラ。
もう少し離れて、かなり弱った状態のイネア先生。
さらに遠くには、元気に戦ってそうなアーガスの気を感じる。
よかった。三人ともまだ命は無事だ。
見ると、横に俺の服とウェストポーチが丁寧に畳んで置いてあった。
急いで着てから、まずはアリスの元へ向かう。
みんなごめん。
俺が不甲斐ないせいで、危険な目に晒してしまった。
今行くよ。どうか無事でいてくれ!