一度眠りに落ちたら、二度と目覚めないかもしれない。
そう思ったことは数え切れない程あった。
落ちる場所は既に決まっている。無様に生き残った自分が行き着く先はきっと地獄であろう。
どれだけ時間が経とうとも、あの日に起こったことは拭えない。
何度も、何度も。夢に見る。
家族が無残な死を遂げる姿を。助けて、と手を伸ばしてくる悲嘆を。
それら全てを少年は救えなかった。
苛む絶望は深く、蝕む“呪い”は身体の全身に回りきっている。
凄絶に笑う。凄惨に嗤う。凄愴に嘲笑う。
“英雄”は決して諦めない。
始まりはただ魔法の音が聞きたいだけという利己的な理由だった。
しかし、運命とやらも偶には気がきいてくれることをしてくれる。
“英雄”へと到れる悲劇、困難。自分という無価値な存在が役立つ可能性が生まれてきた。
チューナー、と。少女の涙を拭えるお誂え向きの舞台まで整えてくれたのだ、これを逃さずしてどうするのか。
“呪い”に苦しむ少女達を救う役目を果たす。彼女達の慟哭を、自分が終わらせる。
それは、少年の総てを懸けるに相応しいものだった。
あの甘美なる魔法の音が世界へともう一度響き渡るなら。
不本意ながら、器楽部に自分という異分子が紛れ込むのも仕方がない。
時が来るまでは彼女達の益になるよう、最大限尽くすとしよう。
少女達の涙を、必ず過去へと変えてみせる。
どんな傷であろうとも、誠心誠意向き合い、百点満点の笑顔を自然と浮かべられるように。
少年――チューナーは決して諦めなかった。
どれだけそっぽを向かれても、手を伸ばし続けた、言葉を紡ぎ続けた。
いつか、彼女達があの時奏でた音を取り戻せるように。
最初に器楽部へと顔を見せた時、草薙百花は言った。
君なら私達の呪いを解いてくれるかもしれない。
自分のように家族を護れなかった塵芥が、少女達の呪いに立ち向かう。
そうすれば、少しは“英雄”に近づけるかもしれない。
チューナー君、チューナー、チューナー先輩、チューナーくん、チューナーさん。
信頼を得るにはそれ相応の努力が必要だ。
彼女達の扱う楽器の知識は、全て頭の中に詰め込んだ。
こういう時は、過去の自分が音楽に興味を持っていたことに感謝したい。
調律師として全身全霊を以って、彼女達の救いを取り戻す。
恐れず救え。英雄ならば道は切り拓ける。
見目麗しい彼女達に近づくのに疚しい理由なんてあるはずない。
ただ純粋に、“英雄”を目指すものとして、救いたい。
チューナーの全ては、あの日の罪を償う為だけにあるのだから。
今度こそ、あの日無くしてしまったものを護らせてくれ。
乗り越えられない困難があった、支え切れない悲嘆があった、孤独な戦いがあった。
それでも、ただ前へと。救うという行為だけは掻き消さなかった。
幾つもの苦難を踏破する。そう、決めたからこそ、止まらない。
その不屈の精神が合ったからこそ、チューナーは器楽部員を全員救うことができた。
最高のハッピーエンドを掴むことができたのだ。
誰も彼もが笑みを浮かべ、目尻には涙を貯めている。
ありがとう、と。チューナーに惜しみなく感謝を述べてくる。
もっとも、チューナーとしては当然のことを述べられても、困る。
“英雄”ならば助ける。例え、見知らぬ誰かであっても、チューナーは命を懸けてでも救いに行くだろう。
これでいい。今回は護れた。あの日とは違い、全員の救いを見つけ、取り戻せた。
“英雄”として振る舞えたのなら、チューナーは構わない。
ようやく、復活する。あの魔法の音を奏でた東奏学園器楽部が、再び。
――――そこに、チューナーの居場所はもう必要ない。
■
おはようの合図はいつだって悪夢の終わりだ。
今日もあの日起こった罪の象徴たる光景を脳に刻まれ、チューナーはゆっくりと起床する。
ぐるりと視界を見回し、指を動かす。五体満足、この身体は無様にも生き残ってしまった。
東奏学園に入ったチューナーは親戚の元を離れて、一人暮らしだ。
幸であったのだろう、親戚は良心的な性格であり、家族の惨殺に見舞われたチューナーに対してもひどく優しく接してくれた。
大人として出来た人達だ、自分にはもったいない。
――ありがたいとは思うけど、僕にそんな価値はないんだけどな。
チューナーは心の底から自分にそのような心配は無用だと感じている。
どれだけ大切にされようが、愛されようが、自分の犯した罪は到底消えるものではない。
一生、死ぬ間際までこの罪を抱えて生きていかなくてはならない。
真綿で首を絞められているかのような鬱屈感が常に付きまとうこの世界で、少年は“英雄”になる為だけに生きていく。
朝食を適当に済まし、学校の制服に着替える。
そして、登校までの余った時間は調律について、知識を蓄える。
楽器というのは奥が深い。それも、器楽部員全員分となると、最低限のラインを越えるだけでも一苦労だ。
しかし、その程度で満足するのは拙い。
やるからには完璧に。加えて、相手の満足を引き出すべく、チューナーは日夜色々な本を読み漁り、調律師として技術と知識を深めていった。
時には教えを請い、手段を選ばず研鑽する。
けれど、その日課ももうすぐ必要がなくなる。
彼の役目は終わり、器楽部は元の形へと戻るだけだ。
学園に入学してから続いたルーチンワークも今度は別の形になるだろう。
平均より少し遅い時間に家を出て、チューナーはのんびりと登校する。
電車を使わない立地に自宅があるおかげで、登校時間の調整は緩やかだ。
更に、今日はホニャもいないので静かな登校となる。
「はぁ、朝からチューナーと会うなんて今日はツイてないわね」
「おはようございます、葉月先輩」
とはいえ、こうして器楽部員と投稿途中に遭遇することはよくある。
クラスメイトの友人と会うこともあるし、学校まで一人で登校は稀だ。
「全く。今度から登校時間を変えようかしら」
「手厳しいですね。一応、同じ部活という縁があるんですけど」
「それだけじゃない。私達の間柄にそれ以上はないから。ないから」
「何で二度言ったんですか」
「強調したの。あなた、強く言わないとわかってくれないもの」
「それは仕方がないですよ。その物言いを潜り抜けなければ、葉月先輩を救えなかったので」
その中でも今回はレアケースを引き当ててしまった。
浅野葉月という少女は群れることを好まない。
かといって、集団から離れることも嫌う。
チューナーからすると面倒くさい性分を抱えているなあと思うが、口に出したら尚更面倒くさくなるので言えない。
「うるさいわね。私を呪いから救ってくれたことに関しては、その…………感謝、してるわよ」
「珍しいですね。葉月先輩が僕にお礼を素直に言うなんて」
「喧嘩売ってる?」
「まさか。葉月先輩と口論をして、僕が勝てるはずがない」
苦笑混じりに答えたその言葉は本心からくるものだ。
自分のように口下手な人間がまさか対抗できるなんてありえない。
塵はどう足掻いても塵のまま。犯した罪が許される程、自分はまだ、“英雄”たり得ない。
「そうやって自分の卑下するのは好みじゃないわ。仮にも、あなたは器楽部を救ったのよ。
もっと堂々としなさいよ。……じゃなきゃ、あなたに救われた私がバカみたいじゃない」
「とは言われても、困りますね。僕がしたことなんて失くしものを探す手伝いみたいなもの。
器楽部の皆――葉月先輩達は強かった。元々、立ち上がれる強さを持っていたんですから。
僕がしたことはそこまで評価されるべき事柄ではない」
葉月のように仲間を尊び、ストイックに部活へと励むのをチューナーは好ましく思う。
表面的には乾いた態度を取っているが、その内に秘めた熱は決して嘘ではない。
チューナーとは違い、彼女は真っ直ぐな思いを音楽にぶつけている。
「あなたの方こそ買い被りすぎね。私はあなたにそこまで言われる程、強くないもの。
他の人達みたいに真っ直ぐに立ち上がれる芯は、ない」
もっとも、彼女自身はそんなものではないと否定するけれど。
儚げに、自虐的に笑う葉月の横顔は夏のとある日に見たものと変わらない。
自分を振り回して、煙に巻いて、そして、彼女の本音を聞いた時を。
「けれど、そんな私をあなたが約束したのでしょう。器楽部に必ず連れ戻すって」
その後、チューナー達により呪いから救われた葉月は無事に器楽部へと戻ることになった。
約束は果たされた。彼が体を張って前へと進んだおかげで、葉月の世界は再び魔法の音が響き渡ったのだから。
「誇りなさい、あなたは浅野葉月を救ったのよ」
その事実だけは誰にも譲らない、と。
彼女の目は言っているかのようだった。
「まあ、いいわ。時間はあるもの。もう三年生は卒業で、これからは私達が器楽部を引っ張っていかなくちゃいけないのよ」
これから先の未来を笑顔で語る葉月が眩しかった。
そこにチューナーを自然に含めていることに彼女は気づいているのだろうか。
出会った当時では考えられないくらい、彼女は心を開いてくれた。
浅野葉月と築いた絆は、決して薄っぺらなものでないという証明である。
「……そうですか」
「まるで他人事ね。あなた、本当に怒るわよ」
「失言が過ぎましたか、すいません。ですが、僕は――」
言い終える前に、後ろから迸った衝撃で言葉が止まる。
「やーやーやーっ! 超絶天才アイドル美少女っ、小田桐アミちゃんの登場だぁー!」
ニコニコと割り込んでくるお騒がしお気楽な先輩を尻目に、チューナーと葉月は深くため息をついた。
ああ、また朝っぱらから疲れることになる。
割かし、アンニュイでデリケートな話をしていたが、もうそんな空気は存在しない。
「おはようございます、小田桐先輩。お願いがあります、できれば一日中黙って下さい」
「いきなりのきっついツッコミ!? はーたんはツンツンツンだなあ。
もうちっと、私はデレが欲しいって思うなっ」
「…………ちっ」
「わざわざ聞こえるように舌打ちしないでよぅ!」
しかし、今回はアミの乱入を感謝したい所だ。
正直、チューナーとしてはここまで葉月が自分に拘るとは思っていなかった。
「ねえねえ、チューナーくんも何とか言ってよぉ。はーたんの態度がセメント過ぎてアミちゃん、泣いちゃうよぉ」
「葉月先輩のセメント態度なんていつものことじゃないですか。
僕よりも付き合いが長いんですから、慣れましょうよ」
「いーやーなーのーっ。私は愛されたいのっ、はーたんのデレがほしいのっ」
「一生手に入らないものですね、それ。じゃあ、私……先行きますから」
「うわぁ、待ってよはーたん!」
きゃいきゃいと話すアミに相槌をうちながら、チューナーは思う。
取り戻した陽だまりは心地良い。もとより、これが本来の器楽部の空気なのだろう。
この温かさがずっと続けばいい、触れていたいというのはチューナーが願ってはいけないものだ。
やはり、間違っている。“英雄”は立ち止まらない。前へ、前へ。ただひたすらに前へ。
この日常に、自分のような異分子はいるべきではないのだ。
「…………チューナーくん?」
チューナーが我に返ると、アミがきょとんとした顔でじっと見つめていた。
アミにしては珍しく、どこか不安気な表情であまり見たことのないものだ。
とてとてとチューナーへと駆け寄り、ぎゅっと手を握り締める姿は、普段の彼女からは考えられないしおらしさが多分に含まれている。
「えっ、ちょっと、小田桐先輩!?」
「いきなり手を握られる覚えはないんですがね。どうかしましたか?」
「いや、うーん…………なんでもないっ。たぶん、アミちゃんの勘違い!
チューナーくんはここにいる。ずっと、アミちゃんと一緒だもんね~」
それっきり。アミの表情は元に戻り、いつもの弛緩した空気に戻った。
きっと、気のせいだ。お互い、深く考えることもなく、その場は流れていく。
――耳障りなノイズ音が、少し大きくなった。