「そんな馬鹿な……!」
水晶モニターで、グラス片手に余裕たっぷりで戦いを見物していたトール・ギエフは、まさかの結末にひどく動揺した。
彼の手からグラスが滑り落ちた。
ガシャンという惨めな音を立てて割れ、中身が絨毯に染み込んでいく。
絶対の信頼を置いていたクラム・セレンバーグが、負けた。
あの黒龍を斬ったほどの男が。
「があっ!」
彼は玉座を力任せに叩き付けた。
甘く見ていた……!
たかが学生だと思っていた。それがいつの間にか、ここまで強大な敵となろうとは。
貴様ら、どうやってあの爆破から生き延びた!
そればかりではない。
絶対に進入不可能であるはずのエデルに入り込み、ついにクラムまで手にかけた。
完全に舐め切っていた相手に、今やこの自分が追い詰められようとしている。
彼はいつになく狼狽していた。
誤算に次ぐ誤算が重なった結果が、今のこの状況である。
このままでは、自分は確実にやられてしまう。
彼にはどうしてこんなことになってしまったのか、まるでわからなかった。
焦りで目を血走らせた彼は、慌てて玉座から立ち上がり、駆け足でエレベーターに向かう。
走りながら、思考の渦が目まぐるしく回っていた。
今からでも魔導巨人兵を使うか。
いや、無駄だ。
あれはあくまで拠点殲滅用だから、小回りが利かない。
仮にここで使えば、都市が滅茶苦茶に破壊されてしまうだけだ。
しかも奴らの狙いは、あくまでこの私なのだ。
木偶人形を据え置いたところで、到底足止めになるとは思えん。
彼から、皮肉気な苦笑が漏れる。
ふん。魔導兵や魔導強化兵どもなど、所詮役には立たぬか。
奴らがしっかりしていれば、ここまで進攻を許すこともなかったのだ!
――仕方ない。あれを使うしかないか。
本当に万が一のときのため、用意しておいた奥の手だった。
まさかあればかりは、決して使うことはないだろうと思っていたが。
魔人化。
エデル王族のみに伝わる、人体強化の秘術である。
龍よりも強靭な肉体と圧倒的な魔力を、一時的にだが得ることができる。
その代わり、反動も凄まじいものがある。
効果が切れた後は動けないほどひどく衰弱してしまう諸刃の刃。寿命さえ縮めてしまうほどのものだ。
王自らが戦うのは本意ではないが、もはや状況は一刻の予断も許さない。
他に選択肢はなかった。
あれを使うためには、北にある祭壇に向かわなければならない。
そこまで辿り着くことさえできれば――。
この私自らが最強の魔人となり、貴様らを葬ってくれよう。
彼は絶体絶命の危機に内心激しく焦りながらも、自らの手で侵入者を蹂躙する様を思い描いて、嗤った。
ついに自分自身が力を手にするときが来たのだ。
彼のコンプレックスは、ネスラという種族であるがゆえに、非力であることであった。
イネアという化け物はいるが、あれは例外中の例外だ。
そもそも転移魔法こそ、非力な彼らが外敵から逃げるため、進化の過程で得たものなのだ。
こそこそ逃げ隠れて生活するしか能がない閉鎖的な同族を、彼は心底見下していた。
彼は生まれつき、転移魔法が使えない異常なネスラだった。
非力である上に転移魔法まで使えないとなれば、いざというとき身を守るものは何もない。
異常であることが判明すると、彼は同族の中で孤立した。
誰の協力も得られず、すべてのことは自分一人でするしかなくなった。
そんなある日、まだ彼が十代前半の頃である。
ネスラの里に、盗賊の集団が現れた。
彼らは里にある装飾品などを強奪し、あわよくばネスラを捕らえて売り物にしようとしていた。
周りの同族のほとんどは転移魔法で逃げられたが、まだ練度の低い一部の子供たちは逃げ遅れて、次々と捕まった。
そして、そもそも転移魔法が使えない彼は。
ただ走って逃げるしかなかった。
だが抵抗空しく、今にも捕らえられようとしていた。
そこに偶然現れたのが、大型肉食獣リケルガーの群れだった。
そいつらは瞬く間に人攫いの集団を蹂躙し、食い尽くしてしまったのだった。
それが人攫いであろうと、ネスラの子供たちであろうと、獣は平等だ。区別などしない。
子供たちも、やはり同様に食われていった。
そして満腹になったリケルガーたちは、余計な殺戮もしない。
運良く捕食対象として選ばれなかった彼――怯えるトールを一瞥だけすると、何もなかったかのように去っていった。
命からがら助かったトールは、がっくりとその場に膝をついた。
いつの間にか失禁していたが、それが情けないと思う心の余裕すらなかった。
力のない者は、ゴミのように死ぬしかない。
世界の厳しさを悟った彼は、それ以来強く力を求めるようになった。
そんな彼を魅了したものは、森の外の人間の知識だった。単純な力ではなく、叡智を武器として進歩を続ける人間の姿。
彼はそこに光を見たのである。
彼は人に憧れた。ネスラにおいては禁忌とされる人の知識を求めた。
森に訪れた人間と交流し、書物などを得て学び始めたのだ。
ついには転移魔法の実験を行い、その性質まで解明してしまう。
だがこの実験は、さすがに同族の怒りを買った。同族を弄んだ罪として、森を追われることになった。
だが彼にすれば、望むところであった。
森を追われてなお、力に憧れて知識を求め続けた。
人の汚さを知り、いつしか身は欲望に染まり。
そして辿り着いたのは、エデル。
この地に彼は、理想を見た。望むものを見た。
――こんなところで、終われるものか。
必ずや人の上に立ち、自らの存在と叡智を世界に示すのだ!
エレベーターに乗り、地下一階へと降りる。
すぐに王族用のグランセルナウンへ乗り込み、スカイチューブを走らせた。
彼の目に宿る野望の光は、まだ消えていなかった。