プロローグ-閑話 英雄の意味と僕の序曲-
あの日、あの時、日常というものはいつ壊れてもおかしくはないものなのだと知った。
数年後にはチューナーと呼ばれる少年の幼少期はごく普通の男の子であった。
母親がいて、父親がいて、祖母がいて、妹がいて。何処にでもいる普通の家族だった。
少年は、よく遊び、笑い、学び、人並みの幸せを享受していた。
幼い少年が見る世界に陰りはなかった。これから先、ずっと続いていくものだと思っていた。
そんな普通の少年が心惹かれたものは音楽であった。
多種多様な楽器を用いた音色は少年の心を掴むにはそう時間もかからなかった。
音楽に関するものなら何であっても手を出した。
読み、見聞き、手に取り、少年は心の底から笑みを浮かべていた。
幸せは此処にある。夢は此処に産声を上げた。
「ぼく、おんがくといっしょがいい!」
その言葉を補足するならば、将来は音楽に携わる仕事がしたい。
幼い少年が抱く純粋な夢は祝福されたものだった。
それから楽器について、学び、将来へのヴィジョンが徐々に固まっていく。
少年は思った。世界はきっと、色鮮やかで輝かしいものなのだ、と。
――数年前までは、そう思えたのだ。
けれど、たった一つの出来事が全てを台無しにぶち壊した。
偶然。言葉にしてしまえば、それ以外に言い表せない。
小学校六年生の時の出来事――ちょうど誕生日であった。
授業を終えて、帰り道。
クラスメイトの友人と馬鹿話で盛り上がり、途中にある公園で寄り道をして遊んで。
友人達から誕生日プレゼントを受け取ってささやかな誕生会を開いた。
子供達だけの日が暮れるまでの短い間。
それは楽しくて、少年の帰宅時間が遅くなるのも仕方がないものだった。
心の片隅で家族のことを考えたが、まあいいかと決めつけた。
少し怒られるかもしれないが、優しい両親は何だかんだいいつつも許してくれる。
妹は遅いとぷんすかと怒るかもしれない。
それを苦笑いで自分は宥めるのだろう。
その楽観的な思考は、帰宅した瞬間に全て消えてなくなった。
空いていた玄関の鍵。中から漂う異臭。
それは少年とは縁遠い非日常のものだ。
恐る恐る、一歩を踏み締めるだけでも数秒近くかかってしまう。
少年の本能が告げていた。この先にある光景を見てはならない。
見てしまえば、決定的に何かが終わる。光り輝く世界が破綻することを、理解していた。
知らない、見えない、聞こえない。
この異常が意味する真実を、少年は知りたくない。
壁に飛び散った赤い液体を、少年は見たくない。
何の音も聞こえない団欒の居間を、少年は聞きたくない。
それでも、脚が止まることはなかった。
ゆっくりと、絞首台へと進む死刑囚のように、咎を背負うべく。
そして、少年は自らの終わりを迎えた。
視界に入る赤。もう動くことはない肉の塊。
バラバラに転がっている物体は、朝に見た家族の面影を何一つ残していなかった。
目を見開き、呆然とする以外、少年の取れる行動はない。
震え、か細い声で家族を呼ぶ。当然、答えは返ってこない。
寄り道なんてしなければ救えていた?
そんな傲慢を抱くには少年は弱すぎた。
もし、寄り道をしないで帰宅したとしても、転がっている肉の切れ端が増えただけだ。
できることなんて、何一つない。少年が介入できる要素は、塵の大きさすらないのだから。
どうして、と。少年は呟き、嘆き、怒り、悔やむ。
自分はこんなにも無力だ。力があれば、家族を護れた。
強くなくては、護れない。それこそ、よく見るアニメの主人公のようなヒーロー。
――――“英雄”のような強さを。
気づけば、叫び声が口から漏れ出していた。
焦がれた夢は何処かへと消えていった。今此処にいるのは、道筋を定められてしまった少年でしかない。
音は聞こえない。色は褪せている。指は感覚が掴めない。
間違った過去はもう正せず、背負う以外に術はなかった。
未来永劫、少年が死ぬ時までずっと。
奈落へと落ちた少年の心に灯るのは、怨嗟の焔。
家族を助けられなかった自分に価値はない。もしも、命を投げ捨てて家族が蘇るならば喜んで投げうとう。
だから、これは最後だ。
瞳から流れ出る涙を。血と混ざり合い、消えていく過去を。
もう二度と、この間違いを忘れないように。自分を戒めるかのように、強く、強く――――“呪う”。
ふらふらと立ち上がり、家族だったものを掻き集める。力が入らず、遅々とした動作であったが、やめることはない。
これはお前の罪の証拠だ。決して拭えない、償うには余りにも重すぎる過去を、刻み込む。
時間をかけて、少年は家族だったものをまとめ上げる。
一箇所にまとめても、それは元の大好きな家族には戻らない。
傍から見ると、ぐちゃぐちゃの“赤い何か”でしかない。
柔らかい感触が気持ち悪い。鼻につく異臭が嘔吐を誘う。
血の気の失せた自分の肌は家族の血で染まり、真っ赤な人間の出来上がりだ。
それを厭わず、少年は家族だったものを抱き寄せた。
泣きながら、叫びながら、大好きだった人達の辿った末路を、自分のものにするように。
『ああ、うるさいなあ、のいずのようなみみざわりなおとが、こころにひびくなあ』
少年はこの日、一つの世界の終わりを体験した。
■
猟奇的殺人事件。
無惨な結果となった家族は、愉悦と享楽の為だけに殺された。
少年の終わりは世間を騒がせるも、犯人の自殺によって幕を閉じた。
気狂いの精神の持ち主だったのだろう、家族を殺した理由なんて何となくで済まされるものだった。
そして、最後はその刃を自らに突き刺して、発狂して死に絶えた。
憎むべき仇は、物語性もなくあっさりと世界から退場した。
笑えてくる、泣けてくる、こんな程度か、と。
世界というものはどうやら意地悪らしい。
辿り着くゴールを失った少年は、それでも歩みを止めなかった。
“英雄”のように強くなる。ゴールという糧がなくなったなら、過程を動力にしたらいい。
他者を救い、護れる人間になろう。
ただこの誓いだけが、あの日救えなかった家族に唯一できる餞だ。
誰かの救いになり得る人間として、誇れる人生を送る。
それ以外に、自分の存在価値など欠片たりともありはしないのだ。
あの事件から、数年。少年は親戚に引き取られ、普段通りの生活を送った。
そう、他者から見ると彼は完全に立ち直った。そういう風に見えるだろう。
しかし、中身はあの日から何一つ変わらない、赫怒の焔を抱き生きている。
誓いという名の呪いを抱いて、ただ前へ、前へ。
そんな時だった。彼女達を知ったのは。
東奏学園器楽部。出会ったのは偶然であったろう。
少し、聞いただけで少年は理解できた。
彼女達はかつての自分が抱いた夢を体現する理想そのものだった。
それは、もしかしたらあったであろう自分の未来だった。
それは、かつて抱いた原初の憧れだった。
何故だか知らないが、ひどく辛くて、悲しい。
そんな思いを抱ける立場ではないというのに。
『それはまるで、魔法の音だった』
胸に刻まれた“呪い”が唸り声を上げた。
嗚呼、綺麗だ、素晴らしい、光り輝く宝石のようだ。
少年の壊れた夢の残骸が、少しだけ熱を灯って蘇った。
日々、事務的に生きる少年が能動的に興味を持つのは稀である。
彼女達がどんな想いを抱き、音を奏でるのか。
だから、少年は東奏学園へと進学することに決めた。
彼女達から得られるものが何かある。
“呪い”がそう告げている気がしてならないのだ。
例え、届かないとしても。許されないとしても。
その光景を見てみたい、聞いてみたい、感じてみたい。
――少年の中で、“呪い”が蠢いた。
懐かしい感情が胎動する。
あの慟哭よりも前。無邪気に夢見た過去よりも過去のキラキラした世界を想起する。
けれど、それは一瞬のことで。
僅かな間に消え失せたかつての夢は、漆黒の奈落へと滑り落ちた。
そんな安息は必要ない。ああ、でも、それでも、どうしても。
――――――あの、魔法の音がもう一度聞きたい。