プロローグ-1
深海棲艦が海にはびこるようになった時代。誰もが海を奪った深海棲艦を恨んだ。しかし、深海棲艦はあるものを生んでいた。
雇用である。整備士などはいくらいても足りなかった。また、いつ避難命令がきてもおかしくない時代である。多くの人がものを買った。いつ深海棲艦からの空襲で死んでもおかしくない時代である。多くの人が金を使うのを躊躇しなかった。経済は活性化した。
そんな時代に俺は生まれた。俺は親に言われるがままに、全国でも有名な進学校に入った。そこでは成績は悪かった。特に数学などは最悪だった。テストがある度に補修にかかった。逆に数学の先生と仲良くなった。ただ、俺が国語と地理、歴史が得意な事が幸いして、留年しなかった。地理は学校で一番をとることもある程得意だった。
あと、俺には友達が多かった。俺は積極的に話しかけるタイプではなかった。自慢ではないが、自然と周りには人が寄ってきてきた。
なぜこうなったのかはわからなかったが。
高校になる時に、コース分けがあった。コースは3つあった。
艦隊状態維持補助員コース
士官コース
文系コース
艦隊状態維持補助員とは俗に言う整備士だ。これは、そこそこ上に行けば給料がいい。ただ、整備には多くの知識が必要で、数学的な思考力が必要だった。
士官コースは士官学校に進学するコース。
文系コースは跡を継ぐところがある奴が行くコース。
継ぐところもなく、数学ができない俺には、選択の余地などなかった。一学年には200人ほどいたのだが、そのうち180人は整備士になる道を選んだ。これは例年のことだ。士官コースは10人しかいなかった。どこの学校でも同じような感じだろう。
俺はめでたく士官学校に合格した。士官学校は、一学年に300人程いた。高校時代は成績が悪かった俺も、そこでは1番をとったりした。周りのレベルが下がったこと、そして、より地理などが重視されたことが要因だろう。
周りの人間はどんどん留年していった。この学校では留年はよくあることだった。ただ、留年は一学年につき一年しか許されてなかった。2回目の一年生はあっても、3回目の一年生はないのである。理由は単純だった。命の駆け引きをする軍にとって、時間の遅れは許されない。まして、上の立場になる士官が時間を厳守できないようではいけない。この学校は施設も新しくてよかったのだが、規則、特に時間に厳しかった。
士官学校での生活は4年で終わった。卒業試験も、俺は1位だった。俺にとってはよい4年間だった。
その後、士官の卵達は実地研修を受ける。戦争がまだ小競り合い程度だった時代は、3年あった研修期間も、戦争状況の激化により、1年に減っていた。スピード研修だ。士官の卵達は一人一人違う鎮守府に研修に行く。ここからは一人旅だ。もう頼る仲間はいない。俺は最前線の鎮守府へと旅立った。